2023年9月の「still moving final: うつしのまなざし 学長室壁画引越しプロジェクト」に続くかたちで、京都市立芸術大学の壁画教室のアーカイブ研究を進めている。この研究の中間報告を兼ねて、2025年3月20日から30日にかけて大学キャンパス内で実施される赤松玉女 退任記念展「Ladies──これでおしまい、そしてここから」の片隅で小さな資料展示を行なうため、目下準備中である(赤松玉女現学長は、2002年度から学長就任前の2018年度まで壁画教室の担当教員)。

研究協力者であり、沓掛キャンパス(旧キャンパス)学長室壁画の作者でもある川田知志が、東京都現代美術館の「MOTアニュアル2024 こうふくのしま」(2025年3月30日まで)で超大作《ゴールデンタイム》(2024–2025)を発表したほか、年が明けてから第43回(令和6年度)京都府文化賞奨励賞第2回絹谷幸二芸術賞大賞の2つの賞を受賞し、時の人になっている。そこで本稿では、この《ゴールデンタイム》を中心に川田の活動について書こうと思う。

美術館に「上書き」する

展示室に入った瞬間、想像を超えた風景に出会った。

その存在自体を極力主張しないように作られた美術館の白い壁面を、高さ6.5m、部屋の一周約50mまるまる「上書き」して作られたこの作品は、決して巨大な絵画などではなく、どこからどう見ても、まごうことなき「壁画」だった。ここが東京都現代美術館のなかのひとつの展示室であるのは間違いないのだが、そのような属性など、もはやどうでも良くなってしまう。わたしがこれまで観たことのあるどの川田知志作品よりも、理想的な「壁画」だ。

川田知志《ゴールデンタイム》(2024–2025)会期後半の展示風景[撮影:福永一夫 提供:東京都現代美術館 © 川田知志]

川田知志《ゴールデンタイム》(2024–2025)会期後半の展示風景[撮影:福永一夫 提供:東京都現代美術館 © 川田知志]

川田知志《ゴールデンタイム》(2024–2025)会期後半の展示風景[撮影:福永一夫 提供:東京都現代美術館 © 川田知志]

とにかく、この空間に入るなりわたしは「うわー、これはとてもハッピーだな……」と思ってしまった。シンプルに。そしてなんだか気分が良くなって、部屋のなかをのんびり、何周もした。この感覚は、空間に身を置いてこそ、というものなので、写真や文章ではなかなか伝わりづらいかもしれないのだが、とりあえず順を追って説明したい。

大阪都市圏のベッドタウンである寝屋川市に育った川田にとって、淀川の河川敷は格好の遊び場で、橋脚に描かれたグラフィティは日常の風景のひとつであった。そうしたなかでカウンターカルチャーに興味を抱いていた川田は、壁画を学ぶため、油画専攻内に壁画教室★1のあった京都市立芸術大学美術学部に進学する。そして、壁画教室でフレスコ画の技法に出会う。

川田知志にとってのフレスコ画

フレスコ画の代表的な技法、ブオン・フレスコ(Buon Fresco=真のフレスコ)では、砂と消石灰(石灰石[炭酸カルシウム]を焼成・消化したもの)と水を混ぜてつくった漆喰の上に、水で溶いた顔料(粉末状の色素)で描画する。漆喰が乾き切る前(「フレスコ[Fresco=新鮮]」な状態)に描画することで、石灰水が顔料を覆い、空気中の二酸化炭素と反応して透明な結晶「カルサイト(calcite)」となって顔料を閉じ込める。時間が経つにつれて石灰の透明化が進み、色素がより馴染んでいく。このように、膠や油などの定着剤を用いることのないブオン・フレスコでは、顔料の鮮やかな色素を何千年もの間、保ち続けることができる。なお、基本的なブオン・フレスコの手順では、まず「アリッチョ(arriccio=下塗りの漆喰)」を塗る。その上から、「シノピア(sinopia)」と呼ばれる赤褐色の顔料で下描きをする。次に「イントナコ(intonaco=上塗りの漆喰)」を、その日のうちに作業ができる分だけ塗る。この塗布面を「ジョルナータ(giornata=1日分)」と呼ぶ。該当箇所を水で十分に湿らせてから漆喰を塗り、生乾きのうちに描画する。翌日にはまた続きを塗り継いでいく。そうしてシノピアで描かれた下塗りの面は、最終的に上塗りの面で埋め尽くされて完成する。

漆喰が乾いてしまわないうちに描画しなければならないというフレスコ画のもつ制約は、川田にとって、かえって作業に集中させてくれる要素だったという。そして、顔料の鮮やかな色彩がそのまま画面にあらわれること、同じ顔料でも刷毛でのせ方をコントロールするだけで発色が変わるということも大きな魅力であった。自身の表現したいこととフレスコ画の性質が複合的にフィットし、在学中はもちろん、現在に至るまでの十数年間、川田は一貫してフレスコ画を主な表現手段とした壁画制作を続けている。

沓掛キャンパス学長室壁画[撮影:来田猛]
京都市立芸術大学前学長の鷲田清一による学長室の大改造プロジェクトの一環として、2015年度後期に当時の本学関係者の協力のもと、川田知志によって制作されたもの

その日に仕上げることのできる面積でジョルナータの範囲を決め、日々それらを継いでいって、最終的にひとつの面に仕上げるというのがフレスコ画のセオリーだが、学部時代からすでに、パーツごとにイントナコの塗布面を分け、それらをレイヤー状に重ねるという川田独自の表現方法を模索し始めていた。大学院修了後もフレスコ画を続けるのかどうかではなく、どうすれば壁画教室以外の場所でフレスコ画を描けるかを考えていたというほど、川田にとってフレスコ画は身体に馴染んだものになっていたようだ。また、長身の川田にとって、天井高が3m程度の空間であれば、5尺くらいの手頃な脚立が1本あれば壁全面を覆う壁画を描くことができるスケール感である。フレスコ画の技法を用いた壁画制作は、大量の砂や消石灰を扱ううえに、展示場所の壁面に直に漆喰を塗ることもできないため、支持体づくりからスタートせねばならず、かなりの体力勝負となる。川田は持ち前の集中力と恵まれた体格、体力とを活かして、実にさまざまな場所で、その場その場で工夫を重ねながら壁画制作を行なってきた。

川田知志《うつしのまなざし(女史箴図巻)》(2022)制作風景[撮影・編集:片山達貴]
※京都市立芸術大学芸術資料館収蔵品活用展「うつしのまなざし」出品作品★2。同作品のストラッポ(ごく薄い描画層のみを上塗りの漆喰の層から剥ぎ取る技法★3)が「MOTアニュアル2024 こうふくのしま」に出品されている

川田知志《うつしのまなざし(女史箴図巻/ストラッポ)》(2022–2023)ならびに制作資料会期前半の展示風景[撮影:福永一夫 提供:東京都現代美術館 © 川田知志]

展示空間・壁画・身体のスケール

東京都現代美術館「MOTアニュアル2024 こうふくのしま」で発表された壁画作品《ゴールデンタイム》(2024–2025)は、近年の川田の主要な作品と同様に、日本の郊外の均質的な風景をモチーフとして、多様な要素を解体・再構築して描かれている。近作である《築土構木》(2024、京都市京セラ美術館 ザ・トライアングルでの同名の個展で発表)と類似した手法で制作されたものだが、実際に展示空間でみると、かなり違った印象を受ける。写真ではそれが全然伝わらないのが、とてももどかしい。どんな作品にも言えることだが、その空間と一体化している壁画に関しては特に、その場で体験できるものの多くが記録から抜け落ちてしまう。

京都市京セラ美術館 ザ・トライアングル「川田知志:築土構木」 展示風景[撮影:来田猛 提供:京都市京セラ美術館]

京都市京セラ美術館 ザ・トライアングル(地下)の天井高が約3mであるのに対し、東京都現代美術館の展示室の天井高は約6.5mである。《築土構木》を含め、これまで川田が手がけてきた壁画のほとんどは、前述のようにほぼ川田自身の身体のスケールとその延長線上に収まっていたわけだが、6.5mだとそうはいかない。けれどここでは、川田は鮮やかなオレンジの高所作業車に乗って、広大な展示室の壁面を上下しながら自在に筆を走らせており、その身体はあきらかな拡張をみせている★4。天井から地面までをほぼ貫通するイントナコの層が複数あり、その上には、もしかしたらこれはワンストロークなのかもしれない、と錯覚してしまうような伸びやかな線が描かれているのだ。圧巻である。


川田知志《ゴールデンタイム》(2024–2025)制作風景[撮影:福永一夫 提供:東京都現代美術館 © 川田知志]



川田知志《ゴールデンタイム》(2024–2025)会期前半の展示風景[撮影:福永一夫 提供:東京都現代美術館 © 川田知志]

高さ3m程度のサイズであれば、壁画と大画面の絵画の違いを、まずフレーミングされているか否かというところに見出す鑑賞者が多いのではないかと推察する。意識的に壁画だとして鑑賞していただくことを希望するが、見方によっては、めちゃくちゃデカい絵画、と考えることもあるかもしれない。しかし、高さ6.5m、一周50mというサイズ感だと、これはもう絶対的に壁画である。わたしが冒頭で「壁画」とカッコつきにしたのは、そういう意味をこめているからだ。なんなら「壁画!」でも良い。

そもそも、壁画とは建築物と一体化したものであり、それが見える場所にいるならば、その人をとりまく風景の一部になる。では、この「壁画」はどうだろう。「壁画」に四方を囲まれた空間にいると、意識的に見上げでもしなければ天井が視界に入ってこない。いまここ、から見える風景のすべて(入り口と出口以外)がすなわち「壁画」なのである。壁画とは何であるかを、これ以上はないくらいに物語っている。

郊外のありふれた景色を描き、そのなかに身を投じる

また、この「壁画」に描かれているのも、具象的な風景画ではないが「風景」である。「MOTアニュアル2024 こうふくのしま」参加作家インタビューでも触れられているように、川田は近年、「身の回りの社会状況をリアルに投影できる」ものとして日本国内のどこにでも見られるような「ありふれた景色」をモチーフとして壁画を制作している。日本の地方都市を構成するさまざまな要素が解体され、抽象化したうえで再構築されているためストレートには伝わらないかもしれないが、これは自分にとっての風景であり、鑑賞者にとっての風景でもあるのだと。そして、描くことそのものよりも、その空間全体のなかにいることに心地良さを感じて壁画を学び、自身が描く風景のなかに自分の身を投じたいというシンプルな動機で壁画制作の活動を続けているのだと話している。

《ゴールデンタイム》では、一番奥のイントナコにシノピアで大きなモチーフが、その補色に近い鮮やかな青い顔料で線状のモチーフが描かれている。シノピアとは前述の通り、伝統的なフレスコ画の手法ではアリッチョの層に下描きとして用いられる赤褐色の顔料で、その名称は小アジア(Mikra Asia/現在のトルコ)のシノペ(Sinōpē/現在のスィノプ)で古くから赤土が産出されたことに由来している。セオリー通りのフレスコ画では、最終的にはすべて覆われてしまって外には見えることがないが、川田は近年、積極的にこのシノピアを、青い顔料とともに用いている。暖かく落ち着いた色味であるだけでなく、単色でも濃淡が出しやすく、奥行きのある表現が可能な色だと言える。そしてその上に黄、緑、橙の大きく力強い幾何学的でスピード感のある(実際、川田は描くのがとても早い)モチーフが描かれた層が重なっている。いずれも、鮮やかだが目にまったく違和感はなく、ずっと見ていられるような心地よさがあり、何より気分が明るくなる。現代的にフレスコを解釈し、独自の表現が確立されているが、意外に西洋絵画のセオリーに則ってもいて、逸脱し過ぎないゆえの安定感がある。それもまた、作品のモチーフとなっている日本の郊外の風景を構成する要素にも共通して言えることだ。


川田知志《ゴールデンタイム》(2024–2025)会期後半の展示風景[撮影:福永一夫 提供:東京都現代美術館 © 川田知志]

この部屋の普段の状態、つまり緊張感のあるホワイト・キューブに「上書き」して描かれたこの「風景」は、イリュージョンであるか否か。わたし自身は、この作品はそういった概念を超えた、あるいは別の次元にある、と思っている。かつてフレスコ画は、教会建築の内部の壁や天井を覆いつくすように描かれてきた。しかしこれらの壁画に囲まれた空間と、川田の描く壁画に囲まれた空間は、その目的をまったく異にする。というよりも、宗教画のようにあまりに明確な目的のためには描かれていない。むしろ目的は意図的に曖昧である。それが、川田の考える現代の壁画のあり方だからだ。

この「壁画」はきっと、そういうことを考えずにシンプルに堪能したほうがいい。川田が長年取り組んできた壁画制作の集大成であり、ある意味でやりたかったことがほとんど実現した作品であることは間違いない。觔斗雲に乗った孫悟空のように、自身の身体のスケール感を超えて縦横無尽に動き回り、描き切った満足感と達成感の気配が色濃く残るこの空間にいると、自分までハッピーな気分になってくる。

今後、こんなに恵まれた条件でいつでも描けるわけではないだろうが、思わず拍手を送りたくもなるような理想的な「壁画」を成立させた川田には、山を登り切った先にある新しい風景が見えていることだろう。この次に何をみせてくれるのか、とても楽しみである。

参考文献:
「MOTアニュアル2024 こうふくのしま」リーフレット https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/MOTannual2024_leaflet.pdf (最終閲覧日:2025年3月7日)
「MOTアニュアル2024 こうふくのしま」参加作家インタビュー(映像)https://youtu.be/D3seMWRYc1Q (最終閲覧日:2025年3月7日)
「ザ・トライアングル──川田知志:築土構木」カタログ https://kyotocity-kyocera.museum/wp-content/uploads/book_triangle_2024kawata.pdf(最終閲覧日:2025年3月7日)
宮下孝晴『フレスコ画のルネサンス:壁画に読むフィレンツェの美』(日本放送出版協会、2021)

★1──川田の在学中には壁画教室は独立したひとつのゼミであったが、2014年に「油画1」ゼミに統合された(現在は「油画1」、「油画2」、「油画3」の3つ)。
★2──《女史箴図巻》は、中国、東晉の顧愷之(こがいし/344頃–406頃)筆と伝えられる絹本着色の絵巻で、西晋の張華(232頃–300頃)が宮中の女官の心得、守るべき作法を説くためにまとめた「女子箴」をもとに一節ごとに絵で表わしたもの。原本は失われ、唐初の模本がロンドンの大英博物館に収蔵されている。
なお、川田は本作品を制作するにあたり、京都市立芸術大学芸術資料館収蔵品である《女史箴図巻》模写(木下章・岩井弘・岩倉壽・宮本道夫、1977)を参照した。
★3──「ストラッポ(strappo)」とは、フレスコ画の修復・保存のために移動させる必要のあるとき、ごく薄い描画層のみをイントナコ層から剥ぎ取る技法。フレスコ画の壁面に膠を塗り、寒冷紗(粗めの布)をかぶせて再び膠を塗る。さらにその上から同じ手順でもう一枚の寒冷紗をかぶせて膠を塗る。膠が乾燥したら寒冷紗の端を持って隅の方から引き剥がす。裏面を整えたあと、キャンバスなどに裏打ちする。それを40度前後のぬるま湯で洗い流し、膠とともに2枚の寒冷紗を剥がす。そして歪みのこない支持体に貼る。
膠のような水溶性の接着剤で貼り付けた布でフレスコ画を引き剥がし、その後で膠を洗い流してもフレスコ画の彩色が流れないのは、フレスコ画の絵具が漆喰表面に接着しているのではなく、漆喰が乾燥の過程で空気中の二酸化炭素と化合して、炭酸カルシウムとなって凝固する際に、顔料が結晶内に完全に封じ込められることによる。これはブオン・フレスコの場合のみで、漆喰が完全に乾いた状態で描くフレスコ・セッコ(Fresco Secco=乾いたフレスコ)で加筆された部分があればあらかじめ樹脂で皮膜を作っておき、膠を洗い流すときに絵具も流れてしまわないようにする。
なお、古くは壁ごとブロックで切断する「マッセッロ(massello)」という方法で移動がなされていた。イタリアでは18世紀の前半まではこの方法が盛んに行なわれていたが、壁を適当な大きさに分けて切り、鉄柵で締めて一つずつ移動させるブロック移動は非常にリスクが高く、壁画を壁体から安全に引き剥がす方法として、スタッコ(stucco)とストラッポという技術が生み出されることになった。スタッコとは、イントナコ層の全体をアリッチョ層の全体から剥がす方法。大画面を剥がすには不向き。描画層にも負担がかかるため、最近では用いられていない。
川田の近年の壁画作品の多くは、ストラッポまでを一連の工程としているが、《ゴールデンタイム》においてはストラッポを行なわない予定であるため、本稿では注での技法の説明にとどめる。
★4──「MOTアニュアル2024 こうふくのしま」の会期前半、川田は現場で制作を続けていた。完成して以後の会期後半は、次の部屋の展示映像が《ゴールデンタイム》の制作風景を記録した映像に差し替えられており、高所作業車に乗って筆を走らせる川田の姿を映像越しにみることができる。

MOTアニュアル2024 こうふくのしま
会期:2024年12月14日(土)~2025年3月30日(日)
会場:東京都現代美術館(東京都江東区三好4-1-1)
公式サイト:https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/mot-annual-2024/