前回は1960年代から名古屋に根差したアングラ演劇について書いたが、今回は比較的新しい公の祝祭をレビューする。「愛・地球博」のレガシーとして2010年に「あいちトリエンナーレ」の名ではじまり、今年で第6回となる国際芸術祭「あいち2025」だ。芸術監督はシャルジャ首長国を拠点とするフール・アル・カシミで、テーマは「灰と薔薇のあいまに」。愛知芸術文化センターと愛知県陶磁美術館、そして瀬戸市の名鉄尾張瀬戸駅周辺の市街地が会場である。54組のアーティストが参加する現代美術の展示に加え、本芸術祭の大きな特徴であるパフォーミング・アーツとラーニングのプログラムのアーティストも合わせて62組の作家が参加した。
前回のプロジェクト・マネージャーを経て
筆者はここまで何も参照することなくスラスラと書けるのだが、これは筆者が愛知県美術館で働く学芸員であるからというだけでなく、第5回のエディションとなる「あいち2022」でプロジェクト・マネージャーを務めていたためだ。あまり表立って宣伝されることはないので、少し紙幅を割いて具体名と共に紹介したいのだが、同芸術祭の運営には毎回愛知県美術館の学芸員が深く関わっている。第1回から第3回までは拝戸雅彦がキュレーターとして携わり(第3回のみチーフ・キュレーター)、第4回からは塩津青夏がプロジェクト・マネージャーとして、そして第5回は塩津と筆者が同ポジションで関わり、中村史子がキュレーターに名を連ねた。このたびの芸術祭では、プロマネの二人が同時に交代し、副田一穂と芹澤なみきが3年間服務した。また、今回筆者がそうであったように、プロマネ以外の学芸員たちも展示のコーディネーションや設営のサポート、会期中のトラブルシューティングに従事している。
実を言えば、プロジェクト・マネージャーを務めていた「あいち2022」の会期中は、パフォーミング・アーツやラーニングのプログラムだけでなく、現代美術の展示も数えるほどしか見ることができなかった。館内で起こるトラブルに対処し、イベントの準備に追われ、会期中の4週間で4つの市町を巡るスモールスケールの芸術祭「ポップ・アップ!」の開催のために奔走していたら、気づくと閉幕直前になっていた。そのことが大変に悔やまれたので、今回の芸術祭では展示会場を何度も訪れ、ラーニングとパフォーミング・アーツのプログラムも可能な限り参加・鑑賞した。
このたびの芸術祭では、アル・カシミ監督による綿密なディレクションによって、テーマである「あいま」が隅々まで浸透していた。そのため本稿では、正攻法で、このテーマをよく体現していたと思われる出品作家を7組分選んで紹介する。パフォーミング・アーツやラーニングのプログラムも取り上げたかったが、あまりに長くなってしまうので現代美術の作品だけに絞った。また、ここでは作品個別のレビューではなく、芸術祭のテーマのなかで作品がどのように見えたかということに重きを置いて書き、作品の描写は最低限に留める。
冒頭でも述べたように、芸術祭のテーマは「灰と薔薇のあいまに」である。これはアドニスの名で知られるシリア出身の詩人による『灰と薔薇のあいだのとき』(原語:アラビア語、未邦訳)という詩集に由来する。コンセプト文にある「枯れ木に花は咲くのか/灰と薔薇の間の時が来る/すべてが消え去り/すべてが再び始まるときに」は、同詩集に収録された「小国王の歴史の紹介」(1970)から引用されているのだが★1、これは第三次中東戦争後のアラブ社会を描いた叙事詩である。第三次中東戦争とは、1967年にイスラエルがエジプトをはじめアラブ諸国に侵攻、制圧し、わずか6日間で勝利を収めた戦争で、100万人以上のパレスチナ難民が発生したことでも知られる。テーマの引用元からも推察できるように、「あいま」とは政治的中庸を指しているのではない。実際、アル・カシミ監督は開幕に先立つオープニング・セレモニーのあいさつの最後に「パレスチナに自由を」と添えた。
一方で、あいさつやコンセプトのテキストには周到に固有名詞の使用が避けられており、戦争、虐殺、民族浄化といった言葉は用いられていても、特定の国や歴史的な出来事には言及されていない。出品作品においても、パレスチナ拠点のアーティストの作品でさえ、凄惨な戦闘の場面や犠牲者たちの姿を見せたものはなかった。また、反戦や反差別など明確なメッセージを発する作品よりも、曖昧さを残したコノテーションに富む作品、あるいは徹底した観察や調査に基づいた文化人類学的な作品に焦点が当てられていた。このような選択からは、「あいま」に留まり、「あいま」からも漏れ出るものに触れるという、芸術にのみ可能な態度とその力への信託が感じられた。
テーマに重なる複数のレイヤー
芸術祭のコンセプトをもっとも端的に伝えていた作品は、バーシム・アル・シャーケルの《スカイ・レボリューション》(2023)をはじめとする「4分間」シリーズだった。一見すると花弁が宙を舞うのを見上げるような美しい光景だが、イラク戦争下で目撃した爆撃後の瞬間を表わしたという絵画だ。対話型鑑賞ツアーに参加して観客の様子を見ていると、このような冒頭一文の解説で、誰もが息を呑んでいた。アル・シャーケルは2003年の開戦以降10年間は故郷であるイラクで過ごしたが、マフディ軍の軍人に命を狙われ、24歳のとき米国へ移住した★2。10代と20代を壮絶な環境で過ごしながら、戦闘の悲惨さのなかになお希望や「まだ生きている」★3ことへの喜びを見出そうとする姿勢は、芸術祭のそれと響き合っていた。
国際芸術祭「あいち2025」 展示風景
バーシム・アル・シャーケル
©︎ 国際芸術祭「あいち」組織委員会[撮影:ToLoLo studio]
アル・シャーケルの作品がただちに芸術祭のテーマを伝えるものだとすれば、杉本博司の「ジオラマ」シリーズと《東山動物園猛獣画廊壁画》のコンビネーションは複数のレイヤーを根気よく読み解くことでテーマとの深い結びつきに気づくことができる。「ジオラマ」は、言わずと知れた杉本の初期の代表作で、博物館の剥製をモノクロ写真で撮影したシリーズである。一方の《東山動物園猛獣画廊壁画》は、戦中に飼育頭数が激減した東山動物園(現:名古屋市東山動植物園)の獣舎に飾るため、太田三郎、水谷清、宮本三郎という3名の画家によって描かれた北極・南極、南方熱帯、アフリカの動物画だ。
国際芸術祭「あいち2025」 展示風景
杉本博司 宮本三郎
©︎ 国際芸術祭「あいち」組織委員会[撮影:ToLoLo studio]
本芸術祭では動物の表象が、人間と地球を共有する生物として、また戦争や環境破壊の先に容易に命を脅かされる存在として、何度も現われる。愛知ではよく知られていることだが、東山動物園の動物が戦中に減ったのは、食糧の不足による餓死もあるが、空襲などによって猛獣が檻から逃げ出す可能性を鑑みて殺処分されたためだ。園側は檻の頑丈さを理由に抵抗していたが、B29爆撃機が名古屋市内を空爆したことを契機に、トラ、クマ、ライオンなど13頭が数日のうちに射殺された★4。翻って作品の形式に目を向けてみると、横に長いパラノミックな構図は戦争記録画を思わせる。事実、宮本三郎は戦時下従軍画家としてシンガポールやマレー半島など東南アジアに派遣され、戦争記録画を描いている。死んだ動物たちが、絵画と写真を通じて擬似的に甦らされている点で、「ジオラマ」と「猛獣画廊壁画」は通底している。また、博物館と動物園は、人間の知的欲求を満たすため、資料や動物を元あった場所から引き離して集めた場所であり、コロニアリズムと不可分な歴史をもつ。本芸術祭で順路は設定されていないものの、これらの作品が愛知県美術館の第一室に展示されていたことから、どちらか一方を加害者もしくは被害者とせず、歴史や物語に耳を傾けて輻輳的に世界を把握しようとする姿勢を最初に観客へ示すものだと感じた。
人間/動物と自然とのグラデーション
ロバート・ザオ・レンフイの《森を見る2025(「あいち2025」のための再構成)》は、シンガポールの都心にあって開発されゆく二次林(一度破壊された後でひとりでに再生した天然林)をつぶさに観察することによって、世界大戦後の自然の姿を巨視的かつ微視的に浮かび上がらせていた。シンガポールは、1942年に日本軍の侵攻後10日余りで「陥落」し、終戦までの約3年間日本の占領下に置かれた。そのため同地の二次林では、日本軍が置いていった猪口や胃薬の瓶などが見つかる。レンフイはこれらを拾い集め、今回のインスタレーションに用いていた。二次林にはほかにもバケツや鍋などがあるのだが、そこに溜まった雨水に集まる小動物たちを捉えるのが、動作感知機能付きカメラである。人間の利便のために作られた道具を、フクロウやムジナはほかの水浴び場と区別しない。文字通り動作を感知すると作動するカメラは、静止することがない小動物たちの動態を、人間の営みから生じた漂流物との関係性のなかで記録する。そして、森のなかでひときわ温度の高い人間と動物を、等価に際立った存在として捉えるのがサーモグラフィカメラである。2チャンネルの映像作品《フクロウと旅人たち そしてセメントの排水溝》では、サーモカメラが二次林を散策する男女の様子を追うシークエンスに、草原に佇むシカの映像が挟まれる。両者は細部が捨象された暗い紫色の森で、黄や赤に発光する異質な生き物に見える。同作終盤では、男性が立ち小便をする姿がサーモグラフィで写される。木の幹にかかった尿がみるみる温度を失って紫色になっていく様子は、異質に思えた人間/動物を自然とのグラデーションに置き直すかのようだった。本作における動物たちは、戦争や開発の犠牲者としては描かれていない。あくまで二次林が、日本による占領という大きな物語と、回復した森で暮らす動物たちの小さき生態系が連なる場として観察されていた。
国際芸術祭「あいち2025」 展示風景
ロバート・ザオ・レンフイ
©︎ 国際芸術祭「あいち」組織委員会[撮影:ToLoLo studio]
「現実が作品を追い越してしまった」
人間と動物の「あいま」を扱った作品のなかで、会期中作品の見え方にもっとも大きな変化が生じたのは、永沢碧衣のクマを描いた絵画だったように思う。永沢は大学卒業後に秋田のマタギの里に通いはじめ、2018年には猟銃免許を取得した(そのマタギの里に女性が入るのは初めてだったそう)。マタギに同行して狩猟や有害駆除に参加しながら、そこで出会った個体をモデルに絵を描いている。永沢の地元である横手市のマタギのあいだでクマは神聖な動物として扱われていて、有害駆除であっても傷口を葉で化粧したり、解体するときにきれいな水場に移動させたりするという★5。靄の中から姿を現わすクマの躯体は山そのものとして描かれ、「山の神様」が住む森で邂逅するクマは本当にこのように見えるのだろうと思わせる。しかし今秋日本の人々が目にしたのは、ブナの凶作や猛暑による液果類の生育不良により、餌を求めて市街地に現われるクマだった。新聞やテレビではクマによる被害が連日報道され、SNSでも倉庫を壊したりスーパーマーケットに居座ったりするクマの写真や動画が拡散していた。出品作《共鳴》には、人間とクマの世界を隔てる領域としての川の濁流と、それを前にたじろぐクマが描かれているが、永沢が本作を描いているあいだに、クマたちがこの川を越えて人里に降りてきてしまったという。開幕2日目に開催されたラウンドテーブルで、永沢はこの出来事を「現実が作品を追い越してしまった」と表現していた。地球環境の変化がクマを聖なる森から追い立て、人間との望まない邂逅を生む。ヒトとクマがどのような共生関係を結べるのか、身をもって問いかける永沢の絵画は、その切実さによって観客を強く惹きつけていた。本稿では詳しく触れられないが、セルマ&ソフィアン・ウィスィによる公演『Bird(バード)』における手懐けない鳥とのダンスも、動物と人間はいかに接触し、同じ地平で共生できるかを探ろうと試みるものだった。
国際芸術祭「あいち2025」 展示風景
永沢碧衣
©︎ 国際芸術祭「あいち」組織委員会[撮影:ToLoLo studio]
瀬戸の歴史、土の歴史
ロバート・アンドリューの《内に潜むもの》は、地域の資源を地質学的スパンと産業史のスパンの両輪で捉えていた。会場である瀬戸市の株式会社加仙鉱山の全面的な強力を得て★6、アンドリューはまず同社が所有する鉱山から何種類かの土を運び出した(黄土のみ県内の別の鉱山のものを使用した)。そして型を使って土を長方形の層状に積み重ねていきながら、長い一本の綿糸を一緒に固めていく。その糸がほんの少しずつ自動的に巻き取られていくのだが、糸は各層の表面に近い位置に螺旋状に埋められているので、直方体の外側だけが崩れ、内部の土の層が露呈するという仕組みだ。アンドリューは西オーストラリアの先住民族ヤウルを祖先にもつアーティストで、本作は「カントリー」(近代国家とは異なり、先住民族が暮らす土地に生きるすべてのものを含めた言葉)の直接的な表象であるという★7。
国際芸術祭「あいち2025」 展示風景
ロバート・アンドリュー《内に潜むもの》(2025)
©︎ 国際芸術祭「あいち」組織委員会[撮影:ToLoLo studio]
ところで、瀬戸が窯業の街として栄えたのは、地元で「瀬戸キャニオン(瀬戸のグランド・キャニオン)」とも呼ばれる鉱山に、陶土に適した蛙目粘土やガラスの原料となる硅砂が多く含まれる地層があったからだ。この地層は、7000万年前に形成された花崗岩が風化し、海面が下がって現われた盆地に流入してできたものだ★8。瀬戸焼の歴史は約1000年だが、土の歴史はもっと長い。ここでアンドリューの作品を見返すと、進行に気づかないほどゆっくりと削り取られていく土の層は、瀬戸の大地が地球の活動によって堆積、風化していくイメージと結びつく。しかし同時に、崩れて露わになっていく地層は、露天掘りによって陶土層が露出し、草木が生えなくなった鉱山をも想起する。7000万年かけて作られた陶土は有限で、人間の営為が資源を消耗していることに気づかされた。
個別の物語を慈しむ
文化人類学的態度に貫かれた作品として筆頭となるのは、是恒さくらの捕鯨についての一連のインスタレーションだろう。是恒は長年クジラと人間の暮らしの関係に着目し、アラスカのポイント・ホープや網走、石巻、和歌山の太地町など捕鯨の歴史をもつ地域でフィールドワークを行なってきた。本芸術祭への参加にあたって、愛知の沿岸地域と捕鯨や鯨食文化の歴史、戦後鯨の長期保存のため使われた塩が釉薬として用いられた常滑の陶芸史などを調査するため、是恒は何度も愛知を訪れた。これらの調査をもとにして出来上がった作品は、鯨の身体に知多半島での捕鯨や常滑の登り窯を描いた巨大な刺繍作品と、名古屋港に漂着したクジラの骨や、常滑で作られた陶管や植木鉢、同じく常滑の旧青木製陶所(前回の芸術祭の会場でもあった)の煉瓦に浮き出た塩の結晶などで構成された、クジラの全身骨格だった。
国際芸術祭「あいち2025」 展示風景
是恒さくら《白華のあと、私たちのあしもとに眠る鯨を呼び覚ます》(2025)
©︎ 国際芸術祭「あいち」組織委員会[撮影:ToLoLo studio]
捕鯨については、賛成か反対かという曖昧さを許さない議論が続いており、世界を「捕鯨国」と「反捕鯨国」で分ける見方さえある。是常の隣室に展示されたジョン・アコムフラの映像作品は、人間が人間にする搾取や殺戮の長きに渡る歴史と、クジラやホッキョクグマなど海に住まう大型動物の猟を重ね合わせ、海を美しくも人間の残虐性が発露する場として壮大に描いていた。対して是恒の作品は、捕鯨を人間の営みのひとつと捉え、クジラをめぐる個別の物語を慈しむ。本芸術祭において文化人類学的アプローチは、賛否の立場表明をすることなく、異なる(と思われる)文化にまず耳を傾けることへつなげる「あいま」を観客にもたらす機能を果たしていた。
このような考えはラーニングのプログラムにも反映されており、参加者が主体的に議論に参加できるトークイベントやワークショップを開催する「ラーニング・ラーニング」や、ボランティアが企画立案からプログラム実施までを行なう「ボランティアプログラム」などが用意されていた。
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筆者は戦争や差別に反対する言語やイズムに励まされてきたが、近年は一方的な立場の表明だけでは現状の打破が難しくなっていると感じる。言葉による声明は力強く人々を導き、団結させる一方で、それに賛同しない人々とのあいだに分断を生むこともある。また、言葉のうえで世界で起こっている戦争や紛争をひとつ残らず挙げて哀悼を示しても、その国や歴史を知らない人々にとっては絵空事でしかない。抽象性を残したままにすることで、観る者の個別の知識や事情を代入して、他者を理解するための糸口となるかもしれない。そして芸術は、賛否や是非を問うことなく、抽象や曖昧、留保や逡巡といった「あいま」の態度によって人々を緩やかに結びつける力を持ちうる。本芸術祭は束の間このように思わせてくれた。シャルジャ首長国の政治の中枢にあって戦争や虐殺を身近に感じながらも、「あいま」に希望を見出そうとするアル・カシミ監督のディレクションは、より多くの観客に地続きのどこかで起こっていることへの想像力を働かせることに成功していたのではないだろうか。
最後に付け加えたいのは、芸術祭はスタッフたちの多大な労働によって支えられているということだ。キュレーターチームや先に挙げた学芸員たちだけではなく、県職員や臨時職員、コーディネーター、アーキテクト、テクニシャン、デザイナー、エディターなど、多くのプロフェッショナルの見えない全力以上の働きが芸術祭を実現に導いている。芸術祭のなかとそばでかれらの個別の物語を見たからこそ、閉幕まで懸命に尽力したスタッフにも賛辞を送りたい。
★1──Adonis, “An Introduction to the History of the Petty Kings,” A Time Between Ashes and Roses, New York, Syracuse University Press, 1970., p. 5, 55.
★2──Diane Bou Khalil「Iraqi Artist Bassim Al-Shaker Paints His Own Revolution」(『Borderless』、2022.2.2)(https://borderlessmag.org/2022/02/02/iraqi-artist-bassim-al-shaker-paints-his-own-revolution/)
★3──“Bassim Al-Shaker, Four Minutes,”(Rhona Hoffman Gallery、2023)2025.12.8閲覧(https://www.rhoffmangallery.com/exhibitions/bassim-al-shaker)
★4──「東山動植物園の歴史」(『東山動植物園』)2025.12.8閲覧(https://www.higashiyama.city.nagoya.jp/history/zoo/story/07.html)
★5──三澤麦「徹底したフィールドワークから自然と人との関係性を描く。永沢碧衣インタビュー」(『ウェブ版美術手帖』2023.3.16更新)2025.12.10閲覧(https://bijutsutecho.com/magazine/interview/26681)
★6──加仙鉱山については下記の記事が詳しい。
https://shop.seto-masukichi.com/blogs/yomimono/tsuchikasenkouzan
★7──Louise Martin-Chew「Robert Andrew uses kinetic presence to evoke cultural change」(『Art Guide Australia』、2019)2025.12.11閲覧(https://artguide.com.au/robert-andrew-uses-kinetic-presence-to-evoke-cultural-change/)
★8──瀬戸の土の歴史については、愛知県陶磁美術館の佐藤一信館長をゲストに迎えたラーニングのプログラム「ラーニング・ラーニング vol. 04」でも扱われた。同プログラムのレポートを下記から読むことができる。
https://aichitriennale.jp/magazine/cat-report/learning-vol04.html
国際芸術祭「あいち2025」 灰と薔薇のあいまに
会期:2025年9月13日(土)~11月15日(土)
会場:愛知芸術文化センター、愛知県陶磁美術館、瀬戸市のまちなか
公式サイト:https://aichitriennale.jp/index.html