知られざる「アートの仕事人」に出会うこのシリーズ、今回は北海道の安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄を訪問しました。モエレ沼公園の宮井和美さんによる「キュレーターズノート」の記事で、その教育普及活動とかつての鉱山のまちの旧小学校跡地を舞台にしていることに興味をもった編集部。通常、ひとりのスタッフにそのお仕事についてお聞きするのですが、今回、取材を申し込んだところ、特定のスタッフではなく全員を取材対象にしてくださいとのご要望をいただきました。それはちょっと変わった運営方法をとられているからだったのです。そんなわけで、今回の記事はインタビューではなく、レポート形式でお届けします。(artscape編集部)
安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄のスタッフのみなさん
[イラスト:ハギーK]
札幌と旭川をむすぶ国道12号線のほぼ中間に位置する北海道美唄市は、かつては炭鉱町として栄え、現在は水田が広がり野鳥の飛来地としても知られる人口1.8万人の小さな町。その中心部から美唄川沿いの山道を少し登ると、山々に囲まれた安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄(以下、アルテピアッツァ美唄)が現われる。7万平方メートルの敷地に残る元小学校の校舎と体育館を再生して、美唄出身でイタリア在住の彫刻家、安田侃の彫刻作品約40点を屋内外に展示する。イタリア語で「アルテピアッツァ(arte piazza)」は「芸術広場」の意味。決まった順路はなく、入場は無料、彫刻には触れてもいい。自然とアートが深く調和した広場を自由に散策しながら、誰もが思い思いの時間を過ごすことができる。安田侃というひとりの彫刻家の精神性が強く反映された場所だ。
炭鉱町美唄で生まれ育った安田侃は、1970年に渡伊。以降、大理石の産地であるトスカーナのピエトラサンタにアトリエを構え、今年同地で大規模な個展が開催されるなど、傘寿を迎えた現在も、イタリアと日本を行き来しながら、精力的に活動している。そして来日の際には故郷美唄に必ず立ち寄り、いまもこの場所をつくり続けているそうだ。
《水の広場》、左手奥がギャラリー(木造校舎)、右手がアートスペース(旧体育館)[撮影:artscape編集部]
アルテピアッツァ美唄は、美唄市より指定管理者として委任された認定NPO法人アルテピアッツァびばいが運営を担う。7人の職員を中心に、作品と環境の維持管理、カフェアルテの営業、体験工房ストゥディオアルテの管理運営等を手がけている。広い敷地をガイドをしてくれたのは、アルテピアッツァ美唄の広報やガイドツアーを担当する泉沙希さん。
「アルテピアッツァ美唄は、1992年に小さく始まり、時をかけて少しずつ作品が増え整備されていきました。彫刻は一点一点、安田本人が位置を決めています。大きなクレーンで彫刻を吊り下げながら着地する数センチ手前でストップをかけて、安田自身が校舎の窓から確認したり、丘の上に立ってみたり、あらゆる角度から空間全体の調和を考えて設置しています。夏と秋の見え方まで考慮していますが、さりげなく、トン、トンと置いたような雰囲気がありますね」と泉さんが言う。遠くの草の茂みに頭だけ見える小さな彫刻も、秋の落葉時にはすっかり全体が現われるという。
場所の記憶と芸術が重なる場所
美唄は短期間に発展と衰退を経験した町だ。日本の近代化と戦後の復興を支えた石炭鉱業とともに人口が増加、一時は9万人以上を記録したが、石炭から石油へ国のエネルギー政策の転換によって急速に衰退、次々と炭鉱が閉山し、人や町並みが消えていった。ピーク時には1,250名の児童が通った旧美唄市立栄小学校も、1981年の閉校時の児童数は62名。閉校後1階を利用していた栄幼稚園も、人口減で2020年3月に閉園した。幼稚園があった頃は、子どもたちが駆け回る声や歌声が2階のギャラリーまで聞こえていたという。「築70年以上の木造校舎の柱の釘跡や傷、床の軋む音、窓から入る音や風や光、そうしたすべてがこのギャラリーの特徴です」と泉さん。建物が主役でもなく、彫刻が主役でもない、両方が重なった新しい空間をつくるという安田のコンセプトは、アルテピアッツァ美唄の体験の核にある。風景の一部となって佇む安田の彫刻に、訪れた子どもたちは親しみを持って戯れる。
「美術館って静かにしなくちゃいけない、作品に触っちゃいけない、禁止事項がたくさんありますが、ここはできるだけおおらかでいようとしています。触れることは自分が生きていると感じること、と安田も言います。旧体育館のアートスペースの作品を見た子どもたちは、たいてい走っていって彫刻に抱きつくんです。子どもは直感的に、これは安心できるものだとわかるんですね」
ギャラリーでの展示風景[撮影:artscape編集部]
《天翔》[筆者撮影]
幼稚園があった頃、毎朝子どもたちが跨っていたという小さな彫刻。つるつるの表面が子どもたちに愛されていた証
ギャラリー(木造校舎)の窓から点在する野外彫刻を見る[撮影:artscape編集部]
アートスペース(旧体育館)での展示風景[写真提供:安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄]
螺旋階段から上がる2階は増設された部分で、安田侃の作品資料室となっている
作品と場所を守るメンテナンス
アルテピアッツァ美唄は平和な場所だと言われる。いつでも誰もが安心できる場所であるために、環境や作品の維持管理と保全は重要な仕事だ。メンテナンスを担当する渋谷尚人さんを中心としたスタッフが、毎朝1時間半から2時間かけて全作品を巡回する。アシスタントの藤原弘生さんは、蜘蛛の巣や鳥のフンをとって、花粉を払って、彫刻の汚れをこまめに拭いたり、芝や木々の枝ぶりを整えたりと、やることをあげたらきりがない。芝の刈り方にも作家のこだわりがあり、牧場やゴルフ場のような一律な刈り方ではなく、かといって草茫々でもなく、自然に感じられるいい塩梅、それが一番難しいと言う。
「枝が伸びてきたら、切るかどうするかまず相談します。安田先生が来られるタイミングで確認することもあれば、これまでのやり取りから判断することもあります。天候や季節によって日々状態が違うので、毎日見ることで変化に気付けます。彫刻についた土やちいさな手形を見て、「ああ、今日はいっぱい愛されたな(笑)って思いながら拭いています」と渋谷さん。彫刻のメンテナンスは、イタリアで修復を学んだ土谷あすかさんが毎年方針を作家と検討して行なう。修復を最小限に抑える予防保全の観点から彫刻のコーティングは欠かせないが、それと同じくらい、日々手を動かすスタッフの存在が不可欠だ。
冬、美唄はモノトーンの世界へ一変する。白い大理石の彫刻は雪が降る前に羊毛を挟んだシートで覆い、凍結による石割れを防ぐ。広場が雪で白く覆われると、黒いブロンズ彫刻の周囲を除雪して道をつくり、風景へのアクセスを促す。彫刻の上に積もった雪もただ下ろすのではなく、彫刻のシルエットを残しながら自然の造形として生かせるか判断する。その「ちょうどいい塩梅」を探る鍵は、日々の観察と経験だ。作品に触ることができるのは専門家だけという美術館の通例とは異なり、アルテピアッツァ美唄では専門家とそうでないスタッフが一緒に作業する。「専門家でなければ美術館は守れない、そんなことはないと、ここで証明している感じです」と泉さんはいう。
「スタッフはみんな縁あってこの場所と出会い、ここが好きで残したいという思いでつながっています。事実、渋谷の先輩にあたる方は炭鉱町で生まれてこの小学校に通っていた人で、『この土地に恩返ししてるんだ』なんていいながら朝早くから作業されていました。そうした地域の人の思いを受け継がなければと思っています」
かつてあった炭鉱町の記憶を引き継ぐために、アルテピアッツァ美唄では炭鉱の記憶をアーカイブしている柳谷亜希子さんがいる。毎年8月には炭鉱の記憶の写真展を企画して、広場では盆踊りを開催する。もう盆踊りをやらなくなってしまった近隣の地区からも、たくさんの人が集まるそうだ。
《天聖》[撮影:artscape編集部]
小高い丘の斜面に並ぶ《天聖》、《天モク》(モクはさんずいに「禾」)、作品の脇に立つのは泉沙希氏[撮影:artscape編集部]
安田侃がセレクトした美術書、炭鉱の歴史と文化、美唄に関する書籍がならぶアルテ文庫[写真提供:安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄]
「思い出の炭鉱写真展」展示風景[写真提供:安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄]
「アルテの盆踊り」の様子[写真提供:安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄]
みんなで考えるNPO組織
NPOの7人のスタッフは、それぞれの主な持ち場のほか兼任で別の場所の業務にあたる。私たちは取材の日、泉さんとアルテピアッツァ美唄の施設を巡りながら、その場にいたスタッフの皆さんにもお会いできた。
インフォメーションで会った主に広報・デザインを担当している影山宏明さんも、普段はカフェでコーヒーを入れていることが多いそう。建築の専門家やいろいろな人がカフェにも来るので、多種多様な質問にも答えられるように常に勉強が必要と、カフェでメニュー開発をしている南野敦子さんも言う。離れた場所にいるスタッフの動きを把握して、午前と午後のシフト(担当場所)を組んでいるのが、事務局チーフの加藤知美さんだ。
カフェアルテ[撮影:artscape編集部]
「ここにはみんなの詰め所になる事務室がなく、それぞれが持ち場へ直接出勤してそのまま帰るため顔を合わせる機会が少ないので、オンラインの日報と月1、2回のミーティングを併用してコミュニケーションをとっています。日報でスタッフが耳にした来場者の感想を知って、ああよかったな、なんて思うことも多いです。さりげない共有はすごく大事だと思います」と加藤さん。
オープンした1992年には、野外に5作品が設置された小規模なスペースで、市の直営だった。2006年に指定管理者制度が始まり、その頃はNPO法人自体が新しい組織のあり方として注目を浴びていたころで、NPO法人アルテピアッツァびばいが管理運営をすることになった(認定NPO法人となったのは2014年)。同法人は芸術振興やアートによる社会貢献を目的としたアートNPOではない。この「芸術広場」を継承していくことが目的だ。加藤さんはもともと美術畑の人ではなかったが、2009年、NPOによる運営の安定のために、NPOのマネジメントに精通していることで加わった。
アルテピアッツァ美唄は、入場料を取らないかわりに広く寄附を募っている。またここを未来へ残す活動をサポートするしくみ「アルテ市民ポポロ」には、全国600人弱が会費を払って参加している。アルテピアッツァ美唄の活動を支える人々に対してきちんと収支内訳書をまとめて活動報告を行なうことが、NPOのマネジメントにおける大切な義務だと考える。(この日の加藤さんは、ストゥディオの隅でNPOの年次報告書の封入作業をひとりで行なっていた)
アルテピアッツァ美唄のスタッフ間で、いつも話し合っていることがある。それは、この場所を守るために何が必要かということ。それは、どこまでルールは必要かということでもある。泉さんは言う。
「自由と勝手は違うという話もけっこうしています。こういうお客さんがいたけど声をかけるべきか、そこまで厳しく言わなくてもいいよね、といった話し合いはしょっちゅうです。理想をいえば、来場者の方には、禁止されているのでやらないのではなく、作品とどう接すべきかを考えていただけたら」
加藤さんもこうつけ加える。
「彫刻に触れていいというコンセプトがそれなりにわたしたちを苦しめます(笑)。彫刻に触れていい、でも乱暴にされると困る。自由とルールのはざまで、いつもそのせめぎあいです。でも、わたしたちはあきらめないんですね。ロープを張るのは簡単だけど、そうはしないで葛藤し続ける。それがこの場所を繋いでいくということだと思うのです」
アルテピアッツァ美唄は炭鉱の町だった頃の楽しい記憶、悲しい記憶、人によって異なるさまざまな喜怒哀楽を受け止める場所、人々が静かに心の平安を取り戻したり、リスタートできるようになる場所であることが軸になっている。運営組織が効率化のために、ルールを決め、禁止事項で来場者の行動を縛っていくのではなく、寛容な場所であるために、自分たちに何ができるかをまず話し合う。業務の効率化とは真逆の非効率なやり方だが、それは本質を見極めるアート本来の探究の姿勢ともつながっているのではないだろうか。
人の思いのバトンをつなぐ
「いま、ここのスタッフは、考えることを諦めない人たちです。大げさに聞こえますが、人間にとって何が大切かをあきらめずに考え続ける忍耐力が、この現場には必要かもしれません。最近、ここを立ち上げた人々から当時の聞き取りを行ないました。何が積み重なって現在に至っているのかを知ると、大切なものが見えてきます。アートももちろん大切だけど、やはり一番大切なのは人間力だと思います」と泉さんは語る。
ストゥディオアルテ[写真提供:安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄]
定期講座「こころを彫る授業」は、石を彫ることで自分と向き合い、こころをかたちにする体験。受講後は、引き続き工房を利用して自分のペースで仕上げることができる
ストゥディオアルテでは、石彫の道具も貸し出してくれる[撮影:artscape編集部]
「美唄市も小さな町の厳しい財政のなかから予算をつけてくれています。だからこそ、誰もがこころを広げられる場所であるように、私たちもここで考えながら積み重ねていくしかないと思っています」と加藤さん。
この緑の谷にかつて3万人が住んでいた。新緑の山々がせまるいまの景色からそれを想像するのは難しい。けれどもかつての住人たちは、自然に還ったように見える山のあちこちに、当時の町の名残を見つけることができるという。アルテピアッツァ美唄がここにあるから、あの頃の暮らしは夢じゃなかったと思える、という人もいる。ひとつの町の時代が閉じていく最中に、100年200年先の未来を想像し、未来に残るのは文化だと信じ、世代を超えて人々が集える芸術広場をつくろうと尽力した人々がいた。芸術が人の心を豊かにするという安田氏の信念、炭鉱町の人々の記憶、この場所を愛し何度も訪れる人々、そうした無数の思いを未来へつなぐバトンが、いま彼らの手に託されている。
《真無》、泉沙希氏と筆者[撮影:artscape編集部]
取材日:2025年5月28日(水)