最近、ミッド・キャリアと呼ばれるような同世代の作家たちと、美術館で個展を開催するとしたら、という話をする機会が別々に何度かあった。美術館で1000平米程度、またはそれ以上のスペースを使える場合、回顧的な展覧会を開催することは十分に可能だ。とすれば、時系列で作品を紹介するような展覧会にするのか、テーマやトピックで組み立てるのが良いのか、まったくもってケースバイケースではあるだろう。が、何人かと話すなかで共通して出た話題として興味深かったのは、以下のようなことだ。すなわち、どんなかたちにせよ、回顧展というかたちでまとめることでこれまでの活動に大きな句点を打つような語りが生じるだろうが、それが作家についてのナラティブを固定してしまうようなダイナミクスを導いてしまうのならつまらないものになる、ということであった。

ヒーメン・チョンのミッド・キャリアの回顧展

シンガポール美術館(SAM)で2025年5月から始まったヒーメン・チョン(1977年生まれ、シンガポール在住)の個展は、この点を彼らしいやり方で巧みに乗り越えるものであった(会期は8月17日まで)。このことは展覧会の長いタイトル「This is a dynamic list and may never be able to satisfy particular standards for completeness.(これは流動的な内容の一覧であり、完全な内容にするための特定の基準を満たすことはできません。★1)」によく表現されている。このテキストは、Wikipedia(説明の必要もないだろうが、無料で閲覧・編集が可能な世界最大のオンライン百科事典)の免責事項からそのまま引用されているが、これが展覧会タイトルとして優れている理由がふたつある。まず、先述したミッド・キャリアの回顧展にまつわる懸念を先回りして払拭する「免責事項」として読めるということ。同時に、既成のテキストを再配置するこの振る舞いこそ、これまでチョンがさまざまな作品において用いてきた手法であり、また作家の仕事の構造であるということだ。

展覧会は、2000年代初頭から今日までに発表された51作品(SAMとの6つのコミッション作品を含む)から成る、いわゆるミッド・キャリア・レトロスペクティブである。展覧会は展示室ごとに「Words(言葉)」「Whispers(ささやき)」「Ghosts(幽霊)」「Journeys(旅)」「Futures(未来)」「Findings(発見)」「Infrastructures(インフラ)」「Surfaces(表面)」「Endings(終焉)」と題されており、テーマによって編集された展覧会である。が、本展を見て筆者が得た印象は、インスタレーション、映像、テキスト、絵画、プロジェクト、パフォーマンスなど多岐にわたるチョンの実践がテーマごとに整理されたというよりもむしろ、それらの並置によって見渡すことが可能となる作家の関心事や作家の手つき(既存のテキストの再配置もそのひとつである)が、よりくっきりと浮かび上がったということであった。

テキストの再配置が前景化した作品をいくつか挙げてみよう:展覧会冒頭に展示された、チョンがかつて執筆した未完の小説の残滓から成る《Works on Paper #2: Prospectus》(2006/2024)、326冊のスパイ小説を細断し、断片的な言葉や引用句へと変容させた《Secrets and Lies(The Impossibility of Reconstitutions)》(2012)、シンガポールの日刊紙『The Straits Times』(ちなみにシンガポールの新聞市場は『The Straits Times』紙を発行するSPH Mediaの寡占状態にある)に掲載された見出しと、それに伴う写真記録を引用した「Abstracts From The Straits Times」など。

‘Heman Chong: This is a dynamic list and may never be able to satisfy particular standards for completeness’ at SAM at Tanjong Pagar Distripark. Image courtesy of Singapore Art Museum.


Heman Chong, ‘The Straits Times, Friday, September 27, 2013, Cover’ (2018). Image courtesy of the artist

知の再配置と制度への問い

テキストのレベルを超えて、すでに流通している「知」そのものを再配置する作品として《The Library of Unread Books》(2016–)がある。読まないままになっている本が、誰でも手元に一冊や二冊、いや職業柄何十冊も自宅にあるという人も珍しくないだろう。チョンとルネー・スタールが共同で始めたこのプロジェクトは、持ち主に読まれることのなかったそうした本を集めたいわば移動図書館で、地球上で過剰生産・過剰供給された知識の余剰と、その再分配について考えさせられる作品だ★2。ほかにも、委任されたパフォーマーが展示室を歩きながらその日のWikipediaのページを朗読する《Everything(Wikipedia)》(2016)★3も、つねに生産/再生産/編集/削除される情報や知識の流通そのものに意識を向けさせる作品と言える。

こうした再配置は、さまざまなインフラ(法制度、プロトコル、プラットフォーム、ネットワーク、テクノロジーなどを含む)に内包されている政治性やパターナリズム、そしてそのバグやつまずきを露わにするものである。《THIS PAVILION IS STRICTLY FOR COMMUNITY BONDING ACTIVITIES ONLY》(2015)は、チョンの自宅近くに実際掲示されているサインのレプリカを展示室内に掲示した作品だ。日本語にするなら「このパビリオンの使用はコミュニティの交流のみに限る」とでも訳すことができるだろうか、極めて指示的なこのテキストには、シンガポールという国家のパターナリズムが凝縮されている。日常をかたちづくる政治性はあちこちであらわになっている。それらの多くは、わざわざ暴かずとも目に見えるものとして、日々の生活に溶け込んでいるということを、チョンの作品は明らかにしている。第二次世界大戦中にCIAの前身である戦略諜報局(Office of Strategic Services)によって発行された(そして現在も公開されている)破壊工作の手引書を引用した《Simple Sabotage》(2016)は、やはりテキストを壁紙として再配置した作品である。ミスを犯すこと、作業を遅らせること、原理主義的に規則に従うこと、など合法的に生産性を下げる振る舞いを指南している。元々は敵国での破壊工作を意図するための手引きだが、文脈を変えればあらゆる「抵抗」の手段として利用可能であり、それはこうした指示的なパターナリズムへの抗いともなるだろう。

Heman Chong, ‘The Library of Unread Books’ (2016-Present). Installation view of Serpentine Pavilion 2024, Archipelagic Void, designed by Minsuk Cho, Mass Studies © Mass Studies. Photo by Heman Chong

徒歩で記録するということ

筆者は2015年に共同企画した展覧会「他人の時間」★4でチョンの代表作のひとつ《Calendars(2020–2096)》(2012)を展示した。この作品は、チョンが2004年から2010年のあいだに撮影した、人のいないシンガポールの公共空間を捉えた1001枚の写真を用いたカレンダーだ。ショッピングモール、空港、レストラン、集合住宅の公共スペースなどの風景は、資本経済や政策決定(この二つはシンガポールにおいて極めて結びつきが強い)の影響を受けやすい場所である。これらの写真は、未来のカレンダーと組み合わされることで脱文脈化されており、それと同時に、おそらく作家もこの世にいないであろう未来(2096年)を先取りするような、不気味な管理を体現してもいる(2020年にコロナ禍で都市部が無人化し始めたとき、それがチョンのカレンダーの最初の年と符号していることに気づき、まるで自分がSF小説のなかにいるように感じたことを思い出す)。

1001枚というボリュームには力がある。《Calendars(2020–2096)》をシンガポールという都市国家のアーカイブとして捉える向きもあるようだが、筆者はこれにアーカイブよりも集積(accumulation)としての意義を強く感じる(膨大な写真にはインデックスや索引が付されるわけではない)。それらの写真は、そしてそこに写る夥しい無人の風景のバリエーションは、その場所にすでにある政治性を増幅して炙り出し、じわじわと鑑賞者を圧倒する。

同様に、大量の写真記録を用いたインスタレーションに《Perimeter Walk》(2013−2024)がある。シンガポールの国土は東京23区よりやや大きい程度だが、その国境付近をチョンが歩いて撮影した550枚の写真によるポストカードで構成されている。国境はその国の輪郭を文字通り形作る場所である。そのエリアで撮影されたさまざまな写真は、キッチュな雰囲気のスナップから警告のサインまで、国境付近でのさまざまなストーリーを語る。鑑賞者はこの作品を展示室内で安価に購入できる仕組みになっており、550種類のイメージはお土産へと変換され、鑑賞者の日常へとさらに文脈を変えて拡散していく★5

チョンのこうした作品を見ていると、徒歩での移動という、あまりに普遍的な日常行為であるため省みられることの少ない戦術について考えさせられる。たとえば飛行機や公共交通機関、車やバイクなどは、通行可能な場所が限られており、道順の選択の自由が限られている(一方通行、右折禁止、通行止めなど)。他方、徒歩の利点は、(行こうと思えば)多少道なき道であれ歩みを進めることができること。ルートを自分で決定し、行ったり戻ったり立ち止まったりする自由があること。つまり極めて主体的な移動手段であるということだ。国家やシステムの強硬なまでに指示的なパターナリズムに抗して、また既存のシステムやインフラの裂け目を見出しながら、チョンはとにかく歩く。YouTubeチャンネル「Ambient Walking」は、シンガポールだけでなくさまざまな都市や空港で歩き続ける映像をアップロードしたチャンネルだ。作家自身は映っておらず、彼が見ている景色がただまるごと映し出されていく。単なる散歩動画のようだが、そこには普段見過ごされるがたしかにそこにある、さまざまな統治や制御の仕掛け、資本主義的な欲望、またそれらの破綻が写りこんでいる。展覧会には、こうした試みの延長線上にある作品《Modernity and Beyond》(2020)も出品されている。改修中の旧SAMの建物内を、コロナ禍において一人で歩き回った映像である。もともとは学校だった建物を利用した旧SAM内部は、打ち捨てられてさらに不穏な空気が漂っている。チョンの眼差しは、シンガポール文化インフラの廃墟を歩き回る亡霊をなぞるかのようだ。

Heman Chong, ‘Calendars (2020 – 2096)’ (2011). Image courtesy of the artist


Heman Chong, ‘Perimeter Walk’ (2013-2024). Commissioned by UCCA Center for Contemporary Art. Development of Perimeter Walk supported by M Art Foundation. Photo by Heman Chong

ヒーメン・チョンの視覚言語──ミニマリズム以後の美学

さて、もはや紙幅が限られているが、最後にチョンの視覚言語について触れておきたい。チョンは1960年代〜1970年代のミニマリズムやコンセプチュアル・アート、ポスト・コンセプチュアルアートの美学を継承していると言えるだろう。《Paperwork》(2024)は、500枚の鉄のシートを床に円形に並べたインスタレーションで、カール・アンドレの彫刻を思わせる。もともとデザインを学んだバックグラウンドのあるチョンは、今回の会場に掲示された解説も自分でレイアウトしていたが、北米以外でグローバル・スタンダードであるA4というサイズ規範(これもひとつのインフラである)を批評するものである。また、筆者が改めて指摘するまでもなく、河原温はチョンの仕事全体に多大な影響を与えているようだ。河原の「日付絵画」とチョンの「Stacks」(2003年から継続されている彫刻プロジェクトで、前年に読んだ本と飲み物を飲んだグラスなどの日用品で構成され、一年にひとつ制作される)、「Cover(Versions)」(2009年より。まだ読んでいないが今後読むつもりの本の表紙を描くもので、のちに「Things That Remain Unwritten」(2013–)へと展開する)などのシリーズを比較することができる。また、フェリックス・ゴンザレス=トレスの《無題(偽薬)》(1991)を引き合いに出される《Monument to the people we’ve conveniently forgotten(I hate you)》(2004)(黒く塗りつぶされた名刺100万枚が、雪崩上に床に積み上げられたインスタレーション)は、河原の「One Million Years」と比較して語られるべきだろう。こうした点については、別の機会に考察したいと思う。

Heman Chong, ‘Monument to the people we’ve conveniently forgotten (I hate you)’ (2008). Installation view of ‘Individuals, Networks, Expressions’, M+ Museum. Photo by Heman Chong

ヒーメン・チョン「This is a dynamic list and may never be able to satisfy particular standards for completeness.」
会期:2025/05/10~2025/08/17
会場:Singapore Art Museum (SAM)
公式サイト:https://www.singaporeartmuseum.sg/art-events/exhibitions/heman-chong

★1──この和訳はWikipediaの日本語ページから転載。
★2──本作は今夏、東京都現代美術館にて展示される予定がある。https://www.mot-art-museum.jp/news/2025/06/20250530215843/
★3──上海外灘美術館で2016年に開催された個展「Ifs, Ands, or Buts」にてコミッションされた作品。
★4──2015年〜2016年にかけて、東京都現代美術館(企画担当:チェ・キョンファ)、国立国際美術館(企画担当:橋本梓)、シンガポール美術館(企画担当:ミシェル・ホー)、クイーンズランド・アートギャラリー|ブリスベン近代美術館(GOMA)(企画担当:ルーベン・キーハン)へ巡回。《Calendars(2020−2096)》は東京都現代美術館以外の会場で展示した。国際交流基金アジアセンター主催。
★5──写真を大量に反復して用いた作品としては他に本展でも展示されていた「Foreign Affairs」(2018–)のシリーズがある。さまざまな大使館の裏口を撮影した写真を用いている。