「ヘリテージ」という言葉から、何を思い浮かべるだろうか。
日本語では、しばしば「遺産」「伝統」「伝承」と訳されるが、オランダのラインワルトアカデミーでの学びを通じて、日本語の意味だけでは捉えきれない、広がりと可能性に満ちた概念であることを知った。本稿では、オランダのヘリテージ機関Imagine ICの事例を通して、ミュージアムの枠を超え、社会と関わるヘリテージ・スタディーズの取り組みを紹介していきたい。

負の記憶を持つ地域で、個人の語りとその持ち物が伝えるもの

オランダのヘリテージ組織、Imagine ICで開催されている「南東部のショーケース」展。アムステルダム南東地区の住人約30点の持ち物と、そのモノにまつわる個人のストーリーが常設展示されている。記憶や感情が結びついたモノから、それぞれが歩んできた人生やできごと、さらにはコミュニティや歴史的事実について知ることができる。


「南東部のショーケース」展の様子(Imagine IC、2025)[筆者撮影]

展示オブジェクトのひとつに、小さなキーホルダーと回想の言葉がある。透明なクリスタルボールがついたキーホルダーは、福祉団体のスタッフだったムーアが、ひとりの子どもから譲り受けたもの。ムーアは語る。

「飛行機事故のあと、私たちは子どもたちを海辺に一日連れて行った。帰る途中、ひとりの子が事故のときに唯一持ち出せたもの──『ダイアモンド』のついたキーホルダー──をくれた。それからずっとわたしのカバンについていた」


事故から25年間、ムーアがどこにいようと事故の記憶を連れていく方法だった。


ムーアが譲り受けたキーホルダー(右)(Imagine IC、2025)[筆者撮影]

日本ではあまり知られていないかもしれないが、1992年、同地区内のベイルメール(Bijlmer)というエリアで飛行機事故(以下、ベイルメール飛行機事故)が発生した★1。高層マンションにイスラエルの貨物輸送機が衝突し、乗務員と住民43名が亡くなり、地域に大きな衝撃と深い傷をもたらした★2。事故の直接の被災者だけでなく、目撃者や事故処理を行なった人たちも健康被害やトラウマを抱え、エリアを去る人も少なくなかった。事故がもたらした影響は、一見しては判断できない領域まで及んだ。先に紹介したキーホルダーは、被災した建物に住んでいた子どもが、自宅から唯一持ち出すことができたもの。後に譲り受けたムーアにとっては、飛行機事故を回想する大切なモノとして、彼女の傍らで存在していた。

「南東部のショーケース」展では、ニュースや新聞では伝えきれない、一人ひとりに起こったできごとを、個人の語りと持ち物を通じて丁寧に拾い上げ、可視化しようと試みている。展示ケースの中には、人種差別反対運動で使われたユニフォーム、故郷を思い出させてくれるガーナの人形、近隣住民が集め続けた公文書のアーカイブなども含まれている。


「南東部のショーケース」展では、近隣資料のアーカイブも展示されている。ショーケースの下には16の引き出しがあり、南東地区に関する資料を集めた個人アーカイブコレクションが見られる。(Imagine IC、2025)[筆者撮影]

Imagine ICの役割

では、Imagine ICはどのようなビジョンを掲げ、ミッションを遂行しているのか。社会でヘリテージを活用する展開や実践を、同機関の事例から紹介していきたい。

Imagine ICは、アムステルダム南東地区(通称ベイルメール)に位置している。中心地から地下鉄で南東に約20分、市を構成する7の行政区のひとつだ。


緑に囲まれた部分が南東地区。グレーの部分は、中心地を含む残り6つの行政区。南東地区のみ飛び地になっているのが特徴だ。 By Centraal Bureau voor de Statistiek – Centraal Bureau voor de Statistiek, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=753831

この地区は、1960年代からの都市開発に始まり、現在に至るまで激動の変化が続いている。干拓地や農地として使われていた土地が、アムステルダム市に統合されたのが1966年★3。まもなく、中心部の住宅不足を解消する解決策として、ル・コルビュジエの都市設計のアイデアを取り入れた高層マンション群が建設された。だが、高層住宅を好まない人が多かったことや、交通インフラの整備の遅れにより、住宅需要は芳しくなく、空き家が増える結果となった。1975年には、南米のスリナムがオランダから独立し、そこから移動してきた人々が空き家に居を構えるようになった。が、失業率の高さから犯罪率や薬物乱用率が急上昇する。そして、1992年に飛行機事故が発生。現在、高層マンションはほとんど取り壊され、低層住宅が並ぶ地域となり、130カ国以上もの人々が暮らす地域となった★4。今では、高学歴で高収入の人々を惹きつけており、その結果としてジェントリフィケーションが進んでいる。しかし、貧困率は依然として高く、2022年のデータによれば23.9%を占め、中心部の11%を大きく上回っている★5。このように、60年の間、南東地区は社会状況の変化や政策によって翻弄され、人口の流出入がコミュニティを不安定にした★6

Imagine ICは、1999年に設立された★7。変化の著しい南東地区のヘリテージを保存し、未来に伝えていくためのアーカイブとミュージアムの機能を持ち合わせている★8。具体的には、同地区に暮らす人々のパーソナルストーリーを収集・記録し、展示やパブリックプログラムとして発表している。近年は、年3回の企画展と約15回のパブリックミーティング、常設展「南東部のショーケース」を開催している★9

Imagine ICのアプローチは、住民参加によるボトムアップ型だ★10。例えば、ベイルメール飛行機事故に関しては、過去2回展示を行なっている。事故から25年後の2017年には「追悼と記憶:ベイルメール航空機墜落事故から25年」展★11、30年後の2022年には「深く根付いた:ベイルメール飛行機事故から30年のヘリテージ」展が開催された★12。これらの展示は、被害者や目撃者、医療従事者、ジャーナリスト、消防士、地域活動家など、それぞれの経験を語り合うパブリックミーティングを出発点としている★13。そこで共有されたオーラルヒストリーやオブジェクトが、2回の企画展として形を変え、のちに常設展に一部移動された。

2017年の展示の様子(Imagine IC、2017)[撮影:Les Adu]

Imagine ICが扱うテーマは、多文化主義や現代都市の課題など、まさに南東地区の課題やジレンマとも深く関わっている。ディレクターのクイテンは、「展示やプログラムを通じて、現在のベイルメール地区を見せる『レンズ』となっている」と表現する(Kuijten 2021, 45)★14。2025年11月現在は、ナスマ・アル・シュトファの展示「I am Grateful (?!)(感謝しています[?!])」が開催されている★15。イエメンから亡命し、オランダの難民センターを転々としながら過ごした部屋を再現したインスタレーションから、難民たちが直面する苦難を描き出そうとしている。

「I am Grateful (?!)展(Imagine IC、2025)[筆者撮影]

シュトファが難民センターで暮らした様子がミニチュアでつくられている(Imagine IC、2025)[筆者撮影]

建物も特徴的だ。市の図書館の分館とシェアしており、両者の間に境目はなく、自然に共存している。入場料は無料なので、誰でも展示にアクセスできる。図書館利用者は、Imagine ICの展示を偶然目にすることで、自分の住むエリアについて理解を深められるし、Imagine ICの企画展に合わせて、選書コーナーが設置されることもある。筆者が参加した展覧会のオープニングは、図書館のオープン時間中に始まり、居合わせた人々もオープニングパフォーマンスを楽しんでいた。こうした両者のゆるやかな関係を支えているのが、空間の設計である。多目的に活用できるようにフレキシブルなデザインが施されており、とりわけ、座席にもなる階段は象徴的だ。上下階を行き来する機能のみならず、クッションに身を預けて読書や仕事もできるし、プログラムが開催される際にはオーディエンスが座る場所にもなる。図書館とヘリテージ機関が公共性の高さを維持しながら、双方の良さを引き立て合っている印象だ。

座席にもなる階段(Imagine IC、2025)[筆者撮影]

館内の様子。手前の棚は選書コーナー(Imagine IC、2025)[筆者撮影]

いまの視点から語り直す

これまでヘリテージ組織の事例を紹介してきたが、「ヘリテージ」とは何を指すのか再考したい。冒頭でも述べたように、「ヘリテージ」は「遺産」「伝統」「伝承」と訳されることから、世界遺産や⽂化財の保護など、古い建物や伝統的に価値のあるものを残すための学問だと以前は捉えていた。しかし、実際にはヘリテージがカバーする領域は広く、ミュージアム&ヘリテージスタディーズを専科とするオランダのラインワルトアカデミーでは、「ヘリテージ」を以下のように定義している。

  • 現在において過去をどのように扱い、未来へとつなげていく⽅法を指す概念。
  • ⼈と⼈との関わりのなかで付け加えられる「価値」や「評価」のようなもの。
  • よって、すべてのヘリテージには、それに対する意⾒の相違があり、なかには議論の的となるヘリテージも存在する(Dr. Csilla E. Ariese 2023, 21)★16
  • ヘリテージの範囲には、有形のものだけでなく無形のものも含まれる。例えば、建築物や自然、オブジェクトだけでなく、歌やクラフトマンシップ、レシピや人々の記憶などもヘリテージに含まれる。先述の「南東部のショーケース」展の例で言うと、個人のオブジェクトやストーリーがすべてヘリテージとなるのである。

    重要なのは「現在の視点」から見た過去を、ヘリテージとする点だ。再びムーアを例に挙げると、前の所有者である女の子が、飛行機事故が起こる前に手に入れた時点では、ヘリテージではなかった。しかし、被災時にキーホルダーだけを何とか持ち出し、ムーアの手に渡り、飛行機事故を回想するモノとして所有していたことがポイントなのだ。結果的に、この事実とモノはアムステルダム南東地区の歴史的事実を後世に伝えるための大切なヘリテージとなった。

    また、ヘリテージは人との相互作用によって価値が定められるため、議論が巻き起こる可能性は否めない。「南東部のショーケース」展には、飛行機事故に関するオブジェクトと個人的なストーリー──例えば、事故後に拾った機体の部品や、アメリカのボーイング社のスタッフによって作られた飛行機部品の欠陥を訴える横断幕など──が4点紹介されている。しかし、批判的に見れば、これらが飛行機事故を多角的に捉えられるような幅広い視点を網羅しているとは言い難いだろう。さらに、収集プロセスに目を向ければ、これらのモノやコトは、2017年のパブリックミーティングに参加した人々によって共有され、Imagine ICの監修のもと編集された。パブリックミーティングという誰もが参加でき、意見が言える、オープンでかつ民主的な場で、収集されたことは評価すべき点だ。しかし、その場に参加した人、編集に関わった人が変われば、展示される内容は明らかに変わるだろう。4点のオブジェクトとストーリーだけでは、伝えきれない視点や事実は確実に存在する。つまり、何がヘリテージとされ、ヘリテージとされないのかは、時代、場所、状況、アクターによって変わってくる。したがって、ヘリテージは議論の的になることもあり得るのだ。


    機体の部品(中央上)、ボーイング社を糾弾する横断幕(中央下)(Imagine IC、2025)[筆者撮影]

    多様な視点を受け入れる

    次に、ヘリテージをどのように学び、いま何が議論されているのか、筆者の体験を交えて論じていきたい。筆者はアムステルダムのラインワルトアカデミーで、応用ミュージアム&へリテージスタディーズを学んだ。クラスメイトは多様な背景を持ち、国籍や年齢、専門もさまざまで、社会人経験のある人が多い。授業はすべて英語で行なわれる。ヘリテージ・スタディーズを一言で言い表わすなら、中立の立場を保つのが難しいヘリテージを、批判的に考える姿勢を身につける訓練に尽きると言えるかもしれない。その意味で、クラスメイトの多様性は欠かせない要素だった。授業では、モノやコトを扱う際に、どんな視点や事実が伝えられ、欠けているのかを批判的に検証することを繰り返し学んだ。さまざまな背景を持つ人が集まることで、多角的な視点を含んだ活発なディスカッションが可能になるよう企図されている。

    特に、歴史学やオーラルヒストリーの授業は印象的で、筆者の価値観を根底から覆した。それまで当たり前のように受け入れてきた「歴史」というものの成り立ちを、改めて問い直すきっかけになったのだ。教科書や授業を通じて学んできた歴史は、数多ある史実のなかから歴史学者によって選択され、書かれたものであり、内容には常にバイアスがかかっている。例えば、男性が学者の立場を得やすかった過去を鑑みれば、筆者が日本の学校で学んだ1980年代から2000年代は、女性の偉人や視点を学ぶ機会は今よりも少なかった。一方、オーラルヒストリーを含めた個人の語りは、権威者や専門家とは異なる視点から伝えることを可能にする。

    オーラル・ヒストリーは、人々を中心に据えた歴史である。歴史そのものに生命を吹き込み、その領域を広げる。英雄は、指導者だけでなく、名もなき多数の人々のなかからも見出される(Thompson 1988, 39)★17

    エビデンス主義が過剰になると、定量化できないものはしばしば軽んじられてしまう。だが、オーラルヒストリーには、そうした枠組みでは取りこぼしてしまう感情やできごとを丁寧にすくい上げる力がある。市井の人々の視点は、教科書のような大きなストーリーとは異なる声や記憶を伝え、残すための力強いツールのひとつとなるのだ。それゆえ、Imagine ICの草の根的なアプローチによって開かれた対話の場は、権威者や専門家ではなく、地域住民のまなざしを通して見えた史実をも包摂することを可能にしている。

    結びに、今でも心に残っているオランダの旧植民地国スリナムから来たクラスメイトの言葉を紹介したい。彼女は母国で歴史を学ぶ中で、教科書の内容にスリナムの人々の視点がほとんど欠けていることに気づいた。そして友人たちと誓い合った。「いつか自分たちの手で歴史を書こう」──。さらに彼女は続けた。「私はスリナム人の立場から、スリナムを伝えるミュージアムをつくりたい」。

    ヘリテージの研究や実践を通じて、わたしは自分の知識の乏しさ、また自分の視点がどれほど偏っているかを、いつも思い知らされた。さらに、訪れたことのない国々から来たクラスメイトとの議論を通じて、自分の気持ちや考えをオープンに伝え、相手の話に注意深く耳を傾け、対話を重ねることの価値に改めて気づかされた。そうした無数の人々の試みがあれば、背景の異なる他者とともに生きやすい社会を作るための、確かな力になると信じている。

    *英語の文献等は、筆者訳。

    ★1──ウィキペディア日本語版では「エル・アル航空1862便墜落事故」と表記されている。https://ja.wikipedia.org/wiki/エル・アル航空1862便墜落事故
    ★2──公式な発表では43名とされているが、不法滞在者が多く住んでいた経緯から、死亡者数に疑問を呈する声も多い。https://nltimes.nl/2023/10/04/amsterdam-commemorates-31st-anniversary-el-al-plane-crash-bijlmer
    ★3──“History of the Bijlmer”(「ヒューマニティインアクション」のウェブサイト)https://humanityinaction.org/knowledge_detail/the-bijlmer-a-dutch-approach-to-multiculturalism/#:~:text=History%20of%20the%20Bijlmer&text=In%201966%2C%20when%20Amsterdam%20annexed,’%20for%20’the%20new%20man
    ★4──“Amsterdam neighbourhoods/South East (Zuid-Oost)”(アムステルダム大学のウェブサイト)https://www.uva.nl/en/education/practical-information/living-in-amsterdam/amsterdam-neighbourhoods/amsterdam-neighbourhoods.html#:~:text=The%20area%20Zuidoost%2C%20also%20called,developed%20in%20the%20late%201960’s
    ★5──“A BRIGHT FUTURE FOR ZUIDOOST THROUGH DIGITAL URBAN PLANNING” (Bloomberg March, 2022)https://openresearch.amsterdam/image/2022/4/28/digitalurbanplanning_zuidoost.pdf
    ★6──同地区に関しては次の論文が詳しい。水島治郎「オランダとスリナム系移民 ――植民地・都市・住宅」https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900116898/2013no.232_3_11.pdf
    ★7──ICは、アイデンティティ&カルチャーの略。
    ★8──アーカイブといっても、個人のオブジェクトやオーラルヒストリーを長期的に保存する仕組はなく、オブジェクトは基本的に借用によって対応している。ソフト面(ストーリーの収集や住民ネットワークの構築)を重視しているため、デジタルアーカイブや収蔵庫などのハード面は備えていない。
    ★9──「南東部のショーケース」展の展示資料は、約5年に1回変更される。
    ★10─Imagine ICネットワークコレクターのシュールス・ライセンによる活動定義補足:「Imagine ICはネットワークの集合体であり、実験的な地域アーカイブであり、民主的なヘリテージプラットフォームであり、知識機関である。25年以上にわたり、私たちは現代的なヘリテージ体験の場として活動してきた。アムステルダム南東地区を拠点に、現在そして未来に向けて、ヘリテージの民主化に取り組んでいる。私たちは、できる限り多様な人々と協働し、モノや記憶に込められたさまざまな意味の層を集めることで、民主的な活動を実現する。私たちのネットワークを通じて、現在に立つ過去を見つめ、そこから未来を想像する。互いの対話を重ねながら、アムステルダムのコレクションをより民主的にキュレーションすることで、包摂性を高める提案を行なっている」
    ★11──“Remembering with Feeling: 25 years of the Bijlmer air disaster”, (Imagine IC) https://imagineic.nl/projecten/herdenken-op-gevoel-25-jaar-bijlmervliegramp/
    ★12──“Deeply Rooted. A legacy of 30 years of the Bijlmer plane crash”, (Imagine IC) https://imagineic.nl/agenda/diep-geworteld-nalatenschap-van-30-jaar-bijlmervliegramp
    ★13──“Preview — Remembering with Feeling: 25 years of the Bijlmer air disaster”, (Imagine IC) https://imagineic.nl/verzamelen/vooraankondiging-herdenken-op-gevoel-25-jaar-bijlmervliegramp/
    ★14──Kuijten, Danielle. 2021. ‘Ways of Listening – in Search for Complexity’. In Ways of Knowing, edited by Reinwardt Academie. Reinwardt Academie, Amsterdam University of the Arts.
    ★15──“I am Grateful (?!)”, (Imagine IC) https://imagineic.nl/projecten/i-am-grateful/
    ★16──Dr. Csilla E. Ariese. 2023. ‘Heritage & Society’. RWA Master’s Degree Programme Module Researching Concepts 2023-2024, Amsterdam, September 4.
    ★17──Thompson, Paul. 1988. The Voice of the Past : Oral History. In The Voice of the Past : Oral History, 2nd ed. OPUS 83218215X. Oxford University Press.