会期:2025/07/26~2025/08/03
会場:KUNST ARZT[京都府]
公式サイト:http://kunstarzt.com/Artist/OISHI/Marika.htm

写真や映像メディアを見る経験は、他者の痛みにどこまで共感可能なのか。「地理的・心理的に遠く隔たった他者の苦痛の経験」を伝達するというメディアの機能それ自体が、既に失調しているのではないか。「映像メディアを見ること」と、その物理的基盤の露呈を同時にまなざすことは、どのように両立可能なのか。こうした倫理的問いを、両義性とともに突き付ける展示だ。

《パープルレイン 花》(2025)では、ピラミッド状に積まれた3台のアナログテレビモニターに、「現在戦争中の国の国花」がガスバーナーの炎で燃やされる映像が淡々と映し出される。ヒマワリ、チューリップ、アネモネ、アイリス、バラ……。3台のモニターに映る映像はみな同じだが、古いアナログ機材のため、しばしば画面が明滅し、帯状のエラーが入り、色調も狂って再生される。加えて、元の映像自体も、「紫色」に加工されている。

[撮影:Studio Ausgang]

なぜ「紫」なのか。大石によれば、理由は2点ある。①紫は唯一、「国旗に使用されない色」であること。昨年の個展で大石は、210カ国の国旗の画像をインクジェット紙の裏面に印刷し、紙にインクが定着していない状態で水に溶かし、「国旗の色」を文字通り混ぜ合わせる行為を作品化した。最終的に、どの国旗にも使われていない紫色に水が染まった。②また、本展タイトルは、プリンスの楽曲『パープルレイン』(1984)に着想を得ている。「紫の雨」とは、「血の雨が降った青空」という破壊的光景の比喩であり、「赤」と「青」という相容れない二極の衝突や融解も示唆する。

「赤」に「青」を重ねることで、国境という境界線が溶け合うのか。あるいは、それは大量殺戮の光景なのか。この決定不可能性の間で揺れながら、展示作品は「赤」と「青」に分解され、再構築されていく。《パープルレイン 雨とミサイル》(2025)は、「赤い」映像に、「青い」映像を文字通りぶつけて干渉させるものだ。アナログの携帯小型モニターでは、花火のようなミサイル爆撃の映像がサイレントで映される。その画面の右半分に向けて、雨の映像がプロジェクターで投影される。血の雨を、別の雨で洗い流せたとしても、私たちが目にするのは、ラジオのアンテナやつまみが付いた、縦長で旧式の異様な物体だ。また、《パープルレイン》(2025)では、赤い肉の写真画像をプリントした紙を、文字通りの雨にさらしてインクを溶かし、その上から青いオイルバーでドローイングを描き殴っている。

《パープルレイン 雨とミサイル》[撮影:Studio Ausgang]

《パープルレイン》[撮影:Studio Ausgang]

現在戦争中の国の国花を燃やす映像が、紫に色調変換して流れる《パープルレイン 花》もまた、両義性や決定不可能性の間で揺れている。燃やされる国花は、ヒマワリ(ウクライナ/ロシア)、チューリップ(アフガニスタン)、アネモネ(イスラエル)、アイリス(パレスチナ)、バラ(イラン/アメリカ)である(作品の制作中である2025年6月に、アメリカによるイランの核施設への攻撃が行なわれた)。ここで、日本の国花が桜であるように、「国の象徴」である国花を燃やす行為は、プロテストとして国旗を燃やす反戦の意思表明の代替となる。一方、「炎で焼かれる花」は、例えば石内都が撮った被爆者の遺品の衣服が「傷ついた皮膚」のアナロジーであるように、破壊された他者の身体の代替物としても見られうる。

《パープルレイン 花》[撮影:Studio Ausgang]

だが、「ヒマワリ」はともにウクライナとロシアの国花であり、「バラ」も同様にイランとアメリカ双方の国花であり、映像中にはヒマワリもバラも2度登場するが、「燃やされる花」が侵攻国/被侵攻国のどちらのものであるのか、判別不可能だ。また、パレスチナの象徴として思い浮かぶのは、「国花のアイリス」よりも「スイカ」の方が強いだろう(赤・緑・白・黒というパレスチナの国旗を構成する4色と同じであるスイカは、イスラエルによる国旗の使用禁止に対する代替物として用いられ、抵抗や連帯の象徴となってきた)。「ヒマワリ」もまた、ウクライナ侵攻に対する抗議と連帯の意思表明の象徴となったが、「スイカ」と同様、「記号」でしかない。石内が撮った遺品のワンピースやスカートは、かつて持ち主の肌と日常的に触れ合っていた「第二の皮膚」として、傷ついた身体の代替物となりうるが、画面のなかで燃やされるヒマワリやアイリスは、「苦痛を受けた他者の身体」の代理からはほど遠い。

大石の映像作品を見る私たちは、実のところ、いったい 何を見ているのか ・・・・・・・・ 。ここで、スーザン・ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』(2003)を参照しながら考えたい。ソンタグの著作は、19世紀半ばから20世紀の戦争やジェノサイド、そして9.11に至るまでの報道写真を見ることと倫理について問う写真の受容論だが、大石作品を考える際の指標を示してくれる。ソンタグは、西洋において「一般的に、むごたらしく傷つけられた死体の公開写真は、アジアまたはアフリカから来るものである。ジャーナリズムは、異国的な土地つまり植民地の人間を展示するという幾世紀も続いた慣習を継承している。(中略)というのも相手は、われわれの敵でなくとも、見る者(われわれと同じような)ではなく、もっぱら見られる者とみなされているからである」★1と述べる。つまり、写真は、エキゾチシズムの内面化や視線の非対称性とともに、より他者化してしまう装置でもある。

では、写真や映像メディアを通して他者の苦痛をまなざす経験と倫理の関係は、どこに見出されるのか。ソンタグは、同情について次のように述べる。「同情を感じるかぎりにおいて、われわれは苦しみを引き起こしたものの共犯者ではないと感じる。われわれの同情は、われわれの無力と同時に、われわれの無罪を主張する。(中略)或る人々の富が他の人々の貧困を意味しているように、われわれの特権が彼らの苦しみに連関しているのかもしれない──われわれが想像したくないような仕方で──という洞察こそが課題であり、心をかき乱す苦痛の映像はそのための導火線にすぎない」★2。自分自身が決して脅かされない安全な位置から眺めているという特権性を自覚しないままの同情は、非倫理的であるとソンタグは批判する。

だが、大石の映像が差し出すのは、むしろ、「同情や痛みを感じずに、記号化されたものとして、他者の苦痛の経験をまなざすことができてしまう」という事態ではないだろうか。私たちは、写真や映像メディアを通じてしか、遠く隔たった他者の経験を知ることができない。だが、壊れかけたテレビモニターがまさに示すように、そうしたメディアの機能自体が、既に失調している。大石は過去作品で、原爆のキノコ雲の写真を塩酸で溶かし、焼けただれた皮膚を連想させると同時に、それが「インクがのった紙の表面にすぎない」ことを露呈させ、「米軍に撮られ、広く流通した原爆のキノコ雲」という写真的経験を文字通り溶解させた。本作もまた、イメージの物理的基盤を露わにしつつ、「安全に眺められるもの」しか私たちは見ていないという麻痺状態に慣れてしまっていることそのものをまなざすよう、見る者に突き付けている。

★1──スーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』(北條文緒訳、みすず書房、2003)、pp.70-71
★2──同、pp.101-102

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鑑賞日:2025/07/26(土)