
発行所:フィルムアート社
発行日:2025/09/26
公式サイト:https://www.filmart.co.jp/liminal/
あなたは「リミナルスペース」という言葉を知っているだろうか。ショッピングモール、病院、ホテルのロビー、地下鉄の構内などの公共空間。これらがいつもの喧騒とは異なる静寂に包まれているのを目にしたときの、あの奇妙な感覚。本書『リミナルスペース 新しい恐怖の美学』(原書は2023年にフランス語で刊行)は、そうした状況を指すネットミームとしての「リミナルスペース」を広く取り上げ、その「新しい恐怖の美学」について概説を試みた翻訳書である。フルカラーの紙面には数多くの図版が掲載されており、資料集としても活用できる一冊に仕上がっている。
サブタイトルにも銘打たれている通り、リミナルスペースは「恐怖」と関連している。その美学は日本国内でも、ある種の現代美術のインスタレーションやホラー系のエンターテインメントから感じ取れるものだ。最近のコンテンツでわかりやすい例をあげれば、ウォーキングシミュレーターゲーム『8番出口』がそうであり、近年のいわゆるホラーブームには、グローバルに浸透しつつあるリミナルスペースへの注目が背景として存在している。その意味で、この本は同時代的な現象を捉えているのみならず、著者がYouTubeチャンネルのクリエイターであることから、その想像力がインターネットを介して涵養されていったことも示している。
それでは「主役となるべく存在を巧みに排して、例外的に舞台の場所自体に恐怖の主役を演じさせる★1」リミナルスペースの美学は、どのように徴づけられていくのだろうか。著者が「リミナル性」を最初に理論化した人物としてあげるのは、意外にも民俗学者アルノルト・ファン・へネップである。彼の言う「通過儀礼」概念はプレリミナル、リミナル、ポストリミナルの三つの局面に分けられ、それらを通過することで集団に再統合されるという。リミナルとはラテン語で「閾」を意味し、そこからリミナルスペースには、中間的な場所という意味が付与されることになったと述べられる。
ここから著者は、さまざまな対象にリミナルスペースの美学を見出していく。ここでは非人間的なスケールの専制主義下における建築──例えばアルベルト・シュペーアによるそれ──、重厚なブルータリズム、シュールレアリスム絵画の不穏な室内などが重要な先行事例としてあげられる。このように広く芸術の歴史を渉猟しながら、通常の歴史記述からは零れ落ちてしまうような特異点を著者は列挙していく。佐藤理によるビデオゲーム『LSD:ドリームエミュレータ』(1998)、Windows XPのデフォルトの壁紙、家の下に隠された巨大空間を探検する小説『紙葉の家』(2000)、架空のディストピア建築を平面のアートワークとして提示するトマシュ・アルトゥル・ボレクなど、メディアを問わず次々と言及がなされていく。
そしてこうした歴史的・芸術的事例と並行して、インターネット上の事象についても目配せされるのが同書の特徴だ。超常現象がテーマの匿名掲示板に投稿された「黄ばんだカーペットと壁紙の誰もいない大きな部屋」の写真は、クリーピーパスタ(ネット怪談)よろしく無限に続く無人空間と解釈され、「バックルーム」という言葉が誕生した。ネットユーザーたちによって専用サイトが立ち上げられ、各階層ごとの物語と特徴が蓄積されていった。リミナルスペースの美学的立ち位置を説明する際にはウェブサイト「Aesthetics Wiki」が参照され、ドリームコア、ノスタルジアコア、ヴェイパーウェイブといった潮流との距離感や共通項が解説されている。
(後編へ)
★1──ALT236『リミナルスペース 新しい恐怖の美学』佐野ゆか訳、フィルムアート社、2025、9頁
執筆日:2025/10/13(月)