主催:NPO法人 アイダオ/NPO法人 上田映劇
公式サイト:https://uedakodomocinema.localinfo.jp/

子どもの頃、初めて映画館で観たのは『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』(1998)だったと記憶している。画面の明るさ、音の震え、色の鮮やかさ……アニメーションという現象の一つひとつに驚いたと思うが、何よりも感覚する物事の大きさに圧倒された。主人公たちの冒険は海上の孤島が舞台で、城の中の巨大な大広間を舞台に、縦横無尽にバトルが繰り広げられていた。家のブラウン管──いまこうして原稿を打ち込むパソコンモニターくらいの画面サイズしかなかったんじゃないだろうか──と違って、その画面の向こうには大きな空間が広がっていた。テレビアニメが劇場版になるとストーリーも舞台も規模感が大きくなることに子どもなりに納得した。映画館のその部屋はとても大きかったのだ。
そして、学校の催しで体育館が消灯されたときよりも怖いと思わなかったのは、背中を預けるがっしりとした客席のおかげだったろうか。
もうひとつ、初めて海外で映画を観たのは、シンガポールのShaw Theatres Lidoだったと思う。2時間強の間ずっと印象的だったのは、階段状の客席の傾斜だった。日本の映画館より、それは明らかに急だった。スクリーンに映る映像は光であり、自分の前に座る大勢の頭も輝いていた。スクリーンに頭がかぶっていたわけではない。ただ、客席の段々の傾斜によって、スクリーンを見る視野角に、無数の光る頭が見えていたのだ。私はスクリーンを見るのと同時に、この空間にいる大勢を一緒に見ていた。
自分のほかにも大勢の人がいて、同じようにこの映画を見ていることが、この日ほど強烈に感じられたことはない。これは数年前のことだ。
暗闇で光を見つめ、ここではない違う世界に出会う映画館での2時間が、あるときの私の心の支えになっていた。こんな話を、友人から直接聞くこともあれば、著名人の発言で聞くことがある。私にも、無性に映画館に“居たい”と思うときがいまでもある。
映画館は、客席のある部屋を「〇番スクリーン」と呼ぶことにも明らかなように、空間はスクリーンに付随したものとして広がっている。部屋があってそこに画面があるのではなく、画面の光の拡がる範囲が客席化している。深々としたクッションの椅子、しっかりと身体を支える背もたれ、目と耳に集中させるリクライニング。ついでに、何も考えず自動的に口元へ運べるポップコーン。画面の光の向こうに映る人々、風景、出来事はこちらにいる私のことを気にもしない(本当は気にしているとも思うのだが、鑑賞の目線から筆を進める)。ここに個別の身体があることを、この空間は気にしない。あるいは、気にさせないことに特化している。このことが怖さにも、心地よさにもなる。制作者としての私はその怖さに注意を払おうと思うし、鑑賞者としての私はその心地よさに救われもする。「〇番スクリーン」の内側で、映画館は旧世紀的な鑑賞形態を維持していると言えるが、希望の方が勝ると思えるのはなぜだろう。
長野県上田市に、上田映劇という映画館がある。1917年に開業した上田劇場が、映画上映が中心となった昭和以降に上田映画劇場と名を改め、2011年に閉業。その後も市民有志がイベント利用を通じて場所を保存し続け、2018年よりNPO法人上田映劇によりコミュニティシネマとして運営されている。徒歩数分の距離にあるトゥラム・ライゼ(旧上田でんき館)と合わせて2スクリーンを有し、新旧問わない映画プログラムの設定、地域の映像資料の調査や収集などに意欲的に取り組んでいる★1 。
地域の文化拠点として親しまれ、廃館の危機を乗り越えた上田映劇。2020年から始まったのが「うえだ子どもシネマクラブ」である。これは「学校に行きにくい・行かない子どもたちの新たな『居場所』として映画館を活用する取り組み」で、ここに登録すると、月1〜2回の特別プログラムの上映会、毎週水曜と金曜の居場所開放「平日こどもシネマクラブ」などの活動に参加できる★2。
上映会は午前午後に映画が1本ずつ上映される。上映の途中でスクリーンの外へ出てくる子どももいる。上映が始まっても、ホワイエに留まる子どもがいる。キャッチコピーには「学校に行きづらい日は、映画館へ」とあるが、「うえだ子どもシネマクラブ」は映画の「〇番スクリーン」へ誘うものではないのだ。もちろん、映画を鑑賞するという経験に重きは置かれているが、重要なのは、ここにいくつもの選択の積み重なりがあること、そしてその選択を自分がしていると実感できることだ。
学校へ行くこと/行かないこと、家を出ること/出ないこと、シネマクラブへ行くこと/行かないこと、映画を見ること/見ないこと……。世界の選択は決して二択だけではないが、細かなアクションの単位で見れば、する/しないを無数に掛け合わせて私たちは生きているだろう。その判断の一つひとつを自分でしていると、ここでは子ども自身が実感できるようになっている、と私には思えた。
先述したように、上映には外側がある。空間としてホワイエがあり、受付があり、事務室があり、フライヤー置き場やカフェがある。上映と上映の間には昼食があり、休憩がある。閉ざされた暗闇の向こうには異なる世界があるが、その手前の世界にもまた拡がりがある。その一つひとつを、あなたは選択できる。
7月の上映会の日、6畳もない映画館の事務室に、小学生数名と、見学の大学生数名がぎゅうぎゅうになっていた。館の仕事を手伝う子どもがいれば、近所で買ってきた漫画を読んで★3 おしゃべりする子どももいる。冷房が一番効いているのは確かだが、選んで選んで、いまここにいるのだと子どもたちは思えているようだった。事実、また館外に出て、ペンキ塗りの続きに戻る子もいたのだった。
「〇番スクリーン」の扉は開け閉めできて、行き来することができるのだと「うえだ子どもシネマクラブ」では気づかされる。暗闇で客席に沈み込む私の身体はなくならない。この身体があることを受け入れ、肯定することができる、できそうな場所だ。 映画館という空間形式をまだ信じていようと、大人になった私は思う。
★1──詳しくは上田映劇公式サイトの「上田映劇の歴史」を参照のこと。
★2──NPO法人と地域行政や企業をつなぐ中間支援NPOアイダオとの共同事業。
★3──現在「うえだ子どもシネマクラブ」で来館すると、近所の「本と茶『NABO』by valuebooks」との連携事業で、100円コーナーの古本無料チケットが配布されている。子どもたちは自分で「NABO」へ行き、本を選んで帰ってくる。本がいらないと言うほかの子どもからチケットを集める子どももいる。上田の中心市街地では、このように街ぐるみといってよい居場所づくりが行なわれており、“ここしかない”と思わせないための仕組みを自然と作り合っている。劇場/ゲストハウスの「犀の角」、NPO法人リベルテの活動とあわせて知ってほしい。
訪問日:2025/05/12(月)、07/14(月)