会期:2025/11/23
会場:松戸市民会館 303音楽室[千葉県]
公式サイト:https://www.paradiseair.info/news/2025/11/16/27870/
台湾出身のアーティスト
世界各国で、ポップカルチャー、特に音楽分野では政治と距離を置くことが美徳のように語られることは少なくないが、楽曲における複数言語の使用やバージョン違いの存在は、植民地支配の歴史と密接な関わりを持つ。また、音楽には国家のプロパガンダ装置として繰り返し利用されてきた歴史がある。
恋愛にまつわる歌詞の多さや自身の来歴によって悲劇の歌姫として日本ではイメージされやすいテレサだが、台湾の戒厳令下(1949-87)では日本語詞のバージョンが発禁処分とされ、パスポート問題★2の解決の代償として台湾軍の広告塔として活動することを余儀なくされた経緯がある。本作は、日本語楽曲をテレサが歌っていた背景で何が起きていたのかを追っていく。
パフォーマンスの様子。向かって左手で英語のナレーションと、日本語のアカペラが展開される[撮影:金巻勲]
パフォーマンスの様子。右手では座って台湾華語の手紙の朗読が行なわれる[撮影:金巻勲]
パフォーマンスは、三つの言語によって構成されている。李自身の経験を語ったり、第三者的な情報に言及していく英語によるナレーション。テレサの楽曲の日本語によるアカペラ。テレサのデビュー時からのファンであった台湾人女性の台湾華語による手紙(内容は李による創作)。英語のナレーションで、李の日本文化への関心、日本語学習の入り口としてテレサの歌を音真似していた事実が語られる。日本語によるアカペラで、おおよそ時系列にテレサの楽曲が歌われ、その歌の背景で起きていた台湾や中国での有事がスライドで同時に示される。台湾華語の手紙は、大文字の歴史とテレサの置かれたその時々の状況を結ぶように書かれている。
役として考えると、英語はアーティスト李文皓本人(という役)、台湾華語はある時代の台湾人と言ってもよいが、日本語は果たしてテレサ・テンなのだろうか?
パフォーマンスの様子。『スキャンダル』を歌う様子。スライドでは、テレサのパスポート問題に関する台湾での報道内容が次々と映される[撮影:金巻勲]
「でもほとんど歌詞の意味はわかっていなくて ただ聞いて 音真似をしていました」とナレーションで語っていたが、李のアカペラは日本語ネイティブの歌唱に近しく、あるいはそれ以上にテレサに似ていると言っていいかもしれない。聞こえてくる音を再現しているのが、李の日本語のアカペラである。テレサを演じているのではない、ということがはっきりと明らかになるのは、『スキャンダル』(1986)に乗せて、1979年のテレサのパスポート問題を“語る”パートである。
『スキャンダル』は浮気な男をたしなめつつ許すような恋人/愛人目線の歌である。サビは「スキャンダル~なら~ 男の勲章~」と始まるが、李はこの「スキャンダル~なら~」を何度も繰り返す。右から左へ身体をひねりながら歌い上げるこのワンフレーズを、ビデオテープが同じ場面を繰り返し映すように、レコードが同じ箇所を繰り返し流すように、李は繰り返す。素早く身体をひねり直す。「スキャンダル~なら~」と歌われるたび、テレサのパスポート問題に関する台湾での報道内容が次々とスライドで映される。
李が演じているのは、テレサ・テン本人ではなく、テレサを映した映像、テレサの歌声である。メディア越しに得られるテレサ・テンを李は演じている。サングラスは、『スキャンダル』を歌うテレサがかけていた映像に由来する。あくまで、それはメディアに由来する★3。
李は作中で合計10曲を取り上げたが、ただひとつ『悲しい自由』(1989)だけは、テレサの肉声と歌唱の音源がそのまま使用された。1989年11月24日にテレビ放送された『悲しい自由』の前説は、中国での天安門事件を明らかに指しており、「私は自由でいたい。そして、すべての人も自由であるべきだと思います。それがおびやかされているのがとても悲しいです」と語り、歌に入る。「お び や か されている」と、少し日本語に詰まること、さかのぼって冒頭で「世界のどこにいても、どこで生活しても、私はChineseです」と話すことは彼女のルーツと、異なる言語で流暢に歌い上げてきたことのギャップを突きつける★4。李が作品終盤でただ一度、リップシンクに留めたことの理由や効果は鑑賞者にも十分納得されただろう。
数日が経ったいまも、私が思い出すのは李の歌いぶりである。オリジナルの楽曲に親しんでいない私にとって、テレサらしさとは、李の歌唱の端々から感じられるものだった。語尾の震えや息の抜き方。日本語話者の私にとって、もはや無意識のものとなっている日本語の発声の細部が、李が歌うテレサの楽曲によってクリアになっていく。70年代のものより80年代、80年代のものより90年代。楽曲の時代が進むにつれ、私はそのような発声に親しみが湧いてきた。そのような口の動かし方を私も異なる歌に重ねてしたことがある気がする。時代ごとに共有された楽曲のムードやディテールがあり、それらは歌われる内容だけでなく、歌われ方によっても伝わってくる。
李のパフォーマンスは、リサーチベースドの作品がたびたび直面する、ドキュメンタリー番組を観ればよいのではないか、本で読めばいいのではないかといった指摘に対するひとつの応答でもある。そこには生身の身体がなければならない。その身体を通じてしか、鑑賞者である私の身体に移ってこないものがある。そして、その身体が背負っているものは、ひとりで背負いきれるものではなかった。テレサ・テンにとっても、李文皓にとっても。
だから、私たちは客席で、その人を待ち受ける。その人も、私たちを待っている。
★1──中華圏での歌手名は鄧麗君。日本で今回上演されていることから、テレサ・テンで呼称を通すことが作品開始前に補足された。本稿も作品内での表記に準じる。
★2──1970年代、日本は中華人民共和国との国交回復と同時に、中華民国(台湾)と国交を断っていた。台湾国籍のテレサが台湾のパスポートで日本へ入国することは困難で、1979年、インドネシアのパスポートで入国しようとしたことから強制送還・入国禁止の処分がなされた。このことが台湾のパブリックイメージをも損なった、という談話が台湾政府から発表された。テレサはその後、1984年に『つぐない』で再デビューするまで日本へ入国していない。
★3──この段落は、発表後の質疑応答での長谷川新(インディペンデントキュレーター)と李のやりとりを踏まえている。『スキャンダル』のサビを繰り返す動作について、レコードプレーヤーの故障のようであり、李はテレサ本人ではなくテレサの音源や映像を演じているのではないか? と長谷川はコメントし、過去の音源や映像をどのように調査してその演出や演技に至ったかを質問していた。
★4──作中では名前が言及されるだけだが、テレサの日本語楽曲はすべて日本の男性作詞家・作曲家、プロデューサーによって制作されてきた。歌手としてのパブリックイメージが彼らに作られてきたという背景も無視できないと李は語っている。本作はテレサについての継続的なプロジェクトの一部であり、さらなるリサーチや分析が進んでいくはずだ。今後の展開にも期待したい。
鑑賞日:2025/11/23(日)