会期:2025/09/20〜2025/10/12
会場:シアタートラム[東京都]
作・演出:加藤拓也
公式サイト:https://kokogaumi.com/

「トランスジェンダーをめぐる信頼と対話の物語」。加藤拓也による戯曲『ここが海』の帯にはそう記されている。その物語は友理(黒木華)が配偶者である岳人(橋本淳)に、「自分は女じゃないかもしれない」「男になりたいと思ってるかもしれない」と切り出す場面からはじまる。作中で描かれるのは、そうして友理が性別移行のプロセスをはじめ、戸籍上の性別変更を可能とするために離婚に至るまでのおよそ8カ月の家族の姿だ。

パートナーの突然の告白に動揺しつつもそれを受け入れようとし、しかしそれでも揺れてしまう岳人。そんな岳人との距離を測りながらも性別移行のプロセスを進めていく友理。娘の真琴(中田青渚)を含めた家族3人の「信頼と対話の物語」はしかし、その字面から想像されるそれからはほど遠い。そこで描かれているのは信じようとし、対話しようとしながらもしばしばそれがうまくいかず、そうしたうまくいかなささえも「対話」として積み重ねた先でようやく「信頼」の芽生えに辿り着く、そんな物語なのだ。

トランスジェンダー男性とその家族を描くにあたって、本作では「ジェンダー・セクシュアリティ制作協力」として認定特定非営利活動法人ReBitの藥師実芳が、「ジェンダー・セクシュアリティ考証」としてトランスジェンダー男性俳優で舞台プロデューサーでもある若林佑真がクレジットされている。加藤は2023年4月に初稿を書き上げて以降、当事者との意見交換やワークショップなども交えながら2年をかけて改稿を繰り返してきたのだともいう。そのようなプロセスを経ただけのことはあって、『ここが海』におけるトランスジェンダー男性表象は、ひとまずのところ問題のないものになっているように私には思えた。──と、持って回った言い方にならざるを得ないのは、それでも釈然としないものが残るからだ。

トランスジェンダー男性である友理という役を当事者ではない黒木が演じていることの問題点については、例えば作家の鈴木みのりがすでに指摘している★1。鈴木は①表象の問題、②構造的な労働・教育機会からの排除、③性差別の視野の広がりと、そこからの安全と尊厳の確保の主に3つの論点から「英語圏、特にアメリカでは『トランスジェンダーの役柄はトランスである俳優に』という流れ」があることを指摘する。例えば①表象の問題については、今回であればトランスジェンダー男性をシスジェンダー女性が演じることによって、トランスジェンダー男性は「本当は女性」なのだという誤った認識を助長してしまう可能性があることなどが問題点として指摘されてきたのだった。そのうえで鈴木は、作・演出の加藤拓也のインタビュー★2での発言や主催のアミューズ★3からの発信★4は「日本のこれまでのトランスをめぐる演劇・舞台芸術での実践や、現状をふまえてきちんと検討した跡が見られません」と批判する。

急いで付け加えるならば、該当の発信を読めば明らかなように、加藤やアミューズが「トランスジェンダーの役柄はトランスである俳優に」という流れを知らなかったということではない。だが、それを知ったうえで当事者ではない黒木をキャスティングしたことの説明が十分に説得的でないことを鈴木は批判しているのだ。例えば加藤は「当事者が出演すべきかどうかは、論争や思考を重ねて解像度をあげてから決めないといけません」★5と言うが、すでに積み上げられてきた議論をどう踏まえて(それぞれの論点についてどのように考えて)今回のキャスティングが行なわれたのかについてはほとんど説明していない。

この問題について加藤がもっとも踏み込んで具体的に説明しているのはおそらく、戯曲『ここが海』のあとがきだろう。ここで加藤は、トランスジェンダー男性の俳優が友理を演じたときに発生することになる「舞台上にいる間に『女性』に向けられた視線を浴びること」による負担を慮る。「これを考慮せずに配慮を欠けば、『当事者だから安全』を免罪符として掲げることになりかねません」という加藤の態度はなるほど誠実と言える。だが、だからといって先回りして当事者をあらかじめ排除してしまうのでは本末転倒である。それは配慮ではない。そもそも加藤自身も「個人差があることはわかっています」と記しているように、舞台の上であれば女性を演じることに抵抗を感じないトランスジェンダー男性の俳優もいるのだから、「舞台上にいる間に『女性』に向けられた視線を浴びること」を良しとするかどうかはまずは俳優自身の主体的な判断に任せるべきであり、そのうえで現場は俳優の負担を減らすための最大限の「配慮」を行なうというのが筋ではないだろうか。

同じあとがきのなかで加藤は自身の「考えを満点の正解だと主張するわけでもありません」とも述べている。重要なのは議論を積み重ね、それぞれがその時々の最善を模索し実現していくことであることは言うまでもない。加藤のあとがきにはまだいくつか、ここでは触れられなかった論点も含まれている。これまでもトランスジェンダーの表象に関わる問題を繰り返し指摘してきた鈴木みのりの発信などと合わせて、今後の議論と実践の糧となることを切に願う。

さて、一方で私は『ここが海』の物語自体にも釈然としないものを感じたのだった。なるほど、『ここが海』ではたしかに「信頼と対話の物語」が描かれている。いや、それ以外は描かれていないのだと言うべきだろう。この物語においては岳人と友理の心とふるまいの揺らぎが繊細に描かれている一方、家族を取り巻く「社会」の存在が驚くほどに希薄なのだ。岳人と友理はともにフリーライターとして働きながら「日本各地のホテルやロッジ等を転々としながら暮らしている」(公式のあらすじより)。部屋にサウナが付属しているような高級リゾートホテルでノマド暮らしをするフリーライターのカップル。この浮世離れした設定が、岳人と友理をあらかじめ社会から切り離しているのである。

つまりこの物語では、現実においてトランスジェンダー男性が性別移行にあたって直面するはずの障害のほとんどがあらかじめ排除され、問題はパートナーと家族に関わるそれのみに縮減されている。岳人も観客も、現実に存在するトランスジェンダーの「煩雑なリアル」に目を向ける必要からは解放されているのだ。

しばしば指摘されてきたことだが、トランス差別的な言説が「トイレ」や「風呂」などの特定のトピックを「問題」として取り上げることは、トランスジェンダーが現実に直面し対処しなければならない問題からは目を逸らさせてしまう効果を持つという点で二重に有害である。『ここが海』が差別的な作品であると言うつもりは毛頭ないが、物語に「必要」な部分以外を切り捨て、現実に存在する問題には目を向けないその態度には、どこかそれに通じるものがないだろうか。

もちろんそれは第一に作劇上のテクニックではある。だが、そのようにテクニックを行使し、物語の都合のために社会を切り離せることそれ自体が特権であることは言うまでもない。性別移行後のトランスジェンダーがしばしば、性別移行前に属していたコミュニティとの断絶を選ばざるを得ない状況に追い込まれている現実を思えば、そこにある非対称性はより明らかだろう。その非対称性に目を向けない限り、そこで描かれる「信頼と対話の物語」は、どこまでいってもシスジェンダー男性視点からの一方的なものにしかなり得ないのではないだろうか。

11月14日(金)には本作の企画・製作を担ったアミューズクリエイティブスタジオがKDDI・日活とともに製作した映画『ブルーボーイ事件』が公開されている。監督はトランスジェンダー男性の飯塚花笑。1960年代後半に実際にあった裁判をもとに、性別適合手術(※当時の名称は性転換手術)の違法性を問う裁判とそれに関わる人々の姿を描いたこの作品には、トランスジェンダー女性を集めたオーディションによって選ばれた主演の中川未悠をはじめ多くの当事者が出演している。トランスジェンダー男性とトランスジェンダー女性が置かれている状況はもちろん大きく異なりはするのだが、『ここが海』の観客にはぜひこちらも観てほしい。

★1──「『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』 字幕での『Mx.』使用の多重な問題と感情 労働としての批評、そして」(鈴木みのり『持続的な生活のためのノート』2025年10月2日):https://suzukiminori.substack.com/p/mx
この問題についてはNetflixで配信されているドキュメンタリー『トランスジェンダーとハリウッド: 過去、現在、そして』も必見。 https://www.netflix.com/jp/title/81284247
★2──「映画文筆家 児玉美月 × 作・演出 加藤拓也」(『ここが海』公式サイト):https://kokogaumi.com/interview/
★3──公式サイトでのクレジットは「企画・製作:株式会社アミューズクリエイティブスタジオ」だが、アミューズからの発信でも「アミューズが主催する」という表記が使用されているためここではその表記をそのまま採用した。
★4──アミューズ法務部Xアカウントによる9月21日のポスト:https://x.com/AmuseLegal/status/1969736714559394297?s=20
★5──「『ここが海』加藤拓也が描くトランスジェンダーと家族の物語…『きちんと言葉にしておこうと』」(読売新聞、2025年9月19日):https://www.yomiuri.co.jp/culture/stage/20250919-OYT1T50120/

鑑賞日:2025/09/23(火)