日程:2025/06/29

会場:世田谷文学館[東京都]
公式サイト:https://theghostintheshell.jp/news/shirow-masamune-exhibition-shiromasa-mma

「シロマサ語り20連発」は、世田谷文学館で開催された士郎正宗の個展「士郎正宗の世界展~『攻殻機動隊』と創造の軌跡~」にもとづくイベントである。クリエイターや研究者といった多彩な顔ぶれがそれぞれ10分間で「士郎正宗のここが好き」を代わる代わる語っていく、というシンプルな構成で、当日の登壇者は青山新、小久保智淳、高島鈴、PANDORA FAN CLUB、poetly、さやわか、今関裕太、速水螺旋人、藤田直哉、出村政彬、新野安、嶋田祐輔、岩屋民穂(GraphersRock)、大屋雄裕、円香、桂田剛司、稲見昌彦、櫻井武、松尾豊(以上、出演順)の19名だった。

こうした企画はともすれば、無闇に熱っぽいだけの弛緩した場になってしまいがちだが、本イベントではそれぞれの登壇者間のトピックに適度な距離感が保たれており、聴きながら理解を深めたり、矛盾に頭を悩ませたりと、イベント全体を通じた心地よいグルーヴができていた。

私自身も登壇者のひとりとして参加しており、そこでは『攻殻機動隊』のプロローグからプレゼンを始めた。冒頭の見開きで提示されるニューロチップの拡大図──成長する神経細胞が端子の枠で縁取られた図──を漫画のコマのメタファーとして読み、各コマが接続(実際にプロローグでは、コマの間を基盤の配線が結ぶ表現がある)されることで形成されるアドホックな回路として、その物語を捉えるという提案である。ゆえに『攻殻機動隊』は無数の回路の組み替えの余地をあらかじめ持っており、多くのリメイクや再解釈へと開かれている、というわけだ。これは今回のイベントにおいても言えることである。個々の登壇者のプレゼンは回路を形成するひとつのチップ、あるいは漫画の一コマとしてあり、それらを結びつけることで無数の物語を読み出すことが可能だろう。以下ではそうした読みの一端としてレビューを進めていきたい。

『攻殻機動隊』誕生から30余年、各分野においてその先見性が驚愕とともに再注目されている──というのが士郎作品評価の常套句であるわけだが、それをわかりやすく示したのが稲見や櫻井といった、士郎作品のヴィジョンに影響を受けて実際の研究開発を行なってきた人々のプレゼンだろう。櫻井は近年の著作『SF脳とリアル脳──どこまで可能か、なぜ不可能なのか』(講談社、2024)の着想源が『攻殻機動隊』にあったと述べる。また、稲見は『攻殻機動隊』に登場する光学迷彩の実現化として、再帰性投影技術を研究してきた。これはいまや少しでも工学技術に関心のある人間であれば誰でも知っているであろう研究であり、事実、昨今の多くのSF漫画・映画・アニメにおいて、作品のリアリティを高めるためのディティールとして盛り込まれていると稲見は述べる。SFを目指して発展した技術を再びSFが取り込む。そのループが回ることによって、個人のヴィジョンに過ぎなかったものがいつしか、私たち共通の世界認識へとスケールしていく。これは士郎作品のみならず、SFが社会に働きかけるもっとも典型的なケースと言っていい。

一方で、純粋な技術的側面からだけではなく、技術ー社会的な問いをトピックとする登壇者も多く見られた。実際、SFについて考えるにあたって技術の発展自体は大きな問題ではない。なぜなら社会におけるヴィジョンの実現には、技術的な可否よりも、倫理的、法的、政治的、環境的な判断のほうが大きく影響するからだ。なかでも小久保によるプレゼンは、神経法学という耳慣れないワードとともに強い印象を残す。心身の機械的補助の実装が進む昨今において、「私の境界線はどこにあるのか」という草薙素子の問い──ひいてはある種のSFに通底する問い──は現実のものとなりつつある。小久保はひとつの情報処理システムとして人間を捉える『攻殻機動隊』の視点が、これらの問題を法的な議論の俎上に乗せるためのポイントになるのではないかと指摘する。

こうした、人間性(の一部)が演算可能となった世界における社会の在り方という視点から士郎作品を見る姿勢は、中盤で登壇した嶋田によって情報論的な側面から背景整理がなされ、後半ではAIを補助線とした大屋や松尾のプレゼンがその射程を広げていた。大屋は、そもそも自分たちの世代がこうした士郎的な発想に感化されてつくりあげてきたものこそが、現代の情報技術と社会、人間性を巡る問いなのだと指摘する。そのうえで、急速に実装されるAIをいかにして人間社会のなかに法的に位置付けうるのかを探っていく。大屋は『アップルシード』(1985-1989)において、人類の統治をバイオロイド(人工生命体)に禅譲しようとする七賢人の例などを引いていたが、実際のところ現代では、かつてSFで語られていたような合理性によって「調和」したユートピア=ディストピアはむしろ、人々に素朴に受け入れられ始めているように見える。松尾はそのうえで、AI時代において人間性の何が変化し、何が変化し得ないのかを概観していく。松尾は、往々にしてAIの知性と生命性が混同されている現状を指摘しつつ、生命とそれを駆動する欲望、その結果として構築される集団の構造にこそ、普遍的な人間性を考えるための足がかりがあるのではないかと述べる。

さて、ここで小久保が述べていた、「情報処理システムとして『人間』を捉える」という『攻殻機動隊』の視点を思い出してみよう。小久保が想定する「情報処理システム」とは、BMI技術を主な参照項とした脳神経系のことであるだろうが、士郎のそれは身体を含んだもっと総体的かつ感覚的なものとして想定されているように思える。そしてそれこそが、士郎作品の重心のひとつである。実際に、士郎の身体性・触覚性への着目を指摘するプレゼンは多く、作品内におけるテーマはもちろん、作画や制作プロセスまでの各レイヤーで関連する言及が目立った。

例えば今関は、作中の触覚再現技術や義体/アバターの選択を引用しつつ、それを士郎特有の肉感的な作画と接続し、そこに通底する触覚的な欲望を指摘する。個人的にとりわけ興味深いのが、『アップルシード』に登場するサイボーグ、ブリアレオスの「ヒフは弾力性があり暖かい」という設定だ。ブリアレオスは外見的にはいかにも機械然としており、作中においてその触覚的なやわらかさが描写されることもほぼないと言っていい(カラーイラストにおいては、その体表面は金属光沢を帯びているように見える)。つまりブリアレオスの触覚性は作中人物、とりわけバディであるデュナンにのみ開かれていると言っていいだろう。この触覚性の開示と秘匿のバランスによってこそ、士郎作品と読者である私たちの距離はデザインされている。

こうした触覚的な欲望をより直接的に探求するのが新野のプレゼンである。新野はこれまでまとまって語られる機会がほぼなかった、成年漫画家としての士郎の側面にフォーカスする。先に述べた士郎の肉感的な描写をさらに微細に分析し、健康的な肉体美を指向するある種のマッチョイズム、(機械を含む)体格のコントラスト、それらを強調する液体・金属・密着した薄膜といった光沢感の表現を指摘する。また、こうした士郎の特徴が間接的に「対魔忍」シリーズに影響を与えていることや、体格差フェチの先鞭をつけたといった考察は、新鮮な驚きを感じさせる。元来、SFと性的表現は比較的相性がよいと言っていい。それはまさに、想像力によって加速した世界を肉体感覚において現実と接続するため、あるいは肉体感覚から広がる妄想をエンジンとして世界を加速させるためである。新野のプレゼンは、こうした関係性を具体的な作品を辿りながらつまびらかにしていくという点で、意義深いものであった。

後編へ)

鑑賞日:2025/06/29(日)