彫刻家・安田侃の作品は、多くの人にとって札幌を訪れてはじめて出会う彫刻だろう。札幌駅の改札を出てすぐの広場にある《妙夢》の周囲は、いつも待ち合わせの人や旅行客で賑わっている。大きく、白く、柔らかな形状と思わず触れたくなる大理石の表情。その作品は都市空間のなかで出会うにふさわしい彫刻であり、その周囲だけ時間の流れがスローダウンし、雑踏のなかで、ビルの狭間で、せわしなく行き来する人々の足をひととき留めてくれる存在だ。
その安田がライフワークとして関わり続けている空間が1992年に開園したアルテピアッツァ美唄だ。2016年には博物館法上の登録博物館となり、現在の正式名称は「安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄」。ひとりの作家の作品で構成された珍しい公立の野外彫刻美術館だ。
JR札幌駅構内に設置された《妙夢》 [写真提供:安田侃]
アルテピアッツァ美唄、冬の表情
アルテピアッツァ美唄を擁する美唄市は、札幌から高速道路を使って1時間、新千歳空港からもほど近い北海道の中心部に位置する。豊かな田園風景の広がる静かなまちで、現在の人口は1.8万人ほどだという。
《妙夢》 冬のアルテピアッツァ美唄の風景 [写真提供:安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄]
アルテピアッツァ美唄は里山のなかに息づく彫刻空間だ。安田のつくり出す優美でときにユーモラスな形状の作品と豊かな自然とが調和し、空間全体がゆったりとした時間と優しさを湛えている。
白い雪原のなかからぽつんぽつんと彫刻作品が顔を出す。作品へアプローチするために彫刻の周囲は綺麗に除雪されている。作品に至る道を歩くことは、彫刻と出会うためのささやかなセレモニーのようでもあり、夏の芝生の上でのおおらかな鑑賞体験とは異なる喜びがある。彫刻は、ひとりの鑑賞者の来訪を待っているようだ。冬の低く斜めから差す日を浴びて明瞭になった輪郭と柔らかなブロンズの表情。手袋を外し、その表面に触れると思いのほか温かく、驚く。アルテピアッツァ美唄の作品は触れても、座っても良いのだという。異空間への入口のような作品の穴をくぐり抜け、起伏のあるマウンドを登り下りし、屋外に設置された約20点の作品をめぐる。冬は雪の吸音効果で、より一層静謐な空間となるようだ。作品を介して自分と向き合う時間がやってくる。
《天聖》、《天モク》(モクはさんずいに「禾」) 冬のアルテピアッツァ美唄の風景 [写真提供:安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄]
ここアルテピアッツァ美唄での時間の流れ方は、少し特別だ。
敷地には2つの展示スペースがある。ひとつは学校の旧校舎であり、もうひとつは体育館であった場所だ。赤い屋根、木製の壁を持つノスタルジックな建物である。
時間を告げるものは太陽の光だけ。時を早めたり、急がせたりするものが何もない。旧校舎が暗示するこの土地の歴史と、石が抱えている何億年も前から続く時間に思いをはせながら歩いていると、湧き上がってくるのは子どものときに感じていた永遠に今日が続くような感覚だ。雪のなかで、草のなかで遊び、もう夕方なのに、明日も明後日も同じようにこんな日が続くと信じていた時間。こうした時間の過ごし方そのものが、現代では得がたい、自然が支配する時間の流れなのだろう。
場所がつなぐ記憶
美唄市はかつて日本のエネルギーを支えた産炭地のひとつであった。「アルテピアッツァ美唄」の前身である美唄市立栄小学校は、炭住街として栄えた地域にあり、炭鉱で働く人々の子どもたちが通った学び舎だ。ピーク時には1200人余りが在学していたが、炭鉱が相次いで閉山するなか、1981年に閉校となった。
《天秘》 [筆者撮影]
アルテピアッツァ美唄の前身である美唄市立栄小学校と炭鉱住宅街の様子(1962年頃撮影) [出典:国土地理院撮影の空中写真]
安田侃はこの石炭の町、美唄町(現:美唄市)で生まれ育った。東京藝術大学大学院彫刻科修了後、1970年にイタリア政府の招聘留学生としてイタリアへ渡り、以降、大理石の産地として知られる北イタリアのピエトラサンタにアトリエを構え、大理石とブロンズによる彫刻の創作活動を続けてきた。
1995年、ピエトラサンタでの野外彫刻展。今年の6月には、同地で30年ぶりに安田の個展が予定されている [写真提供:安田侃 Photo: Kozo Watabiki]
1988年、40代となった安田は日本でアトリエを探していた。その頃の美唄は、というと、すでに地下炭鉱は坑口を閉ざし、多くの人々が転居してしまった後。そのときに出会ったのが、このすでに閉校していた旧栄小学校だった。雑草のなかに立ち、壊れかけていた旧校舎の側で、安田の心を捉えたのは、無心に遊びまわる子どもたちの歓声だったという。この子ども達の笑顔こそ、故郷の歴史を未来につないでゆくいかけがえのない財産なのだ、と。そのとき芽生えた「この子どもたちが心を広げられる広場をつくろう」という思いが現在のアルテピアッツァ美唄につながっていく。
水と石の広場
開園当初、屋外での展示作品は少なかったが、その後、次々と作品が設置されていく。1994年、もっとも早い段階で作られたのは幅18m、奥行10mの石舞台だった。その2年後には流水路も完成し、現在でもアルテピアッツァ美唄の「顔」である水の広場が出来上がった。流れる水が時を、その上に設置された石彫が大地を表現し、空間全体に時の流れを生み出している。「時間」は安田の作品のなかで重要なテーマであり、この広場はアルテピアッツァ美唄という空間の時間を司っているようでもある。
《天モク》(モクはさんずいに「禾」)と水の広場 [写真提供:安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄]
安田侃とイサム・ノグチ
石舞台を造成するにあたって、イタリアから運ばれてきた大量の大理石を組み立てたのは、ジョルジョ・アンジェリら2人のイタリアの石工職人だ。ジョルジョは安田の石彫作品を支えるかけがえのないパートナーであり、彫刻家イサム・ノグチのイタリアでの作品制作のパートナーとしても知られる。
札幌の市街中心部の大通公園にはノグチの芸術理念を体現する遊べる彫刻《ブラック・スライド・マントラ》がある。
イサム・ノグチ《ブラック・スライド・マントラ》 [写真提供:モエレ沼公園]
ヴェネツィア・ビエンナーレにて《スライド・マントラ》を設置する安田侃(左)とイサム・ノグチ(中央) [写真提供:安田侃]
この《ブラック・スライド・マントラ》には前身となる《スライド・マントラ》という作品がある。ノグチがアメリカ代表として参加した1986年のヴェネツィア・ビエンナーレで出品したものだ。白大理石で出来た、堂々としてのびやかなフォルムの彫刻は、ジョルジョ、そして安田の協力のもと制作された3人の絆の証でもある。
安田と生前のイサム・ノグチは一緒に石の作品を作るもの同士の深い交流があった。その縁を繋いだのがジョルジョだ。安田がジョルジョのもとを訪ねたのは、1974年のこと。ノグチが作品を制作している工房の一角が空くことになり、丁度良いタイミングでその場所をアトリエにすることができたのだという。その後、安田はノグチがイタリアを訪れるたびに空港へと迎えに行き、一緒に制作の時間を過ごし、交流を深めた。2人の年の差は約40歳。安田はノグチを父のように慕っており、ノグチも自分のことを息子のように思っていただろうという。
2人の交流は遠くイタリアで育まれたものだが、その後、北海道で、それぞれが自らの作品の集大成ともいえる場を同時期に野外美術館、公園というかたちで作り上げていったのには、ひとかたらならぬ繋がりを感じる。まったく異なる2つの個性が、北海道のランドスケープアートを、北海道の美的な価値を高めているのだから。
市民とつながる「こころを彫る授業」
アルテピアッツァ美唄には現在、年間約3万人が来場するという。その来場者を支える重要な役割を果たしているのが、地域の枠を超えた会員制のコミュニティ「アルテ市民ポポロ」だ。イタリア語で市民を意味する「ポポロ」。まるで市民のように税金ならぬ会費を払い、行事や清掃活動に参加し、支えていく存在だ。現在は600名前後が登録している。個人により活動の頻度や内容はさまざまだが、できる範囲で、できる内容で、関わってもらっているという。活動には「ポポロミーティング」や通年でオープンしているカフェアルテでのボランティア、ストゥディオアルテで実施している「こころを彫る授業」のサポートなどがある。
安田氏がレクチャーする「こころを彫る授業」 [写真提供:安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄]
「こころを彫る授業」の様子 [写真提供:安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄]
「こころを彫る授業」は2007年から毎月実施されている本格的な彫刻のワークショップで、これまで200回以上の開催を重ねている。イタリアから運んできた大理石、イタリア製のやすりやのみ、金づちなどを使用し、石を彫る行為を通して自分に向き合い、自身のこころを彫るという内容。通常はスタッフが講師を担当するが、ちょうどこの3月には、久しぶりに安田本人が講師となって授業を実施するという。
参加者は全国から集まる。作品をつくりながら、作家本人と触れ合い、作品について知ることが出来るだけでなく、アルテピアッツァ美唄という場所がどのようなことを大切に考えて、運営されているのか、それが作家本人やスタッフから直接参加者やポポロの人々に伝わる場としても機能している。
終わりに
《めざめ》 [写真提供:安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄]
30年余りをかけ、作品を少しずつ設置すると同時に、地域や場の持つ歴史、人々と丁寧に関係性を築きながら、アルテピアッツァ美唄はつくられてきた。こうした細部へのこだわりに満ちた活動に支えられているからこそ、どの季節に訪問しても、いつも変わらぬ、そしていつも異なる美しい姿を見せてくれるのではないか。
彫刻が持つ力を、地域の力へとつなげる。北海道の地方都市で行なわれている地道で、そして大きな展望に満ちた試みを、今後も応援し、注目していきたい。
参考:
・安田侃 公式ウェブサイト:https://www.kan-yasuda.co.jp/ja/
・泉沙希著、來嶋路子編『安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄30年記念刊行 誰もが心を広げられる芸術広場』(美唄市教育委員会・認定NPO法人アルテピアッツァびばい、2023)
・久米淳之著、北海道立近代美術館編『安田侃──天にむすび、地をつなぐ』(北海道新聞社、2014)
・「アルテピアッツァ美唄・30年記念事業 ジョルジョ・アンジェリ×安田侃トークショー」
開催日時:2022年8月21日 14:00~15:30
会場:アルテピアッツァ美唄 アートスペース(旧体育館)
安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄
住所:北海道美唄市落合町栄町
公式サイト:https://www.artepiazza.jp/