会期:2025/09/13〜2025/09/15
会場:芸術文化観光専門職大学 静思堂シアター[兵庫県]
作:松原俊太郎
演出:小野彩加、中澤陽
公式サイト:https://toyooka-theaterfestival.jp/program/13869/

「この世界には複数の時間が流れている」。松原俊太郎による戯曲『魔法使いの弟子たちの美しくて馬鹿げたシナリオ』の冒頭に付された「簡単な説明」はそんな言葉からはじまり「この複数の時間の複数の運動を知覚したとすれば何がどうなるだろう」という問いに「なんとかする、そのやりよう」と応じることで締めくくられる。つまり、戯曲を通してそのやりようが描かれるらしいのだが、ここで言う「複数の時間」とは何か。「ひとと再会するときにいくらか心が傾くのは、約束であれ、たまたまであれ、同期を知覚したからだろうか。あるいは時間の複数が保たれたまま交わり同席しているからだろうか」という言葉から判断するに、それは人の一人ひとりそれぞれに流れる時間を指しているようだ。あるいは見方を変えれば、ひとりの人間のうちに流れる複数の時間をこそ指しているのだとも言えるかもしれない。

2019年の『ささやかなさ』にはじまった松原とスペノとのタッグは本作でなんと6作目。2022年にはKYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭での『再生数』、2024年には東出昌大を主演に迎えたシアタートラムでの『光の中のアリス』と着実に成果を重ね、その最新形が今回の豊岡演劇祭2025ディレクターズ・プログラムでの『魔法使いの弟子たちの美しくて馬鹿げたシナリオ』(演出:小野彩加、中澤陽)ということになる。松原とスペノはそれぞれ「文化芸術活動基盤強化基金(クリエイター等育成・文化施設高付加価値化支援事業)」による助成を受けた江原河畔劇場の「無隣館インターナショナル」とDance Base Yokohamaの「世界に羽ばたく次世代クリエイターのための Dance Base Yokohama 国際ダンスプロジェクト“Wings”」の育成対象クリエイターとして海外展開を見据えたプロセスの只中にあり、英語字幕付きで行なわれた本作の上演もその一環としてあるものだろう(本作への助成は松原が参加する「無隣館インターナショナル」に対してのもの)。

[撮影:3waymoon/画像提供:豊岡演劇祭実行委員会]

国際的な展開を意識してのことかどうか、本作の冒頭では「ホグワーツ魔法魔術学校」という固有名詞が発せられる。ホグワーツとはもちろん、あまりにも有名なあのハリー・ポッターが通っていた学校の名前なのだが、4人の登場人物たちは皆、そこの元生徒だというのだ。こうして開幕早々、多くの観客の頭と器としての登場人物には複数の時間が流れ込むことになる。ハリー・ポッターの(本の/映画の/周辺の)記憶=時間が。カトウ(古賀友樹)・ナニカ(荒木知佳)・フジ(加賀田玲)・リカ(井上向日葵)を名乗る4人の登場人物にハリー・ポッターを思わせる要素はほとんどなく(その身にまとったマントくらいだろうか)、舞台奥に向かって長机らしきものが2列に伸びる空間だけがあの大広間の景色と重なり合うといった具合だが、それでもハリー・ポッターの記憶の流入を止める術はない。

いや、複数の時間は上演の以前から呼び込まれている。タイトルに含まれる「魔法使いの弟子」という言葉からしてすでにあるイメージ、例えばデュカス/ミッキー・マウス/ニコラス・ケイジと強固に結びついていたではないか。ハリー・ポッターという魔法使いの名はそれを裏切るように、それをさらに複数に裂くようなかたちで導入される。戯曲に書き込まれ束ねられた複数の時間は上演において俳優の身体や空間とも撚り合わされ、それを見る観客の時間もまたそこに合流するだろう。

[撮影:3waymoon/画像提供:豊岡演劇祭実行委員会]

[撮影:3waymoon/画像提供:豊岡演劇祭実行委員会]

さて、『魔法使いの弟子たちの美しくて馬鹿げたシナリオ』は、ホグワーツの古代ドラマクラスで卒業公演として『魔法使いの弟子たちの美しくて馬鹿げたシナリオ』を上演する予定だった4人が、「奴」の再来に端を発する全学生の散開とそれに続く各々の10年を経て魔法のような再会を果たす物語である。だが、その結末において4人の複数の時間は合流に失敗する。そもそも複数の時間は、絡み合い撚り合わされることはあれど、決してひとつになることはない。その前提に立ち戻ったところから再び時を紡ごうとするラストの台詞は決して大仰ではないのだが、各々のタイムラインが分断を加速するばかりの現在においてはなかなかにグッとくるものとして響いたのだった。

再びハリー・ポッターの話に戻るならば、私にとってその名はもはや、作者のJ・K・ローリングの苛烈なトランスヘイトと切っても切れないものになっており、『魔法使いの弟子たちの美しくて馬鹿げたシナリオ』というこの作品もまた、ホグワーツの名が出たその時点、つまりは初めからその問題と撚り合わされてしまったのだった。だがもちろん、ハリー・ポッターの名を知る者と比べれば、ローリングのトランスヘイトを知る者の数は圧倒的に少ないだろう。そもそも束ねられた複数の時間のすべてを引き出せる人間などいないのだ。だから話をし、話を聞く。結末において示されるのはただそれだけの姿勢だ。それだけのことが現実においてはなんと難しいことか。

[撮影:3waymoon/画像提供:豊岡演劇祭実行委員会]

[撮影:3waymoon/画像提供:豊岡演劇祭実行委員会]

ところで、『魔法使いの弟子たちの美しくて馬鹿げたシナリオ』の卒業公演での上演に向けては「これまでとこれからといまこの瞬間のわたしたちをひとつのシナリオに注ぎ込」むことが行なわれていたらしい。私にはこの言葉はほとんどあからさまにスペノがしばしば採用している手法を、クリエーションのプロセス自体を圧縮して舞台に載せてしまうようなそれを指しているように思われた。そういえば、スペノのクリエーションにおいても聞き書き、つまり話をし、それを聞くことはひとつの核としてあったではないか──。

スペノの二人による演出は俳優それぞれの魅力を引き出しつつ戯曲の展開を丁寧に追い、加えて高さも奥行きもそれなりにある静思堂シアターの空間を縦横無尽に使って観客を飽きさせない。戯曲と俳優のポテンシャルをストレートに引き出しているという意味ではきわめてオーソドックスな演出とも言えるのだが、松原戯曲に限らずほかの作家の戯曲の上演も見たいと思わせるに十分な上演だった。

[撮影:3waymoon/画像提供:豊岡演劇祭実行委員会]

鑑賞日:2025/09/13(土)