会場:The White[東京都]
会期:2025/09/12~2025/09/28
公式サイト:https://www.the-white-jp.com/exhibition/2025/0828/
目の前に突然もやがかかり、知覚が機能不全に陥る感覚がした。刷毛目のようなストロークがぬめりとした粘度を伴って、色彩とともに網膜にまとわりついてくる。それぞれの領域のキワのグラデーションは、直接筆によってぼかされているようにも見えるが、その色面は印刷のようにも見える。じっと見つめていると、加工した写真を出力したのではないかという見立てに行き着くが、決定的な証拠が画面には見当たらない。むしろフォーマルで雄弁な抽象絵画にも通じる空間の振幅に引き寄せられ、私のなかでそうした機械的なダイアグラムは遠ざけられていった。宇呂映作は絵画でもなく、写真でもない新たな領域を切り拓くのだ。
ギャラリーには大型の二幅対が三点。画面の縁を余白とすることで壁面との衝突が穏やかになり、視線はゆっくりと画面の内部へと折り返される。分けられた画面は、ロールシャッハテストのような抽象的イメージが左右対称の像を作り出しており、イメージの前に立った時に、ぐるりと色面に包囲される感覚を得ることができる。
「image 253, 449, 665, 1173 b mod」展会場風景[以下すべて提供:The White]
先だって出版されたアーティストブック「image1–1,095 b mod」(khôra 場、2025)を見ると、このような左右対称のイメージは見当たらないため、片側のイメージが完成した後に反転させ、2枚を組み合わせたのだろう。それによって、左右の図像のどちらが先かという時制的関係性も秘匿されることになる。実際の図像操作のみならず、こうした作品構造によってもリミナルな空間性を膨らませることができているのは、作家自身が自らのコンセプトを論理立てて理解していることの証左に他ならない。
作品と私の間に、なにかうごめいている感触だけが持続する知覚体験。完全なる不意打ちだった。というより、正直に打ち明けると期待などしていなかった。なぜなら「記憶のメディアである写真を起点としたイメージ群の意味内容を改変し、混沌へと還元することを絵筆とした〈擬態絵画〉に取り組んでいる」という作家のホームページに掲載されている表明が、現代的な題目として誰しもが掲げ得るクリシェにも読めたからだ。
確かにこうした絵画と写真のパラゴーネは、後者の登場以後においてイメージをめぐる重要な示唆を与えてくれるカップリングである。デジタル写真の登場とソフトウェアの普及、さらに近年はAIによる加工も浸透しつつある状況下において、両者の比較は現代美術でもさまざまな実践が繰り返されている。そうした状況を踏まえると、私は絵画にあるような物質性や写真ならではの光学性にまつわる痕跡や駆け引きをどこかに発見しては、その創意工夫に小さな満足を得て、いつものように会場を後にするのだろうと思っていた。
しかし、そのような傲慢さは作品の前に立った瞬間、その知覚を再組織化せんとする思考に一挙にスイッチした。宇呂の簡素なステートメントは、今となってはその表現に自信を持っているからこそのものだと得心することができる。
「image 253, 449, 665, 1173 b mod」展会場風景
(後編へ)
鑑賞日:2025/09/19(金)