《仰向けで背負う》(2025)
※東京都現代美術館 開館30周年記念展「日常のコレオ」にて展示
会期:2025/08/23〜2025/11/24
会場:東京都現代美術館[東京都]
公式サイト:https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/30th-Anniversary/

《シッティング・イン・ザ・タイム》(2025)
※大和楓 個展「シッティング・イン・ザ・タイム」にて展示
会期:2025/08/19〜2025/08/30、2025/09/08〜2025/09/09
会場:立命館大学国際平和ミュージアム[京都府]
公式サイト:https://rwp-museum.jp/special/20250819_01/

《仰向けで背負う》の装置(写真右)は2024年の3月に卒業制作としてつくられた《Three types of exclusion》が元になっている。長尺のドローイングには辺野古の新基地建設現場での座り込みの様子が描かれている[筆者撮影]


装置へ乗り込んだその人の背中はしっかり預けられ、開かれた両脇から伸びる腕は肘掛に置かれ、その先で手首は重力にしたがって下がっている。手はわずかに開いているが、握りしめる前のようにも、後のようにも見える。身体は足首と、両脇から肘にかけて支えられている。そこから漏れた重量が、背中から尻にかけて本人にかかっているようだ。まっすぐに伸びた背中から尻まで下がりきってから、再びまっすぐと、両脚は上方へと伸びていく。装置の足下には13の小型キャスターがついていて、その人は水平に音もなく運ばれ去っていく。支えを持たない頭は遠く前を見つめていた。

この姿勢は作家の目に映ったもので、装置への乗り込みによって鑑賞者へ移っていく。カメラで写すのとは異なる方法で、身振りはうつされる。

大和楓の《仰向けで背負う》(2025)は、沖縄県の辺野古で現在も続く在日米軍の新基地建設に反対する市民有志による抗議運動、そのなかでも、座り込みと機動隊による排除の身振りをうつした作品である。現在沖縄を拠点に活動する大和は、かねてより「個人の身体技法が社会規範と密接に関わっているという問題意識のもと、観光産業や政治的文脈のなかで消費される踊り、あるいは日常のなかに埋もれた些細な身振りに内在する『型』に注目」し、「そうした型を浮かび上がらせることで、その身体が置かれてきた歴史的、政治的、文化的な構造を問い直」してきた★1。本作は長尺のドローイングと装置から構成されており、ドローイングには大和が座り込みに参加したり、目撃したり、聞き取ったさまざまな様子が描かれている。顔の明らかではない人々が──座り込む市民も、排除する機動隊員も──描かれている。本作について話を聞いたとき、排除されているときも含めて人々の意思ある抗議の一環であり、抗議が無力化されているわけではないように思える、と大和は話してくれた。運ばれる市民と、運ぶ機動隊員。排除を通じて力は互いにかかり合い、簡単に能動・受動に分けることは難しい。

ずっと座り込みを続ける人、あるときから参加する人、参加していた人。大勢がこれまでもそれぞれのの重さとともに、座り込み、排除されてきた。この繰り返しを、やり方が間違っていると、誰が言えようか。時間は過ぎていく。座り込みと排除が繰り返されていることは、翻ってそれだけ多くの身体を、声を、私たちが無視してきたことの結果にほかならない。

装置はそのような事実へ、身体を直接用いて迫るためにある。装置本体は大和の《Three types of exclusion》(2024)が元となっている。《Three types of exclusion》では異なる時代の三つの新聞記事写真から人が排除される様子を参照し、同様の姿勢を取る装置であった。本作においては、ドローイングを通じて導き出された、時代を越えて共通する排除にともなう姿勢を「型」として扱っている。

決してわかりえない他者のことを、ある姿勢に重なることで、せめて考え始め、考え続けることは可能になるはずだ、という強い信が大和にはある。この装置がうつすのは冒頭に挙げたような姿勢であるが、姿勢は前後に身振りを伴う。所定の位置についた姿勢そのものと同じくらい、その姿勢に至るための身振りが重要だと明示したことが、《Three types of exclusion》から《仰向けで背負う》への一番の変化ではないだろうか。この変化は、乗り込むためのハンドルの追加に表われている★2。鑑賞者は、ハンドルを握り、装置に乗り込む。乗り込む身振りは、この装置に特有のものであり、辺野古で起きている座り込みからこの姿勢に至るまでの身振りや経緯とは大きく異なる。だが、装置へ乗り込む人の姿を見たとき、私は排除される姿勢のなかにも確かにある抗議を、意思を、重ねて見られたように思う。

本作に限らず、ある装置に乗り込むことと、ある状況に対して身を投じることが比喩的に重なるというのは作品のレトリックとしてよくあるものだし、想像に難くない。同時に、意味としてわかるだけで、実感あるものとして伝わることは少ない。だが、本作ではそうではなかったのだ。ある姿勢に重なりに行くために必要な異なる身振り──装置に乗り込むこと──は振付化されており、その身振りが異なる意味を伝達していた。ハンドルに上半身を引き寄せる腕の緊張、そのときに見てとれる身体の重さ。そしてその重さが、自らの手を離れ、重力に引かれながら、装置に支えられること。重さはなくならないことが、一連の身体から伝わってくれること。

このように、本作では明らかに、トレースの前後にある身振りが問題に含まれ、また強く機能している。《Flip the paper near the chin》(2023)では、カチャーシーをトレースした身振りだけが作品に残されることで強調されている。そして、その身振りに沖縄の状況が意味として重ねられていた。一方、問いかける事実やトレースする姿勢だけをうつすのではなく、ある姿勢に至る身振りまでがうつされようとしているのが、現在の大和楓の制作だと言ってよいだろう。


★1──《仰向けで背負う》が出展されている東京都現代美術館 開館30周年記念展「日常のコレオ」で掲示されている作家紹介の冒頭より。担当キュレーターは崔敬華、小高日香理。パフォーマンスとワークショップを権祥海、原田美緒が担当。
★2──ハンドルの追加と併せて、ヘッドレストが撤去されている。ヘッドレストがある方が、姿勢そのものの再現度は高かったかもしれない。しかし、問題となるのはその姿勢に至る身振りであり、意思である。ハンドルを握りフレームに足をかけ姿勢を取ろうとすること、自らの力で首を立ち上げ目線を前に向け続けること。「日常のコレオ」において、本作はいつでも体験可能なものではないが、この装置に乗り込むということの持つ意味が少しでも伝わってほしい。なお、10月25日(土)、26日(日)には大和によるパフォーマンス&アクティベーションワークショップが行なわれる予定。最新情報は展覧会公式サイトを参照のこと。


後編へ)

鑑賞日:2025/08/23(土)
※《仰向けで背負う》