会期:2025/06/28~2025/10/05
会場:国立国際美術館[大阪府]
公式サイト:https://www.nmao.go.jp/events/event/20250628_hijou-no-jou/

「非常の じょう 」というタイトルを掲げ、「常態化した非常事態」という時代認識の下、8名の作家を紹介する展覧会。各展示作品の制作背景には、紛争や侵略戦争、地震、気候変動による自然災害の頻発、強制的な移住、コロナ禍など、日常の突然の破壊がある。

参加作家は、展示順に、米田知子、袁廣鳴(ユェン・グァンミン:台湾拠点)、クゥワイ・サムナン(カンボジア拠点)、シプリアン・ガイヤール(ドイツ/フランス拠点)、高橋喜代史、潘逸舟(日本拠点)、キム・アヨン(韓国拠点)、リー・キット(台湾拠点)。シプリアン・ガイヤールのみ欧米圏出身だが、展示作品は、2003年のイラク戦争で廃墟となった古代都市バビロンを捉えた映像作品だ。本展の特徴は、①東アジア・東南アジアの作家や中東を扱った作品で占められ、地理的な親縁性とテーマが呼応する緻密な展示構成であること、②同時に8作家中7作家が映像作品を出品し、「映像メディア」それ自体への自己反省的な問いが通底をなす点にある。

展示空間を巡りながら次第に明確に感じられていくのが、地理的な親縁性とテーマの共鳴性が徐々にレイヤーを重ねながら、「展示室の移動」そのものが、現実の地理的境界を超えて旅をしていくような感覚になる、緻密に練られた展示構成だ。韓国/北朝鮮の境界線から出発して、日本、台湾、カンボジアへと、「海」でつながりながら南下し、古代/現代が夢うつつに融合したイラクの風景を彷徨ったのち、 現実の ・・・ 中東(パレスチナ)へと引き戻される。その「幻想や夢からの覚醒」は、「パレスチナと日本」のつながりを語りかける声でもある。壁一面のプロジェクションが多い映像展は、暗室にする必要性や音響の問題から、作家どうしの展示スペースが個別に区切られ、「独立した個室の連続」という展示設計になりがちだ。だが、本展は、映像展の展示設計がはらむ難点にもかかわらず、作品どうしがつながり、境界線を越境していく稀有な鑑賞体験となった。

順路に沿って、旅の軌跡をたどってみよう。本展は、植物が繁茂する穏やかな風景を写した米田知子の静謐な写真群で始まる。花の咲く草むらには有刺鉄線が絡みつき、(米田のほかのシリーズと同様に)タイトルを読むことで、「写真は『現在の光景』しか写すことができず、過去そのものは写せない」という時間の分断が露わになる(撮影地は、韓国と北朝鮮の間にある非武装地帯[DMZ]付近である)。また、住宅地の一角の木立や児童公園を捉えた写真は、「阪神淡路大震災で市内最大の被害を受けた地域であること」がタイトルで示され、「日常」が回復するまでにかかった約10年という見えない時間の堆積を可視化する。


米田知子 展示風景[筆者撮影]

一方、災害、戦争、ウィルスといった外的要因によって「日常」が突然破壊される理不尽さを、実写とは思えないほど精緻に計算された映像で描き出すのが、袁廣鳴の《日常戦争》(2024)だ。舞台は、独身男性の住まいと思われる、ワンルームマンションの無人のリビング。突如、窓ガラスが割れ、室内に置かれた物が爆風で吹き飛び、家電製品が発火し、壁の世界地図に銃弾が撃ち込まれる。本棚から吹き出す炎は焚書を想起させ、「入れ子状の世界」である水槽も最後に砕け散り、滴る水が本を濡らし、「炎と水」という二大要素が「部屋=世界」を破壊する。だが、いつの間にか室内は元に戻り、前後にズームを繰り返すカメラの運動と同様、破壊と再生のサイクルが反復される。また、東日本大震災と原発事故を契機に制作された《エネルギーの風景》(2014)では、ドローンの空撮により、放射性廃棄物貯蔵施設、にぎわうビーチとその向こうに立ち並ぶ原発施設といった核にまつわる台湾の海辺の風景と、廃墟がシームレスに接続されていく。


袁廣鳴《日常戦争》(2024) シングルチャンネル・ヴィデオ(カラー、サウンド)、国立国際美術館蔵[© Yuan Goang-Ming Courtesy the artist and TKG+]


袁廣鳴《エネルギーの風景》(2014)、「非常の常」展示風景(国立国際美術館、2025)[撮影:松見拓也]

不穏なパルス音は、続く展示空間へ向かうなか、穏やかな波の音と「カンカン」と金属を叩くリズミカルな音に取って代わられ、海で隔たった2つの土地が波音で架橋される。クゥワイ・サムナンの《Das Pralung(目覚める精霊たち)》(2024)は、海面すれすれの岩礁や山奥といった大自然の中で、作家が真鍮の円盤をハンマーで叩き続け、自然に宿る精霊を目覚めさせ、助けを求めるパフォーマンスだ。無数の窪みが穿たれていく円盤の表面は、汗が粒立ち、照りつける日光で赤くただれていく皮膚とアナロジカルな関係を結ぶ。


クゥワイ・サムナン《Untitled》(2024)、「非常の常」展示風景(国立国際美術館、2025)[撮影:松見拓也]


クゥワイ・サムナン《Das Pralung(目覚める精霊たち)》(2024)、「非常の常」展示風景(国立国際美術館、2025)[撮影:松見拓也]

金属を叩いて加工するという文明の象徴でもある行為は、シプリアン・ガイヤールの《Artefacts》(2011)で、「文明の崩壊後の遺物」へと反転される。タイトルが指し示す「過去の遺物」は2つある。古代メソポタミアで高度な文明を築いた都市バビロンに残る廃墟のような遺跡や、博物館の収蔵庫に眠る彫像や石碑などの遺物。それらを旅のスケッチ風にiPhoneで撮影した映像を、35mmフィルムに変換した、ざらついた質感の映像。砂漠をうろつく武装した兵士は、月面にいる宇宙飛行士のような非現実感を漂わせ、ノスタルジックな映像の手触りとあいまって、現代と過去、現実と非現実の境目が曖昧に溶け合う。


シプリアン・ガイヤール《Artefacts》(2011)[筆者撮影]

砂漠をノスタルジックに染める夕陽と、単調な歌声の反復のなか、夢うつつにまどろむオリエント世界──そうした幻想を一気に現実に引き戻すのが、高橋喜代史の作品群だ。《POSTER》(2018)は、英語、日本語、アラビア語で「助けて!」と書かれた、横断幕ほどの長さのポスターを、一人で街頭の壁に掲示しようとするパフォーマンスの記録映像。一人で貼ることが無理な行為自体が文字通り助けを求めているが、無関心に通り過ぎる人々の姿は、難民に門戸を閉ざすこの国の事態そのものとも重なり合う。


高橋喜代史《POSTER》(2018) シングルチャンネル・ヴィデオ(カラー、サウンド)、ポスター タグチアートコレクション/タグチ現代芸術基金蔵[© Kiyoshi Takahashi Courtesy the artist]

ユーモアを交えて政治的なアクションを行なう高橋は、カンバスへの署名と引き換えに無料でスイカジュースを配る《Free Watermelon Bar》(2024-2025)を行なった。赤・緑・白・黒の4色の「スイカ」は、イスラエルが使用を禁じたパレスチナの国旗の代替として用いられ、抵抗や連帯の象徴となってきた歴史がある。高橋は、「Free(解放せよ)」を「Free(無料)」に読み替え、ジュースを飲みながら会話する場を開いた。また、自身が暮らす札幌で活動する、北海道パレスチナ医療奉仕団の代表・猫塚義夫に「話を聞きに行く」映像作品により、日本とパレスチナが接続される点も重要だ。猫塚は、パレスチナ問題を「宗教問題」と捉えるのではなく、イスラエルも北海道も、パレスチナ人/アイヌという先住民族の土地を奪った迫害と犠牲のうえに築かれているという共通項を指摘する(なお、無料のジュースバーおよび本展の展示室に掲げられたレインボーフラッグは、イスラエル軍によるピンクウォッシュに対する異議申し立てであると考えられる。ピンクウォッシュとは、イスラエルが人権先進国であるとアピールし、侵攻を正当化するメディア戦略を指す)。


高橋喜代史 展示風景[筆者撮影]

土地を奪われた者が余儀なくされる移動と移住。その身体的負荷を、「石を運ぶ」というシンプルな行為で表現するのが、潘逸舟の《わたしは家を運び、家はわたしを移す》(2019)だ。コンクリートの大きな石の上に立った作家が、もうひとつの石を前方の地面に置き、その上に移り、先ほど自分が乗っていた石を持ち上げ、同じように前方に置く。この反復により、作家は少しずつ前進していく。潘自身、9歳で上海から青森へ移住した経験をもつ。モノクロの美しい画面は、どこにでもあるような草原を映すが、ヘッドフォンから聞こえる荒い息遣いが、移住とそれに伴う強い身体的負荷を生々しく伝える。


潘逸舟《わたしは家を運び、家はわたしを移す》(2019) ダブルチャンネル・ヴィデオ(モノクロ、サウンド)、国立国際美術館蔵[© Ishu Han]

抽象化/身体化された移住を経由して、本展の終盤で私たちは、再び東アジアへと戻ってくる。キム・アヨンの《デリバリー・ダンサーズ・スフィア》(2022)は、コロナ禍で急速に需要が拡大したデリバリー・サービスで働くバイクライダーの女性が、AIの指示する迷宮のような配達経路の中で「もう一人の自分」と出会う謎めいた物語を、実写と3DCGを組み合わせて描く。

疾走するバイクのように高速で切り替わる、現実かフィクションか曖昧なソウルの都市風景を抜けて、最後のリー・キットの展示空間へ。匿名的な空の映像ともに、SNSで流れるつぶやきを見ているような断片的なテキストが投影され、一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなる──。東アジアから出発し、東南アジア、中東へと、国境線を越えながら/架橋しながら旅する本展は、回廊のように東アジアに回帰しつつも、最終的に国境線そのものを曖昧化し、旅する観客が今いる地理的位置を宙吊りにする(ただし、リーの繊細な作品の背景には、政治的激動を経た都市・香港を出自とし、現在は台北を拠点とする経歴がある)。


リー・キット 展示風景[筆者撮影]

後編では、袁廣鳴、シプリアン・ガイヤール、キム・アヨン、リー・キットの4名に焦点を当て、「映像」それ自体についての問いというメタ視点から本展を振り返る。

後編へ続く)

鑑賞日:2025/06/27(金)