学校と連携して教育普及事業を展開したり、地域と美術館をつないだり──従来の「学芸員」の枠組みにとらわれずユニークな活動を展開する全国各地のキュレーターにスポットをあて、リレー形式で話を聴きつないでいく対談連載「もしもし、キュレーター?」。今回は、国立ハンセン病療養所菊池恵楓園(熊本県合志市)の入所者による絵画クラブ「金陽会」の作品の展示活動を各地で展開するキュレーター・藏座江美さんが聞き手となり、高松市美術館の学芸員の石田智子さんを訪ねました。
美術館所属の学芸員として展覧会企画などに従事するかたわらで、作品の実物を持って近隣の小・中学校や公共施設に赴く出張授業「お出かけ美術館」に近年積極的に取り組んでいる石田さん。美術館の外で、子どもたちが作品とじかに出会う場所を作る実践を共通して行なってきたお二人に、そのなかでこそ見えてくる学校教育の制度をとりまく実情や、アートの魅力に気づいてもらうためのフックを作ることの醍醐味について話していただきました。(artscape編集部)


取材・構成:杉原環樹
イラスト:三好愛

※「もしもし、キュレーター?」バックナンバー:第1回〜第9回第10回〜

前編「『来てもらう』ではなく『出かけていく』からこそ見える景色」より)

子どもや先生が何でも言えるシチェーションをつくる

──前編では石田さんが小学校に訪問するようになったきっかけや、現場に行くことで見えるものの重要性についてお聞きしました。授業における子どもとのコミュニケーションについても伺いたいのですが、授業をする際に工夫していることは何かありますか?

石田智子(以下、石田)──工夫しているのは、クイズをすることです。本当は、話術巧みに、作品や作家のことを話せてみんなの興味を引きつけることができれば良いのですが、私にはそんな技術はないので……(苦笑)、邪道かもしれないけど、クイズを出します。「クイズやで!」って言うだけで、小学生は一気に話を聞いてくれるようになります。

──(笑)。クイズは世界の見え方を変える……ですね。

石田──そう。クイズの力は本当にすごいですよ。例えば浮世絵の授業では、──浮世絵はきちんとした木版の複製を持っていくのですが──「判じ絵」(江戸時代に庶民の間で流行した、絵に置き換えられた言葉を推理する謎解き)に何が描かれているかというクイズを出したり。先生のなかには嫌な顔をされる方もいますが、野菜がおなら(屁)をしている絵で「なべ(菜・屁)」を表わす絵を見せたら大爆笑してくれます(笑)。プライドを捨てて小学生にウケることをしています。

──逆に、これはやらないでおこうとしていることはありますか?

石田──私が思う「良い答え」にだけ良い顔をしないことです。想定していた答えにだけ肯定的に反応して、そうではない答えには「なるほどね(でも思ってた答えとは違うな〜)」みたいな反応はしたくない。だから、私はむしろ正直に「それは私が考えていた答えじゃないけど、確かにそれも思うよね」などと言っています。子どもって大人に合わせようと演技するから、「本当に思ったことを何でも言っていいよ」という空気づくりは心がけています。


「お出かけ美術館」の様子。複製木版画の浮世絵を手元で眺める[写真提供:石田智子]

藏座──私は質問返しをよくします。金陽会の場合、ハンセン病という背景もあり、その応答がシリアスになることがあります。例えば、出産を許されなかった金陽会メンバーの奥井喜美直・紀子夫妻の作品を見せて、「なんで産んじゃいけないの?」と聞かれる。そこでそれこそ上滑りの言葉で説明することもできるけど、真剣な目で聞かれると適当には言えない。「なんでだと思う?」と、納得いくまで向き合う時間が大切だと思っています。

一回とても胸が痛かったのが、アトピーの子がいて、肌を見せながら「これはハンセン病ですか?」と切実な目で聞いてきたこと。おそらく先生から事前にハンセン病の説明を聞いたんでしょうね。時間が短かったり、十分伝えきれないとそういうことが起こる。子どもにとって先生の存在はとても影響力が大きいので、そこは真剣勝負だと思っています。

──お二人は、前半でも触れたアーティストの鴻池朋子さんより、鴻池さんの制作した《指人形》を借りていて、それをこうした学校などでの取り組みに使うこともあるそうですね。




お二人がそれぞれ鴻池朋子さんから借りている《指人形》(2023-24)[撮影:artscape編集部]

★──鴻池朋子「メディシンインフラ・プロジェクト」の一環で金陽会と高松市美術館に作品が貸与されている。本プロジェクトは、作品を収蔵庫にしまわずに、さまざまな場所や人々に貸し出し、使いながら保管してもらおう、という取り組み。詳細は「メディシンインフラ・プロジェクト」のサイトを参照のこと。


藏座──ええ。私の場合、指人形は子どもというより、先生のために借りたんですよね。子どもは黙っていても話してくれる子が多いけど、先生は「これを言って良いのか」というバイアスがかかっていることも多い。そのとき、指人形をつけると話しやすいんです。

石田──そうそう。

藏座──ある先生は指人形をつけて、「私は(金陽会メンバーの)吉山安彦さんのこの二つの絵が好きです。故郷が同じ天草だと聞いて、とても嬉しかったし、誇らしい」とすごく素直に話してくれました。あれは、指人形をつけていたからだと感じました。地域の人も集まる人権学習の会だったんですけど、校長先生も指人形をつけて等身大の話をしてくれた。大人は立場や状況を気にするけれど、指人形はそうしたものを取り払ってくれる力があります。

小学校での金陽会の展示での一幕。作品を前に、指人形を通して子どもたちに語りかける先生[写真提供:藏座江美]

石田──病気や怪我で入院中の子が勉強をしている院内学級に行ったことがあって。そこで、教育普及を担当する同僚の福田千恵さんと一緒に考えた、指人形をつけて、その人形が好きなものや嫌いなものについて考えてなりきって話すというプログラムをやったんですが、病院の方から「病室から出られない子がいるので、その子にもやってくれないか」と頼まれたんです。

訪れてみると、とても静かな子で、お母さんもいるけれど、緊張もあったのか何もお話しされないんです。ただ指人形をつけて話してみると、「外で走って遊ぶことが好き」と。おそらく外遊びが難しい病状の子だったので、普通だと何も言えなくなってしまうのですが、そこでは「指人形が話しているのかも」という余白が生まれて、会話が続けられました。だから、本音も言えるし、嘘も言える。「何かになる」というのは、そうした効果がありますよね。

美術館の外に出て、できることの範囲がわかってきた

石田──「出張美術館」や「お出かけ美術館」の話を、鴻池朋子さんにしたときに、ちょうど鴻池さんが手に触れて遊べる作品を考えていろいろ作っていた時期で、《指人形》を10点ほど貸してくださったんです。その指人形を持って行ったとき、子どもたちは大盛り上がりでした。表現力のある人が作ったモノとしての美術作品には、見る人の気持ちを上げて、ものの見方の解像度を高くするような力があるように思います。前半でも触れましたが、上田薫さんの作品を見せた際は、その後、子どもたちの観察力や画力が上がった感じがありました。

──モノをしっかりと見ることが、鑑賞者側の表現力も引き上げるということですね。一方で、美術にまつわる授業って、学年が上がるほど、上手い子は技術を洗練させて、ほかの子は苦手意識を持って避けたり、ただ知識を覚えるという方向になりがちな気がします。そのなかで、知識を得るほど、大人になるほど、絵をただのモノとして見ることは難しくなる。

藏座──なので、私は「事前にハンセン病の授業はしないでください」と頼んでいます。事前に「この絵はこういう人が描いた」とか、「こういう絵だ」とか、知識が入っちゃうと、そうとしか見えなくなってしまう。

例えば、さっきの吉山さんに、星の周りにぐるぐるした跡が描かれた絵があって。これは吉山さんがゴッホ好きだからなのですが、子どもは「周りが渦巻きみたい!」って言うんです。もしかしたら子どもたちのなかでは、吉山さんがオリジナルになり、ゴッホの絵を「吉山さんみたい」と思うかもしれない。そんな勘違いが起きたら面白いし、知識を通してではなく、絵そのものを楽しんでいるのは、子どもたちのほうの見方なんですよね。

藏座江美さん[撮影:artscape編集部]

石田──さらに物理的な話だと、絵=平面だと思いがちだけど、絵の具や紙の質感なども含めて、実は立体的ですよね。それは手元でじっくり見たときに実感できたりもして、美術館の壁だと表面を見てしまうのかなとも思う。さきほどの延長で言えば、美術館もモノではなく情報に触れる場になってしまっていないかという視点は大切なように感じます。

藏座──それで言うと、学校での取り組みを始めたことで、何か美術館の見方が変わるようなことはありましたか?

石田──むしろ、あまり美術館について考えなくなったかもしれないです。以前は「なぜ来てくれないのか」と考えたり、「小学校に平等に行くのは無理」と足踏みしていたけど、自分で工夫して方法を考えることで活動をかたちにできた。そのなかで、いい意味で「美術館もひとつの施設にすぎない」と思えるようになり、美術館の中ではできることをやればよくて、難しければ外に行けばいいと、その範囲が掴めるようになった気がします。逆に、美術館の中でしかできない展示や活動があるということも実感できたように思います。

石田智子さん[撮影:artscape編集部]

藏座──ああ、そうですね。「地域に開かれた美術館」を館内でどう実現するかと考えがちですが、活動の場はこの建物だけじゃないと思えたら、心持ちはだいぶ違いますよね。

石田──はい。いろんな場所があるし、意外と協力者もたくさんいるし。以前、美術館にいたら、訪れたことのある学校の子から「先生!」って言われて。一瞬、誰のことかと思ったけど、ああ、私かと。そんな感じで街に自然に広がっている感覚があって。

──石田さんが前編の冒頭で話していた「敷居の高い学芸員」の反対になってますね。街の人に気軽に話しかけられる存在になっている。

石田──確かに。一回話したことあるから、声もかけやすいですよね。友達みたいに思っていてくれたら嬉しい。

一方で、ちょっと心配なのは、私がこうして活動について話すことで、「高松市美術館ではできたんだから」と、ほかの美術館にこのような活動が求められてしまうこと。美術館の状況は館それぞれで全然違うし、私の性格やこれまでの経験、何より協力してくださる方々のおかげで、このような活動が実現しています。同じような問題意識を持っていたとしても、同じようにできるかと言えば、難しい場合もある。ただ、工夫によっていろんなことができるというのは、思っておいてほしいなとすごく感じます。

世界の解像度を上げる、「モノ」の体験

──石田さんがさまざまな工夫をしながら「お出かけ美術館」の活動をされていること、また、そこには「アートを必要とする子に、その存在を知ってほしい」という思いがあることを聞いてきました。そのとき、石田さんにとってアートの大切さとは何ですか?

石田──少し抽象的になってしまいますが、作品はモノだけど、対話できる「人」のような存在でもあると考えていて。人はコミュニケーションのなかで育つけれど、人間だけを相手にするのはしんどいときもある。そのとき、対人間ではなく、自分で主体的にモノと対話することでしか育たないことや、癒されないものがあると思うんですね。モノとして一つひとつ違ったかたちで作りこまれていて個別性があるアート作品には、そうした媒体になる可能性があるんじゃないか、と。

上田薫展の際の「出張美術館」の様子[写真提供:石田智子]

──確かに、すべてを人間目線で見たらこの世界は息苦しいですよね。そのとき、モノや自然と触れ合うことが、人が生きる栄養になることがある。その意味では、アーティストってつねに素材というモノと対話をしている存在でもあるので、そのコミュニケーションの結果である作品は、子どもが世界の異なるレイヤーと出会う回路になりえますね。

石田──そうですね。そうした体験の必要性をすごく感じていて。というのも、いまはものの見方が画一的になっているという気もするんですね。

例えば、同じ葉っぱの緑色でも、実物と、印刷された写真と、それをパソコンの画面で見るのとでは、色が違いますよね。だけど最近は、いろんな体験がスマホなどの画面の上で起こるようになっていて、その差を感じる力が育つ機会が少なくなっている気がします。そこでは実物の緑も、CMYKやRGBとのかけ合わせで表現された緑も、同じ「緑」という情報に還元されてしまう。だから、この活動の背景には、狭い意味でのアートの必要性というより、「液晶画面の手触りと光だけで育って大丈夫?」という、子どもの環境への危機感もあります。

パソコンやスマホ、インターネットでこれまでアクセスできなかった情報を得られることはとても良いことです。私はインターネット大好き人間だし、何ならそれに救われてきたと思います。けれども、それだけでは得られない情報もたくさんあることを忘れてはいけないと思います。言葉や見えるものだけでは表わすことができない情報がこの世にはたくさんありますからね。

藏座──わかります。以前伺った小学校で、図工の授業で何をしているか子どもたちに聞いたら、タブレットで見つけた綺麗な花の絵を描いていると聞いて驚いたことがあります。それなら、窓から見た雲とか、拾ってきた葉っぱとかを描いてもらうほうがいいんじゃないかな、と……。

石田──「花」だから同じと思ってしまうんだけど、実はまったく違うわけで。

[写真提供:藏座江美]

──お二人の活動以外にも最近、小学校をめぐるアートの試みが増えている感覚があります。例えば、何度か名前が挙がった鴻池さんが小学校でワークショップを行なったり、弓指寛治さんが「小学4年生」として東京・昭島の小学校に通ったりしている(東京アートポイント計画、NPO法人アートフル・アクションによる「アーティストが学校にやってきた」)。そうした活動の背景にも同じ危機感があるのかもしれないですね。

藏座──私も弓指さんの活動に注目しているのですが、やっぱり小学生くらいが一番反応がいいというか、素直だし、忖度なしで思ったことを言ってくれる。鉄は熱いうちに打てではないですが、まだ感覚が柔らかいうちに、「役に立つ情報」とかではない、根っこの部分から支えになるような力を養う必要性を、多くの人が感じているのかもしれません。

石田──いまは視覚情報に偏りがちだけど、人は身体全体で生きるから。作品鑑賞という機会を通してモノと直に触れ合うことは、ほかの感覚を広げるきっかけにもなるんじゃないかと考えています。小学生くらいだと、外から人が来ること自体も良い刺激になりますよね。

藏座──今日はお話を伺って、小学校の活動を始めたことで美術館という場にこだわらなくなった、できないことは外に出てやれば良いと考えるようになった、というのが自由で良いなと思いました。私も美術館にいた頃は「なんで来ないの?」と、社会を仮想敵のように捉えていた部分があって。でも、それは自分のなかの見えない敵と戦うようなもので、石田さんみたいに外に出てみたら大したことはなかったりする。その一歩が大切ですね。

石田──そうですね。人に会うほど、人と接するのが怖くなくなってきました。前編にあった「社会科見学」の話ではないですけど、体験が持つ力ですよね。作品というモノが情報に還元しきれないように、小学校でも、地域でも、実際の場所に身体で飛び込むことで見えてくるさまざまな事情や現実がある。そこから物事を考えることが重要だなと思います。

[撮影:artscape編集部]


(2025年8月、高松市美術館にて取材)


[取材を終えて]
お盆真っ只中の日程での対談収録。雨の日の夕方に到着した高松の丸亀町商店街のアーケードの下、まるで水の中にいるような湿度や、翌日のかんかん照りの眩しく蒸し暑い中央通りを日陰を探しながら歩いた感覚を思い出す。「美術館もモノではなく情報に触れる場になってしまっていないか」「モノでありながら、対話できる『人』のような存在でもある」という言葉に深く頷きながら、お二人の対話を聴いていた。パンデミックの記憶もすでに遠いものになり始めているいま、時間をかけて目の前の作品を観察し向き合うことを忘れていたり、それらを省略せざるをえなかった自分の生活の忙しなさを、後から振り返って不甲斐なく思うことが時折ある。「見る」という動作のなかに、数え切れないほどたくさんの身体、そして心の動きがある。感覚を研ぎ澄ませて、独りきりでモノと対峙することは、世代を問わず多くの人に必要なトレーニングのようなものでもあると同時に、自分自身と向き合い癒やす時間でもあるように思う。(artscape編集部)


イラスト:三好愛(みよし・あい)
1986年東京都生まれ、在住。東京藝術大学大学院修了。イラストレーターとして、挿絵、装画を中心に多分野で活躍中。主な仕事に伊藤亜紗『どもる体』(医学書院)装画と挿絵、川上弘美『某』(幻冬舎)装画など。著書にエッセイ集の『ざらざらをさわる』(晶文社)と『怪談未満』(柏書房)、絵本の『ゆめがきました』(ミシマ社)がある。
https://www.instagram.com/ai_miyoshi/