会期:2025/11/22~2025/11/24
会場:愛知県芸術劇場 小ホール[愛知県]
公式サイト:https://aichitriennale.jp/artist/akn-project.html

沖縄の本土復帰の4年後である1976年、つまり約50年前に書かれた戯曲を、現在において上演することは、どのような意義をもつのか。戯曲の結末で提示される、差別を受けた側が差別する側に回ってしまうという「差別の再生産」のループ構造を、ただ追認するのではなく、観客とともに、変革の可能性へ向けてどう開いていくことが可能か。本上演は、こうした困難かつ切実な希求に応える、秀逸な試みである。

劇作家・知念正真の代表作『人類館』(1976年初演)は、1903年の「人類館事件」をモチーフに、皇民化教育、沖縄戦、戦後の米軍統治、ベトナム戦争、本土復帰という沖縄の近現代史を高密度で圧縮し、トラウマのフラッシュバックのように時空の境目がねじれながら交錯していく戯曲である。同時にこの戯曲自体が、「演劇」の構造をメタ的に何重にも利用することで、沖縄が歴史的に置かれてきたアイデンティティの複雑さや矛盾を浮かび上がらせる。目の前の生身の人間を一方的に眼差す暴力性という、「人類館」と演劇の構造的な同質性。真似ること、自分以外の誰かになりきることという演劇の原理と、「日本人になること」の重ね合わせ。そして知念の戯曲の底力は、「帝国の犠牲者」である沖縄という自己憐憫にとどまるのではなく、沖縄自身が抱えたねじれに対する痛烈な自己批判を、ユーモアつまり喜劇へと転じさせる点にある。知念の『人類館』は1978年に、沖縄の作家として初の岸田國士戯曲賞を受賞した ★1

那覇文化芸術劇場なはーととの共同製作により、国際芸術祭「あいち2025」 のパフォーミングアーツ部門で上演された本作は、知念の没後、娘の知念あかねが2020年に立ち上げたAKNプロジェクトによる、3度目のリ・クリエーションである。共同演出に新進気鋭の新垣七奈、ドラマトゥルクに林立騎を迎えた。「差別は再生産され、なくならない」という絶望的な結末に対して、知念あかねは、元の戯曲を一言一句変えることなく、希望に変えたいという姿勢で新演出に臨んだ。それはいかにして可能になったのか。

『人類館』の冒頭は、1903年の「人類館」での「人間の展示」をなぞるようにして始まる。大阪で開催された第5回内国勧業博覧会の会場近くで、政府公認のパビリオンとは別に、民間主催の施設として「人類館」が開館し、朝鮮人、アイヌ、台湾原住民、インド人らと、沖縄の女性2名が「展示」された ★2。19世紀後半から20世紀初頭にかけて欧米諸国で開かれた博覧会では、植民地を含むアジアやアフリカなど非欧米圏の人々や先住民が、「再現」された住環境のなかで、日常生活や歌や踊りを見せる「人間の展示」が行なわれていた。将来の万博開催を見据えた内国勧業博覧会においても、欧米列強に倣い、人種・民族の序列化を通して帝国主義的覇権を示す方針が採られたといえる。ただし、「人類館」で予定されていた清国人の「展示」は、開館前に清国からの抗議を受けて中止され、朝鮮人と沖縄の女性2名の「展示」も、開館後にそれぞれ抗議を受けて中止された。この一連の騒動が「人類館事件」である。

知念の戯曲では、女性2名が一組の男女に置き換わり、粗末な小屋の中に、「陳列された男」と「陳列された女」が並んでいる。そこに、鞭を持った「調教師ふうな男」が登場し、観客に向かって口上を述べ、「陳列」された男女の身体的特徴や生活風俗について、侮蔑的な口調で紹介していく(以下、「調教師」「男」「女」と記述する)。

戯曲の骨子は、調教師が述べる口上のなかに、諧謔やユーモアとともに何重にも書き込まれている。①「人類普遍の原理」「平等」を掲げた差別の正当化。「彼等も私達と同じ人間なのに……」と観客が自覚するために、差別や抑圧を受ける人種や民族を「展示」する、という屈折した論理が述べられる。②「人類館」と演劇の構造的な同質性の強調。「どうぞ皆さん、彼等を良く見てやって下さい。彼等の一挙手一投足を、瞬きもせずに観察して下さい。穴のあく程、しみじみと見詰めてやって下さい」という口上によって、「演劇の観客」は、「人類館を見に来た観客」に強制的に重ね合わせられてしまう。私たち見る者は、自らの内にある眼差しの暴力性に再帰的に向き合いながら本作を見るよう、要請されるのだ。③ダブル、トリプルミーニングがかけられた台詞の多重性。調教師は差別を生む要因として、手に持った鞭を示しながら、「これこれ、これであります。すなわち、ムチ蒙昧、ムチと偏見であります……ムチかしい?」とおどける。無知(からくる偏見)と鞭(暴力的な矯正)、そこにユーモアで応答すること。こうした言葉の意味の多重性は、例えば次の台詞にも顕著である。「貴様は何者だ?」と詰問する特高刑事の取り調べは、沖縄戦下において住民にスパイ容疑をかける帝国軍人の台詞とリンクする。さらにここには、「日本人か、そうでないのか、お前は何者なのか?」と 常に問われ続けてきた ・・・・・・・・・・ 、同化政策と差別的視線の狭間で揺れ動く沖縄自身のアイデンティティの困難さも読み取られるべきだろう。


[提供:那覇文化芸術劇場なはーと 撮影:仲間勇太(那覇公演)]

説明を終えた調教師が次のパビリオン「ニグロ館」へ去ると、男と女は、沖縄口 ウチナーグチ 大和口 ヤマトグチ (本土の標準語)が混ざった 沖縄大和口 ウチナーヤマトグチ で語り始め、二人の「過去」が示される。おどおどしていた男の態度は急に横柄になり、人類館より刑務所の方がましだと不満を吐き出す。だがここで、すでに時空の混濁が始まっている。男が刑務所に入った理由は、米軍基地から「トラック一杯のアメリカシーツ」を盗んだからだというのだ。また、調教師の前では卑屈だった男の態度を笑う女に対し、男は、人類館へ来る前は米兵相手の売春をしていたのではないかと詮索し、女を怒らせる。


[提供:那覇文化芸術劇場なはーと 撮影:仲間勇太(那覇公演)]

二人はいったん和解し、琉球舞踊の音曲にのって歌い踊るが、調教師が再び登場して二人を叱責し、方言の使用を禁止し、「正しい日本語」の教育が始まる。「日本人はすべからく日本語で話すべきだ。(中略)そうでなければ一枚岩の団結など有り得ない」と檄を飛ばす調教師は、「おまえたちが真っ先に覚えなければならない」日本語として、「天皇陛下万歳!」と叫んでみせる。だが、男の訛りは、何度繰り返しても「バンジャーイ!」の発音になり、真剣に反復すればするほどギャグに転じていく。「日本人になること」は方言の禁止という同化政策であり、同時に「天皇の忠実な臣民になること」を意味する事態が、笑いによって異化される。


[提供:那覇文化芸術劇場なはーと 撮影:仲間勇太(那覇公演)]

このように本作では、差別/被差別、支配/被支配の構造が、大和口と沖縄大和口という2つの上演言語の使い分けで示される ★3。同時に、この言語の境界と支配構造は、細部で綻びを帯び、次第に崩れていく。「正しい日本語の使用」と「天皇への絶対服従」を命じる調教師は「馴れなければならんのラ」と発音し、「ダ」が「ラ」になってしまう典型的な沖縄大和口の話者であることを自ら明かしてしまう ★4。つまり、調教師自身、「本土」「日本人」への同化を自らに厳しく課し、帝国主義的規範を内面化した沖縄人であることが、「訛り」によって露呈するのだ。

時空はますますねじれ、調教師はいつのまにか、飲み屋で出世できない愚痴をこぼすサラリーマンになる。昇進が妨げられた理由は、沖縄出身であることを告げ口されたからだ。だが、彼は突然、取調室で威圧的に尋問する特高刑事になり、男に自白を強要する。男が「吐く」のは、沖縄戦での凄惨な集団自決の重い記憶だ。一方、女は、ベトナム戦争帰りの米兵を相手にする売春について、過酷な労働環境や搾取を語り始める。爆発音が轟くと、沖縄戦の末期にシーンが転換。ひめゆり部隊から女子挺身隊へ移り変わる女は、帝国軍人になった調教師に何度もレイプされそうになる。鉄血勤皇隊から郷土防衛隊に移り変わる男も、帝国軍人に日本語の発音を試され、スパイ容疑で殺される。だが場面が転換すると、帝国軍人もまた、戦場を逃げ惑う同郷の者にも見分けがつかないほど、「帝国主義に同化し、日本男児になりきった沖縄人」であったことが露呈する……。

後編では、衣装や舞台美術にも着目しながら、本上演が、戯曲の結末をどう希望へと「反転」させたのかをみていく。同時に、50年前の戯曲に書き込まれた「性暴力の被害者」という一面的な女性表象の限界と、訛りの矯正対象となる「日本人=臣民」は男性しか想定されていないというジェンダーの不均衡性を指摘しつつ、本上演が帝国主義的なジェンダー規範から逸脱する仕掛けをはらむことについても考察する。

(後編へ)※2/6公開予定

★1──「戯曲デジタルアーカイブ」にて戯曲が公開されている。https://playtextdigitalarchive.com/public/drama/download/50
★2──詳細は下記を参照。小原真史「『人類館』の写真を読む」(『photographers’ gallery press no.14』、2019、pp.3-55)
★3──『人類館』における上演言語の使い分けについては下記を参照。坂本(平敷)尚子「沖縄人の自問自答―知念正真『人類館』再考」(『演劇学論集』日本演劇学会紀要、46巻、2008、pp.5-23)https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjstr/46/0/46_5/_pdf/-char/ja
★4──本橋哲也「溶解する境界、自律への胎動―『ジェイムズ劇』と『人類館』におけるポスト・ナショナリズムの不安」(『シアターアーツ』59号、2015、pp. 87-94)

関連レビュー

イッツ・ア・スモールワールド:帝国の祭典と人間の展示|高嶋慈 :artscapeレビュー(2021年03月15日号)

鑑賞日:2025/11/23(月)