ナム・ジュン・パイクや金壽根(キム・スグン)、金重業(キム・ジュンオプ)らの存在をはじめ、美術や建築を通してさまざまに影響を与え合ってきた日本と韓国。横浜美術館「いつもとなりにいるから 日本と韓国、アートの80年」展が示す歴史や、2025年秋のソウル都市建築ビエンナーレをはじめとする韓国の様子を踏まえて、その過去と現在を、五十嵐太郎さんが読み解いていきます。(artscape編集部)
韓国と日本をつなぐアーティスト
横浜美術館で開催された「いつもとなりにいるから 日本と韓国、アートの80年」展の内覧会に足を運んだ。韓国の国立美術館と共催する企画であり、来年は韓国を巡回するという。そして両館の館長や担当キュレーターが挨拶し、展覧会の狙いと構成が説明された。実は昨年9月に韓国の国立現代美術館ソウル館を訪れたとき、コレクションを用いて、戦後の前衛的な抽象(イ・ウファンやイ・ウンノほか)や、80年代の具象とリアリズム、80~90年代のハイブリッド(ナム・ジュン・パイク、チェ・ジョンファ、ス・ドホ、イ・ブルほか)、2000年代以降の現実への新しい知覚(ムン・キョンウォンやキム・アヨンほか)など、1960年代以降の流れをたどる大がかりな展示をやっていたので、ある程度、その内容がかぶるかと思ったら、そうではない。
韓国の国立現代美術館ソウル館の常設展「韓国現代美術ハイライト」。[著者撮影]
展覧会のサブタイトルが示唆しているように、横浜美術館では両国の関係史に焦点があてられているからである。すなわち、北朝鮮に渡った後、消息が不明になったチョ・ヤンギュらの在日コリアンに始まり、1965年の国交正常化の後に開催された両国の展覧会、中村政人らによる新しい世代の交流などを紹介しており、村上隆や高嶺格など、日本のアーティストも数多く含む。とても意義のある企画だと感じたが、撮影禁止の部屋が多いことも気になった。その理由は記されていなかったが、北朝鮮に渡った日本人妻や在日コリアンの顔写真などがあるため、配慮したのではないかと想像する。2025年は世界が同じ場を共有する万博が開催されたにもかかわらず、一方で排外主義が政治のレベルでも顕在化した年でもあり、今の日本の状況だと仕方のない対応だったのかもしれない。
展覧会の第二章のテーマは、両国をつなぐアーティストとして、やはり「ナムジュン・パイクと日本のアーティスト 」になっていた。日本とドイツで学び、アメリカに移住した彼は国際的にも活躍した韓国を代表する現代美術家である。ソウルの景福宮の目の前にある大韓民国歴史博物館は1894年以降の近代史を紹介しており、韓国が独立した1945年と民主化した1987年に節目を設定し、時代を3つのパートに分けていた。苦難の歴史を経て経済が発展し、最後は世界に発信する文化として韓流ドラマやK-POP、そしてナム・ジュン・パイクを取りあげていた。つまり、国の歴史を振り返る博物館において、彼はただひとり、作品を展示されていた人物なのである。改めて、韓国における存在感を確認した。安藤忠雄が設計した原州の《ミュージアムSAN》にも、ナム・ジュン・パイク・ホールという特別な円形展示室が用意されている。
大韓民国歴史博物館でのナム・ジュン・パイクの展示。[著者撮影]
龍仁市には、彼の名前を冠したナム・ジュン・パイク・アートセンターが存在し、前々から行こうと思っていたが、あまりアクセスが良くないため、2025年に初めて立ち寄ることができた。この建築については、2003年に国際コンペが開催され、日本でも話題になり、知人が応募していたからである。ちなみに、ドイツの建築家が設計者に選ばれたが、残念ながら、デザインはそれほど良いとは思えなかった。さて、1階では、現代音楽に影響を受けたパフォーマンス的な初期作品《TVガーデン》、《TVフィッシュ》、《月は最古のテレビ》などの代表作、そして手紙やドローイングなどの資料を展示している。創成期のメディアアートの実験精神が懐かしく感じられた。今となっては想像しづらいが、当時のビデオカメラはきわめて高価なアイテムだったはずである。大量に普及したブラウン管もビデオも、過去のテクノロジーになったが、情報がデジタル化し、フラットな画面が当たり前になった現在だからこそ、その物質性が興味深い。進化の速度が早いメディアの宿命だろう。2階では、彼がモーツァルト200周忌に制作した《M200》のビデオウォールのほか、次世代のメディアアートを紹介する企画が行なわれていた。
ナム・ジュン・パイク・アートセンターにて、奥に展示されているのは《TVガーデン》。[著者撮影]
ナショナルアーキテクトの金壽根と金重業
韓国のモダニズムを牽引した二人の近代建築家、金壽根(キム・スグン)と金重業(キム・ジュンオプ)は、ともに日本に留学した経験をもつ。彼らはソウルオリンピックの施設や万博における韓国館などを担当しており、ナショナルアーキテクト的な存在だった。筆者が二人の名前を最初に知ったのは、大学院生時代、韓国の留学生から聞いたときである。もっとも、日本でよく知られているのは、前者だろう。金壽根は東京藝術大学や東京大学で学び、磯崎新と親交を結び、鹿島出版会から作品集が刊行されていたり、1993年にギャラリー・間で個展も開催されているからだ。また自らの事務所であり、建築と芸術を扱う月刊誌『空間』の編集を行なっていた代表作の《空間社屋》は都心に位置し、現在は韓国を代表するアラリオ・ギャラリーのミュージアムとして公開されている。そして京東教会などの重要な作品も見学しやすい。一方、金重業に関しては、日本語で得られる情報はあまり多くないだろう。見学しやすい建築も多くなく(というより、あまり情報を得られなかった)、筆者は釜山の国連記念墓地の門くらいしか訪れたことがなかった。

金壽根《空間社屋》。[著者撮影]
およそ30年ぶりに2つのエリアに建てられたソウルオリンピックの競技場をまわり、彼らの作品をまとめて見学した。広大なオリンピック公園を高層住宅群が囲む状況は、ロッテワールドタワーの展望台、ソウルスカイから確認できるのだが、現地に行くと、かなりのエリアが市民の憩いの場になっている。また韓国はビルの建設費の1%をパブリックアートにあてるので、そもそも街なかに作品が多いのだが、公園のあちこちにも野外彫刻が点在していた。そしてレガシーの建築が多く残り、百済の遺跡(夢村土城)の発掘は現在も続く。まとめて見学と書いたのは、金壽根が、現在改修中のメインスタジアムのみではなく、ほかにも複数の運動施設を担当しているからだ。例えば、なんとプールの底が上下し、水深が変化するシステムをもつという水泳競技場や、初の膜ケーブル屋根を試みた体育館(現在、オリジナルの屋根は変更)、自転車レース場などである。1964年の東京オリンピックにおける丹下健三以上の働きだろう。もっとも、金は1986年に逝去し、1988年のソウルオリンピック を見ることはなかった。
金壽根が手がけた《ソウル総合運動場》。[著者撮影]
金重業が担当したのは、両ウィングに湾曲する片持ちの屋根が大きく張りだした《世界平和の門》のみである。もっとも、これはいわばメインゲートなので、目立つ場所だ。現在、補修中だったが、ゲートを抜けた先にある広場は、少年たちの自転車乗り場になっている。なお、メインスタジアムの横には、ソウルオリンピックをはじめとする歴代オリンピック入賞者の記念碑に加え、各施設の記録を記した碑も存在していた。
金重業《世界平和の門》。[著者撮影]
ソウル郊外の安養市には2014年にオープンした金重業博物館があり、11月に初めて訪れ、その全容をつかむことができた。これは彼が設計した製薬会社の建物をリノベーションしたもので、韓国初の建築博物館だという。金は平壌に生まれ、日本人の美術教師から才能を見だされ、建築を志し、横浜国立大学の前身である横浜高等工業学校において、中村順平からボザール流の教育を受けた後、松田平田の設計事務所に入社した。本格的にモダニズムを吸収したのは、国際会議に出席したことを契機に、1950年代にル・コルビュジエのもとで働いたときだろう。帰国後は大学の校舎、ニューヨーク世界博の韓国館、フランス大使館、サンプラザ百貨店などを手がけている。ただし、韓国らしさを探求する屋根のほか、ミース風の高層ビルやポストモダン風の造形など、ル・コルビュジエの影響から離れて、多様なデザインを展開した。なお、展示されたノートを見ると、戦後もアイデアを構想する際に日本語で文章を書いており、最初に建築教育を受けた言語が、ずっと使われ続けていたことは興味深い。
金重業博物館。[著者撮影]
ソウル都市建築ビエンナーレと日本
両国にゆかりをもつ建築家としては、ルーツの済州島でプロジェクトを手がけた在日コリアンの伊丹潤や、統治時代に父が仕事をしていた関係でソウル生まれになった伊東豊雄が挙げられる。もちろん、すでに解体された朝鮮総督府や朝鮮神宮をはじめとして、近代に日本人が設計した建築は少なくない。以下に筆者が実際に見学した韓国における現代の日本人建築家の作品をいくつか挙げよう。安藤忠雄の自作である《ミュージアムSAN》で開催された個展「青春」は、決してアクセスが良いとは言えないが、多くの来場者を集めていた。彼は2023年にソウル建築賞を受賞した《LGアートセンター》や、日本の作品以上にダイナミックな造形をもつソウルの《JCCアートセンター》、済州島の《ポンテ美術館》や《ゲニウスロキ美術館》などの文化施設も手がけ、その人気ぶりがうかがえる。ソウル以外のプロジェクトは、彼の署名的なデザインとも言える打放しコンクリートだけでなく、石や瓦なども使い、地域性を表現していた。
山本理顕による城南市の高級住宅街に隣接する《パンギョ・ハウジング》は、プリツカー賞を受賞したときに高く評価された作品である。彼は10戸前後の主に3層の住宅の集まりを分散させ、各ブロックの2階レベルはデッキ状につないだ共有スペースとし、居住者のコミュニティの場としつつ、1階は中庭を囲むプラン、地下はエリアの駐車場とした。この開発にはほかの建築家も参加しているが、筆者が実際に訪れた際には、山本のエリアが一番居住性が良さそうだと感じた。ほかにソウルの地下鉄ノクサピョン駅のリニューアル《ダンス・オブ・ライト》は、成瀬・猪熊建築設計事務所と地元のエイラウンド・アーキテクツが手がけたものである。また南山公園に向かう坂道の途中にある《ホワイトストーン・ギャラリーソウル》は、隈研吾が設計した。やや不思議な構成をもつのは、リノベーションをしたからである。筆者の訪問時には、漆を何層も重ねて抽象画のような作品を描くキム・ドッカンの個展を開催していた。
山本理顕《パンギョ・ハウジング》。[著者撮影]
ホワイトストーンギャラリーでのキム・ドッカンの個展。[著者撮影]
ところで、2025年11月にソウルに行ったのは、第五回ソウル都市建築ビエンナーレを鑑賞するためだった。コロナ禍のときはスキップしたが、2017年の第1回から訪れており、これで4度目である。大規模なプロジェクトを抱えるトーマス・ヘザーウィックがディレクターを務め、「ラディカリー・モア・ヒューマン」をテーマに掲げていた。前回に続く松峴(ソンヒョン)緑地広場での屋外展示は、ねじれた巨大な立体カタログというべき鉄骨造の構築物が圧巻だった。そして毎回会場に使われるソウル都市建築展示館は、各都市の事例やソウルで進行中の未来的なプロジェクトを紹介している。全体の規模はやや小さくなったように思うが、展示デザインは今回がもっとも意欲的だった。なお、日本からは隈研吾と若手の伊藤維、そして日本女子大学が参加していた。

第五回ソウル都市建築ビエンナーレでの隈研吾の展示。[著者撮影]
松峴緑地広場のすぐ近くの旧小児科病院で、ちょうど開催していたのが、趙鼎九(チョウ・ジョング)が率いるguga都市建築による「fiction non fiction」展だった。彼は東京大学に留学して建築計画を学び、韓国の伝統的な家屋の空間を現代建築の設計につなぐ活動を展開している。また毎週水曜日にソウルの街区をしらみつぶしに調査し、どのような家屋が残っているかを丁寧に実測するフィールドワーク「水曜踏査」を四半世紀にわたって継続し、会場ではその成果(西橋365や工場敷地内家屋などの驚くべき事例を紹介)と自作(《済州文学館》や羅宮のホテルなど)を展示していた。また屋外では、住宅作品をベースにした気持ちが良い1/1パビリオンも設置し、きわめて濃密な内容である。同時期に、guga都市建築が改修した北村の韓屋を会場に、中村好文の「普通でちょうど良い」展が開催されていたのは興味深い。これは自邸を含む、小さい住宅のアクソメ模型、家具や書籍、映像を通じて、その思想を語るものだった。趙と中村の交友関係から実現した企画だが、なるほど、「ヒューマンなデザイン」は両者に通じるものだろう。
水曜踏査で調べた西橋エリアの図面と模型。[著者撮影]
guga都市建築「fiction non fiction」展の屋外展示。[著者撮影]
中村好文「普通でちょうど良い」展にて、改修された韓国の伝統家屋「韓屋(ハノク)」。[著者撮影]