artscapeレビュー

イッツ・ア・スモールワールド:帝国の祭典と人間の展示

2021年03月15日号

会期:2021/02/06~2021/02/28

京都伝統産業ミュージアム 企画展示室[京都府]

19 世紀後半から 20 世紀前半、欧米帝国主義諸国で華やかに開催された万国博覧会。そこで、植民地を含むアジアやアフリカなど非欧米圏の人々や先住民が、「○○村」と呼ばれるネイティブ・ヴィレッジやパビリオン内に「再現」した住環境のなかで、日常生活や歌や踊りを見せる「人間の展示」が行なわれていた。本展は、写真と絵はがきを中心に、版画、ポスター、パンフレット、新聞や雑誌の挿絵など「イメージの流通」を示す約1500点の膨大な資料群によって、多角的な問いを照射する。企画はキュレーター・映像作家の小原真史。



[Photo by Akane Shirai, Courtesy of Kyoto Experiment. ]


近代を駆動させるさまざまな欲望と、いかに視覚が結び付いているか。いかに眼差しが権力性と結び付いているか。本展は、他者をイメージとして領有する欲望を、圧倒的な物量で解き明かす。最先端の産業の精華を示す製品が並ぶ万博会場が、照明やガラスの魔術的な効果とともに百貨店のショーウィンドーに継承され、「万博の常態化」として消費の欲望を喚起し、資本主義を支える装置として機能すること。「タヒチの純粋な大地」に憧れたゴーギャンや黒人芸術に影響を受けたキュビスム、ジャワの音階を取り入れたドビュッシーなど、モダニズムを内部で駆動させるエキゾチシズムの共犯関係。人類学や進化論といった学問は、非欧米圏の人々や先住民を、身体的特徴による計測と分類の対象として扱い、「動物から人間への進歩」を示す序列化を行なった。そうした学術的根拠は、「文明と未開」の構図を示しつつ、「野蛮な自然状態から啓蒙へ導く」シナリオとして、植民地主義に合理的正当性を与えた。また、肥大した臀部と性器を持つアフリカ人女性が生前は「見世物」となり、死後は標本化されたように、女性の官能的なパフォーマンスが博覧会につきものとなり、「性に奔放な非欧米圏の女性」という(白人男性にとって都合のよい)イメージが流通し強化されていく。そしてこれらを支えたのが、出演者たちの長距離移動と観客の大量動員をともに可能にする交通網の発達と、イメージをより遠くへ大量に伝達する写真技術というテクノロジーの両輪である。「魅惑的な異国」への入口として、(しばしば誇張されて正確性を欠いた)各地の建築物の特徴をあしらった「ゲート」は、ディズニーランドなど娯楽的なテーマパークに引き継がれ、「異国の旅人」となった観客が、絵はがきや立体視を楽しむステレオカードといった「お土産品」を持ち帰れることで、ステレオタイプな他者イメージがより強化されていく。私たちが会場で目撃するのは、その膨大な欲望のおびただしい残滓だ。



[Photo by Akane Shirai, Courtesy of Kyoto Experiment. ]


また本展は、「見る/見られる」という視線と主体をめぐる複雑な政治学にも言及する。19世紀後半、開国前の日本から万博の視察に訪れた日本人たちは、欧米人から好奇の眼差しや人類学の計測写真のレンズを向けられる対象でもあった。だが、1903年に大阪で開催された第五回内国勧業博覧会では、「学術人類館」でアイヌ、沖縄、台湾などの先住民を「展示」し、自らの優越性や植民地支配の正当化を展示装置を通して行なおうとした。同様の「展示」は、1912年開催の拓殖博覧会でも実施。そこでは、「内地観光」という名目の懐柔策で訪れた台湾の先住民が、「首狩り族」への珍奇な期待とともに「見られる」対象へと反転する。「人類館」をひとつのターニングポイントに、日本が「見られる」エキゾチシズムの対象から視線と権力の主体へ移行するプロセスは、「帝国」の外部や周縁に、「より未開で劣った」人種や部族を「発見」し、獲得すべき植民地を「表象」として一足先に領有する企てでもある。帝国・中心はつねに「外部・周縁」を欲望し、「外部・周縁」が帝国の欲望を支えているという表裏一体性こそを、私たちは眼差さねばならない。



[Photo by Akane Shirai, Courtesy of Kyoto Experiment. ]



[Photo by Akane Shirai, Courtesy of Kyoto Experiment. ]


本展はまた、過去と未来の2つの万博という時間的レイヤーを有している。第四回内国勧業博覧会(1895)の跡地である京都の岡崎で開催されたことと、2025年の大阪万博を批評的に射程に入れていることである。そして最後に、本展が「KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2021 SPRING」のプログラムとして開催された意義を述べたい。住居や生活用具を「舞台装置」のように設え、民族衣装をまとった「異民族」が日常生活を送る様子を演劇的に「再現」し、儀礼的なパフォーマンスを見せる「人間の展示」への再考。それは、近代の歴史的射程や(本展でも紹介されている)「フリークス」の展示という舞台芸術の系譜のひとつに対する反省性のみならず、「他者を表象として切り取り、一方的に視線を向ける」権力性や欲望と分かち難い舞台芸術それ自体に対する再帰的な批評として機能する。


KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2021 SPRING 公式サイト:https://kyoto-ex.jp/shows/2021s-masashi-kohara/


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