会期:2025/11/01~2025/11/03

会場:東京芸術劇場[東京都]
公式サイト:https://autumnmeteorite.jp/ja/2025/program/ergonomicembryo

東京芸術劇場・アトリエウエストにて行なわれた《エルゴノミクス胚・プロトセル》は、アーティストの花形槙による「公開実験」として位置付けられている。まずは内容を概観しておこう。HMDを装着した被験者(椅子-人間)数名が動き回る様子を、帯同する撮影者(カメラ-マン)が外部からビデオカメラで捉え、その映像が壁面に映し出される。ただし、映像は生成AIを用いたimage to imageの処理によってリアルタイムに変換され続けており、画面内の被験者たちの姿は、AIが学習した〈椅子〉のイメージに適合すると判断された瞬間、蕩けるようにして再描出される。加えてこの映像はHMDの視界にも投影されており、被験者たちはAIの解釈をフィードバックとして各々の姿勢に変更を加え、それが再び映像へとフィードバックされる、というループが完成する。花形はこの経験を通じて、被験者の身体に内在する椅子性とでも呼ぶべきものを目覚めさせ、不可逆的な変身をもたらそうとしているわけだ。こうした目論見は「人工物や技術を〈使う〉のではなく、それそのものに〈成る〉」という言葉で簡潔に表現されている。しかし、被験者たちが身体を捻り、歪め、逆立ててまで追い求める「椅子に成りたい」という欲望は、いったい何にもとづくのだろうか。

私は、花形が2024年から2025年にかけて行なったプロジェクト《技術的嵌合地帯──CHIMERIA》に関連した評において、「花形はテクノロジーを通じた身体感覚の変容とそれによる世界との関係性の再構築に関心を向けて」いると指摘した。これを極めて素朴に言い換えるなら、花形は常に姿勢の問題に注目していたのだとまとめられるかもしれない。《still human》や「CHIMERIA」における、視覚の再配置を通じた身体の再編や、《A Garden of Prosthesis》における、オブジェクトとの癒合による生成変化。これらはいずれも究極的には、不自然な姿勢を必然とするための試みである。そしてその前提に立つならば、本実験において花形が椅子に焦点を当てた理由もよくわかるだろう。椅子とは姿勢制御のための原始的な技術である。私たちはあまりにも長く椅子と過ごしてきた。例えばWikipediaを少し覗くだけでも、その特権性はわかるだろう。椅子は道具ではなく体具と呼ばれ、それに座った姿勢は座位のなかでも特に「椅座」として区別されるという。椅子とはそもそもが極めて身体化された技術であり、もはや私たちは半ば以上、椅子に成ってしまっている。花形が本実験で暴露しているのはまさしく、この生成りの身体である。

会場では、中央のスペースを挟んで向かい合うように数列の椅子が並べられ、鑑賞者が一人またひとりとそれを埋めていく。列の背後には、無造作に積み上げられた椅子の塊がそびえており、光源がその影を壁に映し出している。それは廃墟に残置された瓦礫、あるいは異形の生物の骨格にも見える。やがて実験が始まると、スピーカーから催眠めいた花形の声が流れ始める。声は、椅子に座る自身の姿勢に向けて意識を研ぎ澄ませることを促し、鑑賞者はそれぞれに身体をこわばらせたり、弛緩させたりする。いつの間にか鑑賞者の何人かが椅子からなだれおち、床の上で緩慢に身体を動かし始める──客席に混じっていた被験者たちだ。三人の被験者のうち、二人がHMDを装着し、壁に映像が投影され始める。

結論から言えば、私が鑑賞した時点では、先述のようなフィードバックループは十分に機能していないように見えた。被験者と撮影者の間には乖離があり、映し出されるイメージが椅子へと収斂していく感覚も得られなかった。しかしその不完全さは、同時に以下のような考えを呼び起こした──畢竟、本実験において、被験者が映像と姿勢のフィードバックループのなかをたゆたっているのか、それとも勝手気ままに蠢く被験者の姿がたまたま椅子として認識・変換されただけなのかを、外部から判別する方法は存在しないのではないかと。

これは、本実験の構成そのものと響き合っている。被験者たちが目指す椅子の姿とは、撮影者のカメラが切り取る視点においてたまたまそう見えているに過ぎず、さまざまな角度から被験者をまなざす鑑賞者それぞれの視界とは整合しない。椅子に成ろうとする被験者の動きは、むしろある視点においては椅子から遠ざかっているかもしれず、同時に被験者のふとした動作が、ある視点ではどうしようもなく椅子らしいかもしれない。すなわち、AIが被験者を椅子として認識しないあらゆる時点においても、それらは椅子だったかもしれないのだ。映像のなかに椅子のイメージが結ばれる瞬間のカタルシスは、それが奇跡的な訪れだからではなく、普遍的な光景であるがゆえに強度を帯びる。私たちはそこに、自身が椅子である可能性を見ているのではない。椅子であった瞬間を見逃し続けることによって自分はかろうじて人間でありえたことにこそ、思いを馳せているのだ。

加えて、本実験において映像上に現われるイメージの椅子が、座ることのできないものであることは重要だろう。まず第一に、AIが描出した幻影にすぎないため。第二に、それは二次元的な映像情報のなかにおいて椅子らしいと判断されただけで、三次元的に座れる構造を持っているとは限らないため。そして第三に、映像の椅子に座ろうと近づいた時点で、その人間の身体もまたAIに認識され、映像に影響を及ぼしてしまうため。椅子に近づいた人間は椅子に取り込まれるか、あるいは椅子自体が崩壊していくつかの肉の塊へと戻ってしまうか、よしんば人間のかたちを保ったまま座れたとて、それは映像で見ていた椅子とは似て非なる存在へと変形してしまった後にすぎないだろう。原理的に空位であることを宿命づけられた座。それは座るものと座られるものが合一した理想的な地点であると同時に、エルゴノミクスの追求の末に、もはや人間とは異なるものの到来を待ち始めたかのようにも見える。

このように考えるとき興味深いのは、HMDを着けていないもう一人の被験者の存在である。その身体は、映像が投影される壁に背を向けて正座のような姿勢をとったかと思うと、身震いののち静止した。両目は見開かれ、口からは涎が糸を引いて垂れている。それは椅子の演技である。もっと言えば、私たちが「椅子に成る」と聞いたときに真っ先に想像されるようなシンプルなパントマイムを、過剰に徹底・誇張したパロディとしての人間椅子である。これは実験中、HMDを装着して絡み合う二人の被験者の傍らで、一切顧みられることなく放置されつづけていた。それはさながら舞台装置のようにも、満員の会場内でぽっかりと空いた座席のようにも見える。しかしそもそも、椅子が注視され続けているという状況こそが異常なのだ。椅子は日常生活の中で身体にフィットしているか、風景の一部に溶け込んでいる場合がほとんどであり、それが単体として意識にのぼるのはインテリアショップかギャラリーにおいてのことくらいだろう。ゆえに、HMDを装着した二人へと鑑賞者の意識が集まれば集まるほど、残された人間椅子の椅子らしさは逆説的に高まっていく。私は想像する。実験が終わり、鑑賞者も関係者もいなくなった後の会場で、暗闇のなかにうずくまり続ける人間椅子の姿を。いわばそれは、見られることによって成立する映像上の椅子の補集合となるような、見られないことによって成立する椅子としてそこにある。

後編へ)

鑑賞日:2025/10/31(金)(ゲネプロにて鑑賞)