会期:2025/11/07~2025/11/10

会場:EASTEAST_TOKYO 2025会場内(科学技術館駐車場)[東京都]
公式サイト:https://www.contokyo.com/jyu-epi3-edge/

前編より)

都市の中心に非都市の郊外が立ち上がる

[撮影:竹久直樹]

都市の真ん中に挿入された小さな郊外の風景。これは、同会場のすぐ隣に位置する皇居の存在と併せて考えられるべきだろう。東京の中心に広がる不可侵の森であり、破壊の限りを尽くす怪獣ゴジラでさえ触れることのなかった場所。そういえば、Yeの妻であるビアンカ・センソリによれば、Yeの前世は天皇であったらしい。今回の「獸」は、その皇居のミニチュアセットとしてのインスタレーション空間に人々と獣を召喚する、という視点において、都市的なネガポジ反転の試みとしても読める。そして重要なのは、この風景があくまでもセットであるということだろう。

内部が中空となっているであろう土手の踏み心地。小川の水を供給するホースの蠕動。4日間の会期が終われば跡形もなく解体されるそれらは、そもそもが都市のパロディとしてつくられた郊外の風景を、もう一度パロディの対象にしながら都市へと差し戻す。幾重にも重ねられた戯画化によって参照項を喪失したその風景は、かつて議論されたような「平坦な戦場」としての郊外都市を、ノスタルジーではなく掬い上げようとしている。かつて、誰も立ち入ることのできない皇居を中心に据えた東京を見たロラン・バルトはそれを「空虚な中心」と呼び、意味の欠如した純粋な記号こそ日本文化の核であると考えた★6。「獸」のステージの存在はそんな「空虚な中心」をも相対化することで、さらなる混沌を都市へと招来するだろう。

圧縮と衝突の技法

ここで改めて冒頭の問いに戻ろう。GCD☆GCDの作品における「アーカイブ」とはなんなのか。GCD☆GCDは漫画やアニメにおける平面表現の系譜を追いつつも、実際に提示する作品においてはむしろ、それらのイメージをさまざまな物質性と衝突させることを好んでいるように見える。額縁の代わりに建て込まれた単管パイプの構造体に始まり、UVプリントやカットされた木材、樹脂、毛、ボルトといった物質たちが画面の内外で展開される。あるいは、音楽やデザイン、ファッションといった各種表現を、自他問わずないまぜにしながら物語へと接ぎ木していく「獸」のあり方にも同じことが言えるだろう。そこにあらわれているのは、即物的かつ不純な「まざりもの」としてのイメージである。無数の事物に向けてつながりを広げていくというよりも、事故や災害といった途方もない偶然性の力によってそれらを凝縮していくような運動。そうした作品の傾向を見るにつけ、GCD☆GCDの言うアーカイブとは、文字どおりの非可逆圧縮の技法であるように思える。

「獸(第3章/EDGE)」のパフォーマンスに詰めかける来場者[撮影:松村歴]


布施琳太郎のパフォーマンス[撮影:竹久直樹]

回り道をしつつ、もう少し詳しく追っていこう。GCD☆GCDは初めて自発的に観た現代アートの展覧会として、ヴァージル・アブローの「“PAY PER VIEW”」展(2018)を挙げ、自身のアート観に対する多大な影響を語っていた★7。ヴァージルの制作における編集的な手つきは、彼自身が述べるようにマルセル・デュシャンを大きな参照項としているわけだが、これについて編集者のトム・ベットリッジが興味深い指摘を行なっている——デュシャンとは「あるものを別の場所に移動させた芸術家」であり、ヴァージルはその意味において同様なのだと★8。すなわち、デュシャンは便器を美術館に移動させ、ヴァージルはAir Force 1をパリのランウェイに移動させた、というわけだ。コンセプチュアルな転用の美学にまつわる端的な指摘だが、本稿ではこれをさらに物質的な話のほうへ捻じ曲げてみたい。つまり、実際に便器を美術館に、Air Force 1をパリのランウェイに移動させる際には、物流網という技術‐社会的なシステムが不可欠なのだ。そしてそこには、常に事故の可能性が潜んでいる。

GCD☆GCDは、自身が体験した人身事故の記憶が作品制作に通底するひとつのモチーフとなっていると語っている★9。衝突事故──テクノロジーによって産出されたこの新たな偶然性を描く物語として、J・G・バラード『クラッシュ』(1973)をここに召喚したい。自動車事故に対して異様な性的執着を持つ男・ヴォーンを軸に駆動するこの小説は、テクノロジーが不可逆的に人間と混淆し、その在り方を変化させていくさまを記録した思弁的ドキュメンタリーとでも呼ぶべきものである。自動車。それは、出会いとセックスと死のすべてを衝突事故という一種の混合物へ凝縮するためのテクノロジーなのだ。その意味でバラードの視野においては、自動車事故は人生の圧縮法アーカイビングとして位置付けられる。そして、GCD☆GCDが制作において執り行なう圧縮と衝突の技法もまた、この系譜に連なるものではなかろうか。

『リバーズ・エッジ』の巻末で岡崎は、同作の舞台を指してこう語っている。「彼ら(彼女ら)はそんな場所で出逢う。彼ら(彼女ら)は事故のように出逢う。偶発的な事故として」。いまやジャンプ読者のボリューム層は30代に迫り、紙媒体における漫画連載自体が過去のものとなりかけている。雑誌の誌面という「平坦な戦場」が終わった世界で、GCD☆GCDはあらゆる領域における衝突クラッシュの指揮者として君臨する。ゆえに、「獸(第3章/EDGE)」のステージは、事故の使徒たる自動車たちを都市に放ったあとの、空白としての駐車場に建て込まれている。その新たなる「空虚な中心」とは、幽霊たちが飛び交うサーキットだ。入れ替わり立ち替わりあらわれる幽霊たちの声がこだまし、無数の衝突事故を繰り返しながら、歪な物語を進めていく。そこでは、狩人と獣、死体と目撃者、そして私とあなたもまた、偶然/事故アクシデントの名のもとに出会い、衝突し、交換される。

歩く街並みを足元のビルを踏む
I’m a godzilla duh
でかい山が動く
落っこちてきた爆弾から産まれた
何かに取り憑かれた
嵐の前の静けさ感じる時代
全部自分次第
守りたいけど壊したい
みんなのために怪獣と闘うけど
足元で見上げるみんなは反対のデモ

I’m a godzilla duh
I’m a godzilla duh
I’m a godzilla duh
I’m a godzilla duh
I’m a godzilla duh
I’m a godzilla duh
I’m a godzilla duh
I’m a …★10

Tohjiのパフォーマンス[撮影:須田諒]

 

★6──ロラン・バルト『表徴の帝国』(宗左近訳、筑摩書房、1996)
★7──「同世代性の創出へ 『獸』とその先」(『だえん2024』だえん、2025所収)および「梅沢和木×布施琳太郎×GILLOCHINDOX☆GILLOCHINDAEインタビュー:「スーパーフラット」以降の日本現代アートの20年【Tokyo Art Beat 20周年特集】」(『Tokyo Art Beat』、URL=https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/kazuki-umezawa-rintaro-fuse-gillochindox-gcd-interview-202408
★8──ヴァージル・アブロー『ダイアローグ』(平岩壮悟訳、アダチプレス、2022)
★9──「“薄っぺらい”美学を探索する」(URL=https://www.contokyo.com/exploring-ultra-thin-inframince-aesthetic/)および「Artists #40 GILLOCHINDOX☆GILLOCHINDAE」(URL=https://gendai-art.org/interviews/artists_gillochindoxgillochindae/
★10──Tohji「I’m a godzilla duh」

鑑賞日:2025/11/08(土)