唐突だが、まず「叩く」という行為そのものについて、しばし思いを馳せてみたい。もうすぐ三歳になる筆者の娘は、棒でもスプーンでも、手に触れたあらゆるものを叩く。もちろん、リスクがあったり物が壊れそうになったりしたときは止めに入るが、ふと予期せぬ良い響きが立ち上がると、思わず「いい音だね」と声をかけてしまうことがある。叩くという身振りは、これ以上なく単純でありながら、驚くほど豊かな情報量を内包している。叩く主体と叩かれる客体の関係性、接触点の微細な位置、運動に加えられる速度と質量、そして腕が描き出す軌道とその減衰。そこから生まれる音は、ある程度は予見できるにもかかわらず、常に僅かな裏切りを伴って私たちの耳に届く。

時間に痕跡を刻む、叩くという身振り
スタンリー・キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』(1968)の冒頭、ヒトザルが天啓を得て骨を手にし、それを道具として、そして武器として振るう有名なシークエンスがある。あの骨は、人類最初の道具であると同時に、最初の楽器の獲得をも象徴していると解釈できるかもしれない。打楽器とは、音が発生するメカニズムが完全に可視化された楽器である。その剥き出しの可視性ゆえに、「時間がいかにして生成されるか」という根源的な問いを、観客の眼前に露わにする。それは、いわば時間に落書き(グラフィティ)を刻みつける行為に他ならない。
このあまりにも根源的で当たり前な身体の身振りを、現代的なテクノロジーと研ぎ澄まされた作曲技法によって見つめ直し、新たな知覚の地平を切り拓いたのが、音楽家・日野浩志郎による新作《Chronograffiti》である。2025年6月、ドイツのMoers Festivalからの委嘱により世界初演された後、7月にクリエイティブセンター大阪内のBlack Chamberにて待望の日本初演が行なわれた。ステージに立つのは、元・鼓童の中心メンバーである前田剛史、日本管打楽器コンクール第一位の実績を持つ安藤巴、そして昨今の日野の作品に頻繁に参加してきた谷口かんなという、現代日本の打楽器シーンを代表する三名のソリストである。そして、ダムタイプへの参加でも知られるアーティスト/プログラマーの古舘健が、ヴィジュアル・エフェクトを手掛ける。
この構成は、2023年にロームシアター京都で上演された日野を中心としたコンサートピース「Phase Transition」の座組に近い。しかし、そこでは古舘も演奏者として音響に関わっていたのに対し、本作ではヴィジュアルに専念している点が決定的な違いである。ステージ上には、ボンゴやタムといった必要最小限の楽器群が並ぶ。そこに、極めて明晰な構造を持つ日野の作曲と、古舘によるリアルタイムの映像処理が掛け合わされ、この三位一体が、聴覚と視覚の両面からミニマリズムの概念を押し広げていく。Chrono(時間)とGraffiti(落書き)を組み合わせた造語が示す通り、本作は「時間が空間に描く痕跡」そのものを主題としている。本稿では、公演の流れに沿いながら、この野心的なコンサートピースについて論じていきたい。
時間の縫い目を覗き込む〈オーディオ・ヴィジョン〉
[撮影:井上嘉和(以下同)]
会場に足を踏み入れると、ステージはあらゆる装飾が削ぎ落とされた空間だった。中央に等間隔で並べられた三台のボンゴと、それぞれの奏者の手元を照らす簡素な照明器具。しかし、いわゆるセンサーやカメラ類は一切見当たらない。私は当初、人間の動きをデジタル集積し、リアルタイムで制御するアプローチを想定していたので、このミニマルな構成は意外であった。客電が落ち、前田、安藤、谷口がそれぞれの楽器の前に立つ。開幕と同時に、三者は高速かつ均等なパルスでボンゴを連打し始めた。
提示されるリズム・パターンは驚くほどシンプルである。しかし、三者の打面の微妙な違いとタッチの差異が音の輪郭を絶えず変容させ、聴取の焦点は安定した拍節から、音の消え際の繊細なニュアンスへと自ずと移動していく。三人の連打が生み出す音響のテクスチャーのなかから、特定の音の連なりを意識的に捉えようと耳を澄ますと、その音のパターンは既に別の文様へと姿を変え、聴こえ方そのものが揺らいでいることに気づかされる。
ここに、自身が率いるバンド・goatや鼓童との協働作業を通じて日野が研ぎ澄ませてきた、彼独自のリズム言語の核心がある。リムショットを含めた最小限の打面から生じる音色の差異を、三人の奏者によって同時に駆動させ、その微細な変化を干渉させる。単一の音の反復が、三者の演奏のわずかな位相のズレによって、複雑で有機的な「うねり」を生成していくのだ。これは、物理的な音響現象であると同時に、聴き手の知覚に直接作用する音響心理学的な設計でもある。
その純粋に聴覚的な体験は、数分後、新たな次元へと移行する。古舘によるヴィジュアル・エフェクトが立ち上がる。高速のストロボの明滅が、肉眼では捉えきれないスティックや腕の軌道を、あたかも連続写真のように一枚一枚切り取っていく。音の残響(尾)と光の軌跡(尾)が、わずかにずれながら重なり合い、ここに二重化された時間が立ち上がる。一瞬、脳がバグを起こしたかのような錯覚だ。ボンゴを叩くという連続した動きが、三次元的な光の彫刻として眼前に現われるその視覚・聴覚体験は、率直に言って異様で、そして不思議な美しさを湛えていた。
古舘のエフェクトは、普段であれば連続した動きとしてしか認識されない運動の軌跡を可視化し、演奏という刹那的な行為の残像を「視覚的グリッチ」として空間に定着させる。それは、単なる美しい照明演出ではない。運動のベクトルと、そこから生まれる倍音の立ち上がりを不可分の一体として知覚させる、極めて高度な〈オーディオ・ヴィジョン〉の設計なのである。プレスリリースに記された「通常では感知されない動きや振動の表出」という要約は的確だが、現場での体験はそれを遥かに超えて生々しい。それは映像的でありながら確かな立体感を備え、まるで時間の縫い目を覗き込むかのようであった。公演開始時、筆者は最後列の席に座っていたが、この最初の楽曲が終わるやいなや、その不可思議な光景を少しでも間近で捉えたいという衝動に駆られ、最前列の空席へと吸い寄せられるように移動していた。

第一部が終わり、機材転換が行なわれる。ステージ中央に運び込まれたのは、巨大な大太鼓。前田剛史によるソロ・パフォーマンスの始まりである。空間を切り裂くような鋭い一打から始まった。しばらくの沈黙があり、そして、また一打。徐々に打撃の間合いが詰められ、腕の振りの振幅が段階的に増していく。すると、ある瞬間、耳に音が届くよりも先に、まず空気の密度そのものが変化し、皮膚が圧力を感じるという倒錯した体験が訪れる。
破裂音にも似たアタックの鋭さと、雷鳴のように腹の底に響き渡る持続的な重低音。その二つが、強打が生み出すプリミティブな快感として重なり合い、聴き手に畏怖にも似た不安と、抗いがたい興奮を同時に与え続ける。凄まじい音圧と身体性。しかし、パフォーマンスは単なるパワーの誇示では終わらない。ステージの斜めから照射される小さなストロボの明滅が、前田の動きと連動し、膨張していく音の輪郭を、過不足なく、そして極めて的確に縁取っていた。
事前のインタビューで、日野が本作の着想のひとつとして「(前田)剛史の太鼓を打つときの、あの美しい軌道を捉えたい」と語っていたが、その言葉の意味が、このパフォーマンスを目の当たりにして深く理解できた。古舘のヴィジュアルはここでは抑制的だが、そのミニマムな光の彫刻が、前田の肉体そのものが孕むダイナミズムを、より一層際立たせていた。そして何より、徐々にトランス状態に近づいていくかのような前田の表情。それは、まさに空間ごと切り取って保存したくなるような、強烈な情景であった。
〈反復と差異〉──叩くことは常に新しい実験の入口

しばしのインターバルの後、最後の演目が始まった。ステージには、三人の奏者が三角形に向かい合うように、ボンゴ、コンガ、タムが配置される。安藤と谷口によるデュオから始まり、やがてそこに前田が合流し、三位一体のアンサンブルが展開されていく。ここで演奏される楽曲の構造は、goatや彼が音楽監督を務めた鼓童の作品で探求してきたリズム進行と強い類似性を持っている。しかし、それは単なる過去のスタイルの反復ではない。
ここでふと、〈反復は差異を生むための手段である〉という、ミニマル音楽における古典的なテーゼが思い出される。反復という行為それ自体が目的なのではなく、最小限の音楽的素材を用いながら「聴取の重心がどこに置かれるか」を絶えず揺らし、変化のプロセスそのものを知覚させるための方法論である、という見方だ。例えば、スティーヴ・ライヒの金字塔《Drumming》(1971)は、複数の同一フレーズのわずかな位相のズレによって、聴き手が特定のパターンに聴取の重心を固定することなく、変化のプロセスそのものを意識化させる点を強調していた。本作《Chronograffiti》は、その視点をさらに拡張し、「耳と眼の二層構造」において聴取(聴視)の重心を揺さぶる試みであると捉えることができるだろう。
また、前述した《Phase Transition》では、電子音と生打楽器の同期・連動が試みられていたが、本作では電子音響が介在せず、あくまで生音のみで構成されていた(会場規模によってはPAが使用されるだろうが、本質は変わらない)。その電子的な制御の役割を、古舘のヴィジュアル・エフェクトに完全に振り分けたことは、本作の僥倖と言えるだろう。身体や空間の情報をいかにリアルタイムで可視化するかは、VJ/メディアアートにおけるテーマのひとつである。そのなかで、本作のアプローチは、昨今のジェネラティブな映像生成の潮流に対しても、極めてクリティカルな回答を提示していた。
日野は、《Virginal Variations》や《GEIST》のような大編成の楽器演奏者からなるサウンドピースにより、大規模なスピーカー構成や全身的な聴取体験を設計する一方、近年は《KAKUHAN》や《Phase Transition》で、より小編成での電子音と打楽器などの連動する試みを重ねてきた。本作は、その流れを汲みつつも、より焦点を絞り、「打面—身体—可視化」という三者の連結をミニマムな要素で極めようとする意志が貫かれている。大太鼓という大物はあれど、数個のポータブルな打楽器と、この公演のためにカスタム制作されたであろう照明群のみで成立するその簡潔さは、本作が持つストイックな志向性と深く連動している。そして何より、この身軽さは、今後の国内外でのツアー展開における機動性という点で、極めて大きなアドバンテージとなるだろう。(筆者自身、日野の《GEIST》の制作を担った経験から、作品の稼働力の有無が、その後の展開を大きく左右することを実感している。)

本作の強度は、より大きな太鼓や、より派手な演出に頼るのではなく、最小限の要素で世界の根源を振動させる点にある。もちろん、次なる段階として、打面の素材の変更(皮/合成素材/金属)、マレットの重量の差異、照明周波数の離散化など、音色や時間のパラメータをもう一段階拡張していく実験の余地は無限にあるだろう。叩くことは、最古の音楽行為である。しかし、その古さは、技法の貧しさを意味しない。むしろ、それは常にもっとも新しい実験の入口であり続ける。《Chronograffiti》は、その揺るぎない事実を、これ以上ないほどの明快さをもって更新した画期的な作品である。
最後に、制作を支える環境についても一言付け加えたい。本作のような先鋭的な創作は、それを可能にする実験場(ラボ)としての機能と不可分である。日野が拠点とする北加賀屋の「音ビル」は、まさにその役割を担う場として、ますますその存在感を高めていくだろう。この卓越した実践を可能にした条件とは何か。そして、そこから生まれる「創造の循環」を、いかにして私たちの社会に実装しうるのか。こうした問いへの考察は、また別の機会に譲りたいと思う。