あざみ野フォト・アニュアル2025「川崎祐 わたしの知らない場所の名前」
会期:2025/01/25〜2025/02/23
会場・主催:横浜市民ギャラリーあざみ野[神奈川県]
公式サイト:https://artazamino.jp/event/photoannual2025-kawasaki
(「ハンドアウトを眺める①」より)
川崎祐「わたしの知らない場所の名前」のハンドアウト(B4二つ折り)中面のスキャンデータ、書き込みは筆者による。左ページに展示室の平面図と壁面ABの立面図。右ページより出品リストとなり、裏面まで作品のナンバリングが続く。このほか、川崎が執筆したテキストのハンドアウト、インタビューのハンドアウト、パンフレットが存在する
どうやら壁沿いに写真を追って進んでいけばよいようだ、とすぐ気づく。部屋の隅にはテキストの書かれた紙が積まれているが、始まりは色が明るく、終わりは暗くなるようだった。それも、歩くより早く進む私の目が隅を通過するたび、紙の色がトーンダウンしていくことに気づけるからだ。いま気づかなかったとしても、手に取るうちに気づいただろう。入口すぐにあるはじめの4枚は、きっと短い時間を挟んでシャッターが切られた湖の写真だ(1、2、3、4)。小舟が横切っていく。明らかな連続写真はしばらく現われないが、歩んでいれば、順に写真は現われるし、その並び順に作家の思うなにか必然性があるのだと思うようになる。時折二段組になるも(12、13/18、19/25、26)、縦に二つ並んだ写真は私のひとつの視野に無事に納まる。私は同時に二枚を見る。途中の壁面A、Bはそれぞれグリッド状に写真が並ぶが、そこでは鑑賞時の時系列も作品同士の関係性を拘束しないことが示されている。順に進んでいくなかで「光景」「未成の周辺」「わたしの知らない場所の名前」と三つの作品群が現われるが、作品のタイトルキャプションは膝くらいの高さに示される★1ので、写真の連続は途切れない。映っている人の髪や、草むらや、雲が、風になびいて私の目線を運んでいく。気づくと★2次の作品群が始まっている。そのとき作品群は、前の作品群のある壁に食い込んで始まっている。「光景」に食い込む「未成の周辺」(52、53)、「未成の周辺」に食い込む「わたしの知らない場所の名前」(113)。タイトルキャプションで区切りはわかるが、作品をまたいだ写真は例えば水辺のゆらめくイメージだったり、漠とした風景の引きの撮影だったりで、分かれ目を意識することなく見ることもできるようになっている。一番最後の黒い紙を手にすると、もう展示室の入口に戻っている。
一枚一枚の写真をよく見ようとすることと、何かが始まって終わることの見せ方が、明快な展示構成の手つきによって実現している。このように歩いていけばいいのだ、という安心をフロアプランの数字は私に与えてくれる。そのような数字が写真の一枚一枚に振られていて、タイトルはなく、プリントサイズは展示箇所ごとにおおよそ共通している。そうなると、出品リストに示された情報のうち、よく見ておきたいのは撮影年だろう。数年の範囲で時間が前後していることは、撮った順序と見せる順序の差異がある、という当たり前の事実を伝えている。一方、三つの作品群については、それぞれ取り組んでいた期間の重複があるにせよ、取り組み始めた順序で言えば時系列である。展示の機会は、現にあった順序を組み替える作業でもあり、それにより出来事に取り返しをつけていく作業でもある。展示は、作品と制作に出会い直すための、誰よりも作家にとって重要な機会である、ということを思い出す。私(たち)はそれを後から追っていくことしかできない。
川崎が本展に設けた順路、もとい鑑賞の順序を実現する移動はスムーズだ。一方、そのスムーズさを支えるフロアマップ(と展示構成)に対して、配布されているテキストは私が「わたし」でも「あなた」でも「きみ」でもないことを際立たせ、私がカメラの手前にも向こうにもいなかったということを明らかにしていく。出品リストの数字の並び(とそのひとつひとつが備えているイメージ)、そしてここにない多くの写真を思うことで、そのことはより際立っていく。
出品リストに並ぶ数字の向こうへ迫ろうと思わなければ、設えられた鑑賞の経験に満足できるし、ひと通り見たと思えるのかもしれない。そう思える道を設え、空間として実現してしまえることを展示の巧みさと言うこともできる。だから、一巡に向けたその巧みさに逆らって、川崎の写真に迫ろうとすることはとても難しい。写真の前を進み続けることに、正対してもなお迫れないことに、私が葛藤しないで済むようにここは設えられているとも思ってしまう。それがどこか悔しく、惜しく、寂しいと感じる。
6時間かかる路線バスの車窓から熊野の山々を撮影し続けた「未成の周辺」の連続した写真は、なめらかなガラスの向こうに流れゆくものを見ようとする方法の示唆だったのかもしれない。スムーズに足を運べたことよりも、私が何に思わず足を止めてしまったのかを思い出したい。順路を、どうしたらありえたひとつの順序にすぎないものだと思えるか……。
★1──ハンドアウトや会場サイン、広報物のデザインは岡田和奈佳。
★2──気づくと、というのは文章にするうえでの言い方でしかない。一枚一枚の写真に顔を向け、ゆっくり歩いていても、写真より下にあるタイトルキャプションは視野に入る。「いま、この写真から、次の作品になりました」とそこで言われることは遠目に予感されている。すでに気づいている。だからここで私が気づいたのは、次の作品群が始まることではなく、次の作品群がここから始まりますと示されていたところへ自分が辿り着いたことなのだろう。
観賞日:2025/02/01(土)
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「こう見せる」という意思表明としてのフロアマップと、「こう見られたかもしれない」という可能性の束としての作品リスト。順序ある経験、そして経験のなかにある順序化しえない物事を作家ないしはキュレーターがどう捉えているのかをハンドアウト越しに想像してみる。訪れた展示について、写真を見返すよりハンドアウトから思い出してみる方が、「こう見せる」と「こう見られたかもしれない」の間にある「こう見える」を考えられそうな気がしてきたので、不定期にこの切り口でまた書いてみます。