会期:2025/02/01~2025/03/22

会場:NANZUKA[東京都]
公式サイト:https://mschfmaterialvalues.com/

「Material Values」はアートコレクティブMSCHF(ミスチーフ)による個展である。本展は、作品の市場価格が素材の市場価格を下回った瞬間に融解するようにセットされたインジウム製の彫刻シリーズ「MATERIAL VALUE SCULPTURES」をはじめとした三つの作品シリーズで構成されており、公式のリリース★1によれば「マルセル・デュシャンのレディメイド作品やアンディ・ウォーホルの《ブリロ・ボックス》や 《キャンベルのスープ缶》などをめぐる、アートの定義や価値についての歴史的な議論(中略)を、現代の経済構造やテクノロジーを背景に、悪戯めいた作品の形式に昇華させてい」るという。

MSCHF、それはさまざまなバイラルの影に浮かんでは消える謎めいたクリエイティブ集団——というのが世間一般における印象だろう。実際、その活動は多岐にわたる。Vansのオールドスクールを大きく歪ませた「Wavy Baby」や、鉄腕アトムをオマージュした「Big Red Boots」といったハイプなフットウェアを通じて触れた者もあれば、ダミアン・ハーストのプリント作品をドット単位で切り分けて販売する《108 Spots》や、ボストン・ダイナミクス社製のロボット犬にペイントボールガンを取り付けオンラインで操作可能にした《Spot’s Rampage》などのアートプロジェクトでその存在を知った者もあるだろう。こうしたウィットに満ちた捉えどころのなさこそがMSCHFの魅力であるわけだが、そこに何か核のようなものを見出すならば、それは「応答し続けること」そのものだと言えるかもしれない。MSCHFは創設以来、2週間ごとに新作をドロップし続けてきたという。都市を滑るスケートボーダーや波を捉えるサーファーのように、世界へのリアルタイムな応答の技芸として、彼らの活動は位置付けられる。だからこそ、その手つきには多くの場合何らかのウィット——ボケあるいはツッコミ——が入り込んでいるのだ。

さて、これらをふまえてあらためて本展のタイトル「Material Values」を見てみよう。物質主義的価値判断——MSCHFらしく素直に・・・皮肉として捉えるならば、ここには「物質だけが価値のすべてではない」という含意が読み取れるだろう。これは翻って、物質的価値と市場価値が往々にして乖離するアート(あるいはその他の投機的な諸物)に対する問いかけとなる。しかし、この解釈にはどうにも引っかかりを覚える。物質を基盤とする大量生産・大量消費によって駆動されていた産業資本主義はとうに終わりを迎えており、今や世界は有形無形の資産のあいだにおける価値の高速流動=金融そのものによって動かされている。物質materialはもはや問題matterではない。インジウムの彫刻が溶けるよりも早く、すでにこの世界のすべてのものは金融の海に溶け込んでいる。ではそんな状況下で、彼らは物質をどのように捉えているのか。

照明を落とした1階スペースはすべて、インスタレーション《RAIN CUBICLE SCULPTURE》(2025)のために用いられている。無機質なオフィスの一角を切り取ったようなボックスに豪雨が降り続けるこの作品の解説には「2025年の人類の視点では、この作品はパンデミックの影響でリモートワークが普及した結果、伝統的なセパレートタイプのオフィスが廃墟化し、人影のない遺物と化した状況を反映しています。これは、2000年代初頭にAmazonに代表されるオンラインショッピングの広がりによってアメリカのショッピングモールが辿った運命を想起させます」とある。これは即座に、奇形化したノスタルジーの美学——ヴェイパーウェーブ的なショッピングモールの風景からリミナルスペースまでを貫くような——を思い起こさせる。しかしモールの風景が産業資本主義の終わり、つまり華やかなる消費社会への憧景に紐づくのに対し、無味乾燥なオフィスとはいわば、生産と消費がともに宙吊りにされた無時間性の象徴である。それは、無目的に空間を循環する人工的な雨においてもまた同様であろう。かつてMSCHFはインタビュー★2で、自分たちが制作の際にもっともよく口にするフィードバックは「もっとクソみたいにできないか?」だと語っていた。だとすれば本作は、文字通りのクソみたいな仕事ブルシットジョブを宿したオフィス空間によるレディメイドとしても解釈できる。

本作はSNSを中心に大きく注目されており、たしかにそれだけの視覚的インパクトを持っているように思える。しかし、実際の会場における体験として印象深いのはむしろ、空間に漂う人工的な水の匂いや、皮膚にまとわりつく不穏な湿気、会場の外にまで響く雨音といったものたちのほうであった。つまり、物質を通じて呼び込まれたコンセプトの外部、さまざまな夾雑物こそが展示の質的な多面性を担保しているわけだ。本展に際してMSCHFは「物理的な存在というのは、コンセプトを実現するためのツールにすぎない」と述べている★3。しかし、物質とコンセプトがいずれも完全に等価なものとして交換可能になりつつある現在、私たちに残されているものがあるとすれば、それは物質を介してコンセプトを汚すこと、あるいはコンセプトを誤読することで物質を歪曲することだけではないだろうか。

先に述べたように、MSCHFは「もっとクソみたいにできないか?」と問うことで作品を特定の方向へと先鋭化させている。実際、彼らの作品はクソみたいに明快である。洗練というよりも陳腐化と言いたくなるような類のわかりやすさがそこには横溢している。無論、それは達成なのだが、そうした狙い澄ましたウィットの連続にはある種の徒労感が伴うのも事実だろう。気の利いた一言はごくたまに聞くからこそ面白いのであり、気の利いた言葉だけで構成された会話は胃にもたれる。しかし、それは悲観すべきことではないようにも思う。MSCHFの繰り出すウィットに笑い疲れ、真顔でそれらを見始めるとき──。馬鹿馬鹿しく、大仰で、クソみたいな作品を真に受けるとき──。その時はじめて、作品はコンセプトの外へと転がり出ることができる。

2階ではペインティング作品シリーズ「Animorph Painting」が壁面を取り囲み、空間中央には冒頭で触れた彫刻作品シリーズ「MATERIAL VALUE SCULPTURES」が並んでいる。いずれの作品も人物がモチーフとなっており、1階の《RAIN CUBICLE SCULPTURE》において排除されていた人間が空間に回帰してきているとも言える。フロアを一巡し、ふと目をやるとガラス張りの扉があった。エレベーターの裏側の空間をスタッフ用の簡易的なオフィススペースとして使っているらしく、その様子がガラス扉を透かして見えるのだ。ほんの2〜3人程度が入れるスペースに机と椅子が置かれ、スタッフはMacのディスプレイに向かっている。それはまるで、1階の《RAIN CUBICLE SCULPTURE》から浮かび上がった幻のようにも見える。この奇妙な符号はおそらくは偶然だろう。いずれにしても私が見たのは単なるバックヤードの風景に過ぎない。しかし、無菌的に整えられたコンセプトの群の中で、その映像がいやに生々しく焼きついているのだった。

鑑賞日:2025/02/27(木)

★1──https://nanzuka.com/ja/exhibitions/mschf-material-values/press-release
★2──https://artreview.com/the-interview-mschf-art2-perrotin-los-angeles/
★3──https://artnewsjapan.com/article/26816