
日程:2025/06/29
会場:世田谷文学館[東京都]
公式サイト:https://theghostintheshell.jp/news/shirow-masamune-exhibition-shiromasa-mma
(前編より)
新野の分析は、「メカと美少女」への偏執としてマイルドに一般化できるかもしれない。この視点からプレゼンを行なったのが、速水とさやわかである。速水は80年代を牽引した「メカと美少女」ブームが士郎作品の受容に大きく影響したと述べつつ、その独自性を指摘する。つまり士郎は、このリアルと様式のギャップの美学を嗜むと同時に、常に両者を接続することに力を傾けてきたのだと。個人的な理解を補うなら、「メカと美少女」におけるメカとは、フィクションをリアルへ接地させようとする力学であり、一方の美少女とは、リアルをフィクションへ昇華させようとする力学である。士郎はこの相反するベクトルがすれ違うその瞬間をこそ、作品世界として定着するよう努めたのだと言えるだろう。
さやわかはさらに論を進め、こうした欲望と現実の関係を巡る試行錯誤こそが、士郎作品のフィクションとしての強度を持続させている核だと指摘する。本来根拠のないフィクショナルな欲望が先にあり、それがいかにして現実にアンカーしうるのかを模索する過程において、想像力が結晶化するのだと。これはそのまま、SFというジャンルを駆動する力学の一側面の説明だと言っていいだろう。ここまで述べてきた稲見や櫻井、大屋といった研究者たちはいずれも士郎作品のヴィジョンの一端を実現してきたわけだが、彼らをそこまで魅了したものとは一体何だったのか。それは革新性や厳密性といった説得的なものではなく、もっと根源的な欲望に接続されていることによるいわく言いがたい迫力のせいだったはずだ。
士郎のこうした純真さが単なる作品内だけのものではないことを語るのが、担当編集者である桂田だ。桂田によれば、士郎はいまだにガラケーユーザーであり、原稿はもちろん、ささいなテキストのやりとりであっても物理媒体を介することを好むという。こうしたアナログ的こだわりは、個展会場のあちこちでも見られた──角材から削り出した自作のペン軸、電動消しゴムによるスクリーントーンの加工、特注のガラス板を用いた清書プロセスなどなど。
岩屋のプレゼンは、これら制作プロセス上の工夫をさらにつぶさに推測していく。極端な画像の拡大によるノイズの表現、コピー機でのコントラストの強調を繰り返すことによるホログラフィックな色彩、食品パッケージなどのスキャンによる画像素材化など、ハックともいうべき手法の数々によってデジタルなイメージがアナログ的に近似される。一方で岩屋は、制作プロセスがデジタル化した『攻殻機動隊』2巻以降において、1巻では観念的にしか描かれてこなかった電脳空間が全面的に展開されていることに着目する。つまり、士郎の作画プロセスにはある種のメディウムスペシフィシティの探求としての側面があり、それは表現内容ともリンクしていると指摘したわけだ。岩屋は、士郎によってつくられた電脳空間表現の典型がいまだに更新されていないことを驚きとともに語るが、それこそがまさに、士郎の探求の強度を示しているといえよう。
岩屋はプレゼンの最後に、士郎作品のヴィジュアル的な特徴がアール・ヌーヴォーと接続するのではないか、との連想を広げてみせた。以下では個人的にその着想を進めてみたい。一般的にSF表象と紐づけて語られる近代美術運動といえば未来派やアール・デコであり、工業主義の否定と自然礼賛を背景としたアール・ヌーヴォーの名が出てくることは少々意外にも思える。しかし、ここまで見てきたような士郎のアナログ的なこだわりや肉感的な表現の強調をふまえると、手工業への回帰と洗練された有機的デザインを特徴とするアール・ヌーヴォーが想起されることは不思議ではないだろう。さらに言えば、アール・ヌーヴォーは19世紀末から20世紀初め当時の臨床心理学、特に神経科学と密接に結びついていたとされる。言うなれば、アール・ヌーヴォーが描き出すアラベスクは、震える生体パルス、あるいはその奥でゆらぐゴーストたちの影として再解釈することが可能かもしれない。田中純はかつて「アール・ヌーヴォーの最終的な野心とは、室内のみならず、都市の全域をアラベスク模様によって埋め尽くし、建築物の装飾と人間の感覚神経とのあいだに微細な震えの共振を引き起こすことだったと言えるかもしれない。都市はそれによって暗示に満ちた空間となる」と述べた★。ここで、士郎の描くメカの数々が肉体と同様、極めて有機的な曲線によって構成されていたことを思い出そう(あるいは、サイバーパンクにおける肉体と機械の融合自体をも)。士郎の作品世界とは、人間と機械と都市が等しく「ネット」というアラベスクによって彩られた場所なのだ。そう考えると、速水がプレゼンの最後に触れた「メカと美少女の美学は今日において、VTuberの3Dモデルへと受け継がれているのではないか」という指摘は、岩屋が引いたアルフォンス・ミュシャのイラストレーションへとオーバーラップして感じられる。
ところで、アール・ヌーヴォーやアール・デコといった芸術様式とその後に登場するモダニズムデザインのあいだに、ジェンダー的な問題を指摘する言説は多い。つまり、非本質的・非論理的な虚栄としての装飾に対し、モダニズムは本質的・論理的なより優れた形式であり、これはそのまま女性と男性の対比として語られてきたというわけである。さて、ここまで見てきた「メカと美少女」にまつわる士郎の欲望の側面は多分に男性的な目線を内在化しており、実際、作品を問わず士郎の女性表象に懸念が表明されるケースは少なくない。しかし、アール・ヌーヴォーと士郎作品を結ぶ回路が形成し得たように、単なる「オタク男性の聖典」としてではない士郎の可能性を読み出すことも十分可能だろう。
こうした角度からプレゼンを行なったのが高島と円香である。高島は自身の作品受容体験を語ることを通じて、「サブカルクソ女の聖典」としての士郎がどのようなものであったのかを描出していく。高島にとって「サブカルクソ女」という蔑称には、「女オタク」からの脱出の手段としての側面があったという。そこには「文化を楽しむ女性への嘲り」をはじめとする、「男性社会への恭順者」として女性を求める圧力に対処するための、極めて複雑な戦術が見てとれる。こうした視点において草薙素子というキャラクターは、既存の女性像はおろか、自己同一性さえも脱ぎ捨ててあらゆるフレームから逸脱し続ける自由の象徴として存在していたわけだ。
一方、円香は自身が専門とする「魔女」の概念を援用することで、高島が述べたような逸脱者としての士郎作品のヒロイン像の持つ意味を押し広げていく。円香は、技術をもって既存の秩序を破壊する存在として、士郎作品特有のファム・ファタール像を描き出す。そしてそれはすなわち、魔女と呼ばれる者たちと非常に強い共振関係にあるのではないかと。現代魔女の概念やダナ・ハラウェイのサイボーグ概念に触れたことのある者であれば、この連想はスムーズに飲み込めることだろう。魔女とは本来、産婆や薬師のような土着の科学技術の実践者としての女性の系譜を汲むところが大きく、ゆえに彼女らは技術の可能性と恐れの淵で踊る者たちとして、崇拝と迫害の対象となってきた。そして現代において私たちは、生まれながらにして社会・身体・認知を技術によって撹乱されたサイボーグとしてあり、誰しもの前に魔女への門戸は開かれているというわけだ。
円香は最後に、士郎が「魔女」というワードを避ける理由として、それが本来、彼女らに対するネガティブな視線を内在化しているからではないかと推測する。士郎にとって技術≒魔術とは使い方次第でいかようにも変わりうる存在であり、それゆえに魔女と呼ぶことは憚られるのだと。こうした技術に対するオプティミスティックな姿勢もまた、士郎を特徴づける要素のひとつだろう。じつは士郎が長年愛読しているという『日経サイエンス』、その編集長である出村は、士郎作品が各年代の誌面から情報を汲み取りつつ、それらを一貫して肯定的に描いていることを指摘する。一方で藤田は、士郎がこれらの科学情報誌を「ヴィジュアル重視で眺めていた」という点に着目し、そうした図像的な連想があったからこそ、士郎の作品世界は科学・美術・哲学・土着文化などが縦横に接続された独自の宇宙像を提出しえたのではないかと推測する。こうした想像力の奔放さもまた、士郎の根源的なオプティミズムを感じさせる部分だろう。
士郎作品の特徴をギャグ描写に見出すpoetlyのプレゼンも、士郎のオプティミズムに対する別角度からの分析として興味深い。poetlyは、物語展開とは独立したリズムで頻繁に挟み込まれるギャグ描写と、それによる緊張と緩和こそが士郎らしさなのだと述べる。これは、リアルとフィクションの距離を自在に変化させるためのギミックであると同時に、物語を読むことにまつわる身体感覚的なグルーヴを示すものでもあり、現実と欲望を触覚性を通じて接続するという側面にも通ずる要素だろう。
このように19名のプレゼンの広がりは楽しく、どこまでも連想を広げていけそうに思える。ただ、全体的に『攻殻機動隊』への言及に偏っている傾向があった点は少し気になった。また、単なる士郎作品の礼賛にとどまっている箇所に少々の食い足らなさを感じたのも事実である。時間的に難しいだろうが、登壇者どうしの対話などへと発展していける余地があってもよかったのかもしれない。士郎は展示に寄せた「おわりに」というテキストのなかで「さて、展示をご覧頂いて、僕が誰かに『で、結局本業は何? マンガ家? 挿絵屋さん? アニメクリエーター…ではないよね? アニメ・ゲームの設定屋さん?』と職種を尋ねられたら返事に困る人物なのだということがなんとなくお分かり頂けた事と思う(笑)」と述べている。およそ信じがたい自己認識ではあるが、そうした士郎の多面性、およびそれと相反する純粋さ・率直さを同時に噛み締めるという意味において、本イベントと個展はよいきっかけとなった。
鑑賞日:2025/06/29(日)
★──田中純「装飾という群衆 神経系都市論の系譜」(『10+1』No.40所収、INAX出版、2005)