会期:2025/01/11〜2025/01/19
会場:山口情報芸術センター スタジオB[山口県]
公式サイト:https://www.ycam.jp/events/2025/monument-of-odour-forgotten-eros/

匂いを保存することは可能だろうか。匂いというのが何らかの化学物質が鼻の粘膜に付着することで感じられるものであることを考えれば、その化学物質を保存することイコール匂いを保存することだと考えることはできるかもしれない。山内祥太+YCAMによるインスタレーション型パフォーマンス作品『匂いのモニュメント 忘れられたエロス』(コンセプト・構成・演出・映像:山内祥太、共同演出:捩子ぴじん)は、「匂いが失われた社会」を描く作品であり、タイトルにもなっている「匂いのモニュメント」はそんな社会で「匂いを残そうとする人たち」が残したものだという。

パフォーマンス会場に入った観客はまず、文字通りのホワイトキューブに設られた展示物を見て回ることになる。壁面にはアラン・コルバン『においの歴史〈新装新版〉──嗅覚と社会的想像力』(山田登世子・鹿島茂訳)からの引用や「社会的発散物」とタイトルの付された詩のようなもの、そして空間内に配置された4つの透明な什器に関する説明書きが額に入った状態で掲示されている。「想像する(略)この世界から匂いがなくなってしまう未来を」「想像できる?(略)匂いという文字も言葉も、この世界から消えてしまう未来を」と語りかける「社会的発散物」の言葉と「匂いを後世に残すことを目的に作られた」という「匂いの墓」の存在が観客に「匂いが失われた社会」への想像を促す。

[撮影:山中慎太郎(Qsyum!)、写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]]

[撮影:山中慎太郎(Qsyum!)、写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]]

4つの「匂いの墓」はそれぞれ3層構造になっており、「第1の階層には、匂いを継承することに同意した人々(以下、匂いの継承者)から採取した常在菌を培養するためのシステムが構築されている」。これは本作において「匂い」として保存/再現されるのが、「体臭を構成する要素のひとつ」である、「身体から分泌された汗や脂、垢の成分を、皮膚表面の常在菌が分解することで匂いの物質が発生するプロセス」であるためだ。第2の階層にはそれらの菌が「人工汗液を分解して生成した、複数の匂いサンプル」が、そして第3の階層には「香りの肖像」として匂いの継承者が愛用している服や装飾品、「香りの製品(洗剤、ルームフレグランス、香水、制汗剤)」、「香りの記憶物 匂いにまつわる物理的なものや、それに関連する記憶や個人を象徴する品々」、「『匂いの墓』を制作する際に用いられた研究資料」が保管されている。

開場してしばらくすると、観客のひとりがおもむろに部屋の隅に積まれていた白いTシャツを手に取り、それを天井から垂れ下がるケーブルに吊り下げ「匂いの墓」から取り出したスプレーを吹きつけはじめる。説明書きの通りであるならば、吹きつけているのは消臭剤のようなものだろうか。吹きつけてはシャツの匂いを嗅ぐことを繰り返すその人物の様子は、匂いが消えたかを確認しているようにも付いた匂いを確かめているようにも見える。だが、そのどちらであるかを観客が知ることはできない。

[撮影:山中慎太郎(Qsyum!)、写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]]

同じように歩み出た9人の人々は、吊るしたシャツや周囲の空間にスプレーを撒きながら歩き回り、やがて自らの着るカラフルな衣服を脱ぐとそれを吊るされた無個性な白Tシャツと交換しはじめる。一方、壁面に映し出されたCG映像では、片手を天に差し上げた人々の脇から匂いと思しき気体が立ち上っている様子が映し出される。立ち上るそれが上空で合流し、ひとつの大きな塊になったところで会場は暗転。再び明かりが点くとそこには片手を天に差し上げた状態でマネキンのように凍りついた白Tシャツ姿の人々が立っているのだった。

[撮影:山中慎太郎(Qsyum!)、写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]]

壁面に掲げられた「社会的発散物」には「私たちの遥か頭上をクラゲのように遊泳」し「次第に大きなバルーンのように膨ら」む集合的無意識への言及があった。「その煌々とした姿に、誰もが思考を手放した」という記述は凍りついた人々の姿とも重なるものだろう。凍りついた人々の姿は博物館の再現ジオラマを思わせる。だとすれば、観客の目の前で展開されたのはある種の創世神話の再現だったのかもしれない。観客は匂いが失われた未来の視点から振り返るかたちでその再現に立ち会うのだ。匂いを奪われた人々が無個性な白Tシャツ姿になるのと入れ替わるようにして、吊るされた衣服はカラフルなものへと置き換えられることになる。これもまた失われた匂いの展示の一環なのだろうか。

やがて再び動きはじめた人々は「匂いの墓」から匂いサンプルを取り出すと、その液体をガラスデキャンタで混ぜ合わせ、互いにその匂いを嗅いではさらにそれらを混ぜ合わせていく。ワイングラスでするようにデキャンタをカチンと触れ合わせてから互いの持つ匂いを嗅ぎ合う姿は社交の場で嗜好品を楽しむ人々のそれを思わせる一方、体臭を模したそれらを混ぜ合わせる行為は生々しくもある。互いに匂いを嗅がせるために差し出される螺旋状の管の交差はDNAとその混淆を思わせ、社交の場は体液の交換を伴う性行為と二重写しになるだろう。

[撮影:山中慎太郎(Qsyum!)、写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]]

しかし、限られた匂いサンプルの混淆はやがて平衡状態に至るほかない。デキャンタは観客にも差し出されるのだが、混淆を繰り返したデキャンタの中身は当然のことながら最終的にはどれも同じ匂いへと収斂してしまうのだった。そうして墓から再生された匂いは再びの「死」を迎えることになるだろう。

しかし、そもそも体臭を生きた人間から切り離して保存することなど可能なのだろうか。体臭というのは人間の生命活動に応じて時事刻々と変化するものであるはずだ。ならば、人体から切り離された時点で体臭という匂いはすでに「死んだ」ものになってしまうのではないだろうか。いや、だからこその「忘れられたエロス」(=生)あるいは「匂いの墓」という名づけであったか。差し出されたデキャンタから漂う匂いはたしかに人体に由来することを感じさせつつ、その裏に貼りついた微かな腐敗臭と人工的な化学薬品臭はそれが体臭のゾンビとでも呼びたくなるような、体臭とは似て非なるものであることを告げていたのだった。

[撮影:山中慎太郎(Qsyum!)、写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]]


観賞日:2025/01/12(日)