クラブで踊るとはどういうことか。
筆者はクラブカルチャーの研究をしている。といっても、関心があるのは音楽のジャンルや歴史といったことよりも、クラブという空間が持っているコモンズ的な性質のほうだ。そこで交わされる視線、振る舞いの模倣と逸脱、細やかな身体の所作の積み重なり。そういうものが、その場の価値を形成していく。クラブにおいて、人は観る存在であると同時に観られる存在でもある。その双方向性が、クラブという空間の力学を作っている。
『Wound and Ground』は、振付家・児玉北斗が2022年から継続的に取り組んでいるプロジェクトである。地面を押し続ける身体動作を起点に、平成以降のわたしたちを取り巻く不安定性と向き合い、それを身体化していく実践だ。
2025年10月、KYOTO EXPERIMENT 2025のフリンジ企画として、本作は京都METROで上演された。METROといえば、京都のクラブカルチャーを30年以上にわたって牽引してきた老舗である。開催は10月4日(土)のデイタイム(13:00〜16:59)と、9日(木)のナイトタイム(20:00〜23:59)の2回。昼と夜。同じ空間で、(多少の調整はあるものの)ほぼ同じ構造の公演が、異なる時間帯に行なわれた。
公演の構造について、記しておきたい。

[以下すべて、撮影:Toma Saito]
「観る」と「踊る」の境界
会場に入ると、そこには通常のクラブ営業と変わらない光景が広がっていた。サウンド・武田真彦によるオープニングDJセットに始まり、バーカウンターでの談笑、緩やかに温まっていくフロア。ただ、どこかに「これから何かが起きる」という予感が漂っている。
約40分後、音が止む。気がつけばフロアの真ん中に、児玉北斗、黒田健太、藤田彩佳、益田さちという4名のダンサーが立っていた。無音のまま、彼らは踊り始める。やがて武田による固いビートで構成されたライブセットが重なり、パフォーマンスは約40分ほど続いた後、一度終了する。
児玉による短い挨拶。そしてゲストDJのCeeeSTeeにブースが引き継がれると、空間の空気は再度一変する。高揚感に包まれた会場で観客は談笑し、酒を飲み、思い思いに身体を揺らし始める。ここだけを切り取れば、通常のクラブイベントと何も変わらない。パフォーマンスを見届けた安堵感と、フロアに戻ってきた日常の時間。その弛緩した空気が、1時間ほど続く。
しかし終盤、再び武田のライブセットが始まると、いつの間にかダンサーたちがフロアの中央に戻ってきている。明確な合図があったわけではない。気づけば、彼らはそこにいる。踊っていた観客の多くは足を止め、輪を作るようにして彼らを眺める側へと移行していく。バルーンが投入され、ドラマトゥルク・増川健太がVJとして壁面にテクストを投影するなか、パフォーマンスは再び立ち上がり、そしてゆるやかに終息していった。
つまり、この公演は「観る時間」と「踊る時間」が截然と分かれているわけではなく、交互に、あるいは重なり合いながら進行する構造を持っていた。観客は、自分がいま観客なのか参加者なのか、その境界を何度も横断させられることになる。そして、その揺らぎこそが、本作がクラブという場所を選んだ理由のひとつだったのではないかと思う。
クラブカルチャーの規範と雛形
クラブカルチャーの起源をたどると、それは禁止と抵抗の歴史に行き着く。ナチス政権下のスウィング・キッズは、禁じられたジャズやスウィングを聴くために、私邸にポータブル蓄音機とレコードを持ち寄って秘密裏にパーティを組織した。持ち込まれた蓄音機と集められたレコードによって、複数人で踊り合う。これはクラブカルチャーの雛形であり、ディスコの美学の源流といえるだろう。
日本においても、踊る身体は繰り返し禁止の対象となってきた。2015年の風営法改正以前、深夜にフロアで踊ることは法的に禁じられていた。2010年代には警察による摘発が相次ぎ、多くのクラブが営業形態の変更を余儀なくされた。そしてパンデミック下では、三密空間における身体を寄せ合い汗を流すこと自体が忌避された。わたしたちの身体は、国家や社会規範によって、いつの間にか「許可制」のもとに置かれてきたのである。(同時にクラブカルチャーは風営法改正などで権利を獲得してきた歴史も持ち合わせている。)
社会学者サラ・ソーントンは、クラブにおける「サブカルチャー資本」の蓄積について論じた。他者の振る舞いを観察し、模倣し、その場のコードを身体に刻んでいく。クラブにおける踊りとは、そうした学習の実践あるいは資本の獲得でもある。では、『Wound and Ground』においてダンサーたちは何をしていたのか。彼らが発していたのは、許可の所在を問い返すような静かな信号だったのではないか。「踊り方」を教えるのではなく、「ここでは踊ってよい」という、奪われてきた当たり前を差し出そうとしていた。少なくとも、筆者にはそう見えた。
しかし、許可を差し出すとはどういうことなのか。クラブにおいて、観客は単に踊るだけではない。踊る他者を観ることで学び、同時に自らも観られる存在として振る舞う。この「観る/観られる」の関係性のなかで、許可は伝達されていく。
テアトロンとしてのクラブ
演出家・高山明は、演劇の語源である古代ギリシャ語の「テアトロン」に注目し、それを「観る場所」「客席」と定義した。通常、演劇といえば舞台上の「ドラマ(行為)」が中心だと思われがちだが、高山はこれを逆転させる。重要なのは舞台の上で何が起きるかではなく、それを観た観客の身体や意識のなかに何が起きるか、なのだと。古代ギリシャの円形劇場において、観客は舞台を見下ろすと同時に、向かい側に座る他の観客たちの姿も視界に収めていた。テアトロンとは、単なる鑑賞の場ではなく、市民が互いを見つめ、社会を省みるための装置だったというわけだ。
クラブもまた、ある種のテアトロンとして機能している。DJを観る場所であり、踊る他者を観る場所であり、自らもまた観られる場所である。この双方向性において、クラブは独特の磁場を形成している。
ただ、1回目のデイタイム公演を見ながら、筆者は少しばかりの違和感を覚えていた。ダンサーたちの身体は確かに地面を踏みしめ、空間に強度を与えていた。だが、その動きには、クラブで自然発生的に生まれる踊りとは微妙に異なる質感があった。振り付けられた規則性、訓練された身体の使い方。そうした機微の差異が、観客を「観る側」へと押し戻してしまう。

逆説的ではあるが、ダンサーの存在が「踊ってよい」という許可を差し出すどころか、むしろ観客に「観ること」を強いてしまっているように感じられた。許可を与えようとする身体が、その洗練ゆえに境界線を引いてしまう。これはダンサー個人の問題ではない。クラブ空間でダンス作品を上演することの、構造的な難しさなのだろう。
もっとも、そもそもこの作品が観客を踊らせようとしていたのかどうかは、実のところ定かではない。児玉がMETROという場所を選んだ理由は、単に「観客も一緒に踊る」ことを期待してのことだったのか。あるいは、禁止と抵抗の歴史を背負ってきたクラブという場所の記憶そのものが、タイトルにある「傷」と「地面」というモチーフと共振するからなのか。ただ、いずれにせよ、クラブという空間を選んだ以上、「観ること」と「踊ること」の境界をめぐる問いは、作品の内部に否応なく発生してしまう。それは意図であれ帰結であれ、本作が引き受けざるを得ない緊張だったのではないか。
対して、2回目のナイトタイム公演では、その境界は明らかに溶解していたように感じられた。夜という時間がもたらす意識の変容、クラブ空間が本来持つ時間性との共振、そしてKYOTO EXPERIMENTの他の公演から流れてきたであろう観客の身体的な習慣もあったのかもしれない。観客の身体は空間に馴染み、ダンサーの動きに呼応するようにフロア全体が有機的なうねりを生み出していた。「観る側」と「観られる側」の区分は曖昧になり、高山の言葉を借りれば、観客自身が「観られる存在」として空間に参入し始めていた。
デイタイムとナイトタイムでは、観客も時間帯も異なる。同じ観客が二つの公演を経験したわけではない。だからこそ、この差異は興味深い。デイタイムでは作品として「観られる」ことを引き受けた身体と、夜の時間のなかで観客と共に「踊る」ことへと開かれていく身体。同じ構造を持つ公演が、時間と観客の性質によってまったく異なる様相を呈した。これは、クラブという空間の可塑性を示しているように思える。

傷を負いながら、地に繋がり続けること
公演の後半、フロアにはヤシの木型のインフレータブルや浮き輪、アヒルの空気人形といったエアー玩具が持ち込まれた。どこか脱力した夏の残骸のようで、祝祭の記号でありながら、その素朴な軽さがかえって空虚さを際立たせていた。同時に、壁面にはプロジェクターで折口信夫、島田雅彦、福田和也、鶴見済らのテクストの断片が投影された。地面を踏みしめる身体の呪術性、政治から切断された若者の身体性、意味を問わない踊りの肯定。これらの引用は、本作に通底する概念を言語化し、空間に思想的な補助線を引こうとしていたのだろう。
ただ、ダンサーたちの身体が持つ強度に比して、これらの視覚的要素は少し浮いて見えたことも確かだ。本作品がもたらす身体性を補完するようなVJや舞台装置が、よりミニマルなかたちで空間に溶け込むような展開もあり得たかもしれない。

終盤、ダンサーたちは地面に引きずられるように沈み込んでいった。地面に吸い込まれることに抵抗するかのような、人外じみた動きで身体をよじらせながら、やがて力尽きたように横たわる。散乱するエアー玩具の間で脱力した彼らの姿を見ながら、筆者は近年アメリカで社会問題となっているフェンタニル中毒者たちの映像を想起していた。それが意図されたものかどうかはわからない。しかし、快楽を絞り尽くさんとする蕩尽の果てに、身体がもはや自らを支えることができなくなり、地面へと崩れ落ちていく。その光景は、クラブカルチャーが本質的に孕む享楽と虚脱の両義性を、図らずも可視化していたように思える。
それでもなお、彼らの身体は地面との接点を手放さなかった。傷(Wound)を負いながら、地(Ground)に繋がり続けること。そこにこそ、本作の核心があるのではないか。
京都METROは、30年以上にわたって実験的な試みを受け入れてきた稀有な場所だ。クラブでありながら、ライブハウスであり、ときに展示やフードイベントもある。その懐の深さがあってこそ、『Wound and Ground』のような試みは成立した。
同時に、クラブという空間はもっと可変的であり、もっとドラスティックに組み替えられる可能性を秘めているはずだ。照明、音響、身体の配置、観客とダンサーの関係性。それらをさらに解体し、再構築することで、本作はより深い地層へと降りていけるのではないか。
だからこそ、願わくばこの試みがオールナイトで展開されることを期待したい。公演終了時にダンサーたちが見せた徒労感と、明け方のクラブで踊り続けた者たちが迎える脱力とは、何が異なり、何が同じなのか。あるいは、そんな問いさえどうでもよくなるほどの昇華的な時間体験が、まだこの先に待っているのではないか。夜を越え、朝を迎え、身体が限界に達したその先で、傷と地面はどのような関係を結ぶのか。
『Wound and Ground』は2022年から継続されてきたプロジェクトであり、今回の京都METROでの上演はひとつの特異点であると同時に、新たな出発点でもあるはずだ。その歩みを、引き続き見届けたいと思う。
『Wound and Ground』
2025年10月4日(土)13:00-16:00
2025年10月9日(木)20:00-23:00
会場:京都METRO
公式サイト:https://www.hokutokodama.com/
パフォーマンス・振付:児玉北斗、黒田健太、藤田彩佳、益田さち
サウンド:武田真彦
ゲストDJ:CeeeSTee
プロジェクト・マネジメント:竹宮華美
ドラマトゥルク/テクスト:増川建太
ファシリーテーション:小松菜々子
プロダクション・サポート:遠藤リョウノスケ、太田夏来、渡辺瑞帆
ロゴ・デザイン:村上真里奈
原案/演出:児玉北斗
主催:Pure Core/児玉北斗
京都芸術センター制作支援事業
KYOTO EXPERIMENT 2025 フリンジ「More Experiments」