発行所:ぷねうま舎
発行日:2024/04/01
公式サイト:https://www.pneumasha.com/2024/02/09/左右を哲学する/

おそらく誰もがみとめるように、哲学において〈私とは何か?〉という問いはもっとも根源的なもののひとつである。だがこの問題に対して、〈左右とは何か?〉という問いを通じて迫った書物はほとんどないだろう。本書のユニークさは、このまったく無関係にみえる二つの問いを非常にオリジナルなかたちで結合させていることにある。

あるいは本書を読むかぎり、著者は〈私とは何か?〉という問いから出発し、結果的に〈左右とは何か?〉という問題に行き着いたと考えるべきだろう。思弁的な哲学書のなかには──良くも悪くも──どこかパズルの問題を解いているような印象を与えるものもあるが、本書『左右を哲学する』には、著者が哲学に足を踏み入れた原光景がしかと刻み込まれており、そのおかげで読者もまた、そうした著者の思考の運動に容易に参入することができる。

本書はいわゆる「論文」と「対話」の二部構成からなるが、その第一部の前半は、おおよそ次の二点の証明に費やされる。(1)左右の区別は、上下や前後とは異なり「物的なもの」によって定まってはいない。(2)左右の区別にはそれを判断する〈私〉の左右感覚が大きく関わっているが、同時に〈私〉にとっての左右は〈私〉の左右感覚によって定まっているのでもない。これらの命題をもとに、第一部の後半は──ウィトゲンシュタインなどに依拠しつつ──いくぶんテクニカルな議論に進むのだが、さしあたり本書を読みすすめるにあたっては、まずこの二点を押さえておけばよい。

本書第二部は、第一部の議論に十分納得できた読者にとっても、そうでない読者にとっても等しく有益である。本書でも明言されているように、著者・清水将吾(1978-)は永井均を師と仰ぐ哲学者だが、第二部ではいわば「同門」の谷口一平、成田正人との充実した対話が繰り広げられる。そこでは、本書第一部の議論をただ敷衍するのではなく、左右の哲学的区別から出発した本書の問いが〈現実〉をめぐって、あるいは〈時間〉をめぐって、さらに遠いところまで展開されていく光景を目の当たりにすることができるだろう。

さきほども述べた本書の問い──〈私とは何か?〉〈左右とは何か?〉──は、最終的に現実と虚構をめぐるより大きな問いへと接続される。この問いは本書ではいまだ仄めかされるにとどまっているが、著者が対話のなかで予告しているように、「現実世界の現実性は、経験を超越」している(159頁)という魅力的なテーゼの全容は、著者の次の本によって明らかにされるに違いない。

執筆日:2025/08/12(火)