会期:2025/07/04~2025/07/27
会場:ワイキキSTUDIO[神奈川県]
公式サイト:https://x.com/office_mountain

横浜・ワイキキSTUDIOで山縣太一と飴屋法水による『塹壕』が上演された。作・演出・振付を山縣が担当し、7月の週末にかけて1日1回18時から、全13回の公演が行なわれた。

山縣と飴屋の共演は7年前、『三月の5日間』アウトレイジ版(2018年3月)と『スワン666』(2018年6-7月)以来と思われる。私はこれらの公演をともに観ているが、演劇鑑賞が習慣化されておらず、直近の観劇は5月に慶應義塾大学で上演された今貂子の舞踏『彗星』とかなり偏っている。そのため公の場で演劇のレビューを書く資格があるとは言えないが、『塹壕』の記録を残しておきたい。本作は撮影禁止で、私の鑑賞回ではスタッフによる動画撮影も行なわれていないように見えた。

開演前から俳優たちはステージの周辺、スタジオがあるビルの階段や屋上にいる。観客はワークショップの参加者のように体調管理や水分補給について山縣から気遣われ、座席誘導などのアナウンスを受ける。上演中であっても異変があったらすぐに伝えるように、自分は観客を見ているからと山縣は言う。ステージとなるフロアには、背もたれ付きの黒いパイプ椅子2つと背もたれのない丸椅子1つがある。黒い椅子の上には書籍『これは演劇ではない』とドラムの棒1本が合わさり、それぞれの座面に乗っている。壁沿いの床には水の入ったペットボトルも2本置かれていた。

18時になると、飴屋がA4程度の白紙に時計の絵を描き始めた。絵の中の時計はおそらく18時を指している。彼は別の白紙にカタカナで「イル」と書く。ステージに向かって左手の壁に時計の絵、右手の壁に「イル」の紙が貼られる。山縣から開演が告げられた。

山縣は丸椅子に座って両手を交差し、黒いパイプ椅子に置かれた書籍を棒で叩いてリズムを取り始める。以降、脚本『塹壕』の文言が山縣、飴屋から、それぞれに発せられる。つまり、同じ文言がそれぞれの口から語られる。言葉を発する彼らの身体は常に動いている。暗唱した言葉と体の動きが拮抗するような状態が立ち上がり、その状態にある2人の俳優による反復、呼応、ズレが湧出し続ける。

彼らが発する『塹壕』の文言は、連想やイメージに満ちている。駄洒落による言葉と音の遊び、俗っぽさがある。リズムと意味における優先レベルが波立つように入れ替わり続ける。たとえば「はじめまして、リアリティでもどうだんすか? エミネム。諫言むなしくしく、せせり泣き。」と聞き取った箇所を振り返ると、「はじめまして」と「お茶のような何かを勧める」という英会話レッスン的な構文が受容できる一方で、リアリティを「ダンス」の音を内包した東北弁で尋ねる状況はよくわからない。エミネムはアメリカのラッパーだろう。諫言空しくの「しく」の語感が、泣いている状態の擬音「シクシク」を誘発し、せせり泣きという言葉を引き寄せる。というように、全体的な意味としては通らないけど、文体や音、イメージとしては通る、あるいは通った気がしたけどよく考えると通らない、というようなセンテンスの鎖が途切れることなく公演中ずっと続いていく。

ちなみに上記の文言は、脚本ではこのようにつづられている。「恥めまして、リアリ茶でもどうダンスか? 笑み眠。諫言むなしくしく。セセリ泣き」。固有名詞として受け取っていた「エミネム」は、笑みと眠りを中和させた造語であり、わかったつもりになっていた文言にもすれちがいが起こっている。

しかもこうした言葉の連鎖は体の動きを伴ううえに、2名の俳優による異なる様相とともに倍加される。彼らが扱う言葉も動作も私たちが日常的に使うフレーズや身振りを礎に、変調や飛躍が起こり続ける。演劇における言葉と身体の取り組みが、どうしようもない世界観を携えた現代日本の同時代性を伴って細胞のように新陳代謝している。

戯曲の文言はところどころブロックとなり、脚本では一度しかつづられていない箇所が反復されたり、脚本にない「18時になったけどあと2名来るはずだから」といった文言が挿入されたりする。しかし基本的には脚本に忠実であり、また脚本を読まなくても二人が同じ文言を発しているために、思いつきのようにも思える言葉が即興でないとわかる。

記憶した言葉を発する意識は少なからず身体動作に影響を与えるだろう。言葉が即興だと、体が自由にふるまいすぎる。暗唱した言葉が脳や口を使って外へ出る、という影響を受けた身体の動きが目の前で起こっているという演劇性を感じさせることが企図されてみえる。そして暗唱による身体の抑制は、空間そのものを変質させもする。上演前から俳優は同じ場所に立って声を発していたが、暗唱によって同一の空間が待機所から舞台へと変化している。

椅子や照明を用いた展開も起こりながら、戯曲にはときどき塹壕そのものに関わるフレーズが登場する。日常的であどけない言葉は、後半になるほど蓄積によってイメージを乗算させ、字義通りではなくなった言葉の渦が塹壕という唯一の手がかりが持つ暗がりの穴に吸い込まれていく。積み重なる言葉と運動の関係性のあとで、「臼と杵とは幼馴染」といった言葉から窺える馬鹿馬鹿しさの質に戸惑っているうちに、次の言葉と身振りがやってくる。

本作の脚本はA4サイズの用紙、10ページいっぱいに綴られていて段落がなく、全ての言葉が1センテンスごとにつながっている。そのため最後の一部を示すのは適切ではないが、次のように終わる。「目だけは目玉だけは目玉の黒いとこだけは常に塹壕の入り口を探している。探し。続けて。イル」。初めに飴屋が描いた18時を示す時計から、「イル」に到達して『塹壕』は終演した。

鑑賞日:2025/07/04(金)

★──よくわからないのはよくよく考えたらわからないだけだ。お茶を勧める体で「リアリティでもどう」まで言ってしまった気恥ずかしさから、そのまま「だんすか?」と自分でもよくわからないままふざけてしまうテンションのような流れとして、観劇中は受容している。