会期:2026/01/15〜2026/01/18
シアター711[東京都]
作・演出:升味加耀
公式サイト:https://hatetocheek.com/dakudaku2526/

「当事者になっちゃうのが怖いわけじゃないですか、ホラーって結局」

マレビト様、裂け目、チューニング、そしてユガミさん。果てとチーク『だくだくと、』(作・演出:升味加耀)で交わされる会話には冒頭から耳慣れない、あるいは私たちの知るそれとは明らかに異なる意味で使われている言葉が次から次へと登場する。『だくだくと、』はジャンルで言えばホラーあるいはSFに分類される作品であり、これらの言葉はその世界を立ち上げる、言わばコードとして機能するものだ。そうしてこれらの言葉を聞いた観客は自らの立つ「ここ」との間に線を引き、「そこ」を自分たちの世界とは異なる場所として切り離すだろう。

このような「切り離し」は現実においても無意識のうちにしばしば行なわれている。ジェンダー、性的同意、合理的配慮、ICE、あるいは殺人ドローン。果てとチークの作品において、ホラー/SF的な設定は現実を映し異化するための装置だ。同時にそれは、同じ世界にありながら「異なる場所」へと切り離してしまうその機構自体を反復し、切り離されたものを「同じ世界」へと回帰させるための装置でもある。

「そこ」は、ある日突然、空中に現われた「裂け目」から出現した「マレビト様」によって平和がもたらされた世界だ。マレビト様は近くにいる人間同士に痛みの感覚を共有させることで、世界から傷害や殺人、そして戦争までも消し去ってしまったのだった。それでも他者を害したりルールを守らなかったりする人間は、「ユガミさん」と呼ばれる人ならざるものへと変質させられてしまう。あるいはその可能性を秘めた「ユガミ遺伝子」を持つ人間もまた、定期的な「チューニング」によって同じように選別され、そうして世界の「平和」は保たれている。

そんな世界が訪れてから2年。映像制作会社セイラムの社員である五木(川村瑞樹)・御崎(升味加耀)・生方(川隅奈保子)・白山(能島瑞穂)はホラー企画の社内コンペのために会議室に集まっていた。年齢もキャリアも部署もバラバラの4人の共通点は「女性」であるという一点のみ。どうやら社内コンペの「彩り」担当として招集されたチームのようだ。メンバーの最後のひとりで五木のパートナーでもある九段を待ちながら交わされる会話からは、必ずしも円満とは言えない4人の関係性が浮かび上がってくる。やがて九段が「重大な秩序を乱す行為」のペナルティでユガミ化されたという知らせがもたらされ──。

[撮影:上野哲太郎]

マレビト協会からセイラムに来た仕事は、ルールを守ることの大切さとユガミさん/ユガミ遺伝子の怖さをわかりやすく伝えることを目的としたものだという。それに呼応するかのように、会議室の壁には使用上のルールが書かれた紙がベタベタとお札のように貼られ、部屋の四隅には「この部屋のお約束」として「すべてを正しい位置にします」「火を使いません」「この部屋の内線は鳴りません」「24時を過ぎたら元に戻ります」の文言が掲げられている。これらの「お約束」を破ると、連帯責任で部屋にいる全員がユガミさんになってしまうらしい。

ユガミ化された人間はノイズがかった影のような姿へと変えられ、ゾンビのように同じ場所を徘徊し続けることになる。言葉らしきものは発するもののコミュニケーションも取れず、人間だった頃の姿をそこに見出すことは難しい。「ルールを守らない人間」を非人間化し排除してしまうこのようなあり方は、昨今日本でも高まりを見せる排外主義を彷彿とさせるものだ。同時にそこには、排外主義に染まってしまった人々の言葉を理解不能なものとして切り捨てたくなる私の心もたしかに映し出されていたのだった。

[撮影:上野哲太郎]

[撮影:上野哲太郎]

物語の後半では「お約束」の正当性が疑問に付されることになる。知らせを聞いた五木は九段に会おうと「お約束」を破ってしまうのだが、起こるはずのユガミ化は起きず、四人はなぜか会議室に閉じ込められてしまう。何が起きたのか。なぜそうなったのか。元の世界には戻れるのか。そもそもあの「お約束」は何のためのものだったのか。対応をめぐって衝突する四人。やがて明らかになるのは、どうやらそうして過ごしているあいだはマレビト様のお力の影響を受けずに済むらしいということだ。マレビト様やユガミさんに対する考え方も異なり、「女性」であるという以外には共有するものも少ないメンバーは、そこをある種の避難所のようにして、そうしたいと思えるあいだはこの世界をともに生きていこうという一点でのみ合意を見ることになる。

ここに至って「お約束」の意味は反転している。「お約束」を破ることが「避難所」を発動するためのルールになっているという文字通りのこの反転は、世界への抵抗のためにはときに「お約束」を破る必要があるのだということを示唆するかのようでもある。加えて、ルールの機能自体が反転していることも見逃せない。誰かを排除するためのルールから安心して過ごせる場所を作り出すためのルールへ。もちろん、排外主義が如実に示すように、両者はしばしば表裏一体である。だが、排除と包摂のどちらを向いているかの違いは大きい。ここで私が思い出したのは、マイノリティの集まりなどで参加者が安心して過ごすために掲げられる「グランドルール」のことだった。例えば他人の話を否定しないこと。話をその場だけに留めること。あるいは話したくないことは話さなくてよいこと。そうしたルール設定によってようやく作り出される細やかなセーフスペースは、すぐには変えることのできない世界をそれでもともに、ばらばらなままで生きていくためのよすがとなり得るものだ。そこにかろうじての希望は託される。

[撮影:水澤桃花]

[撮影:水澤桃花]

このレビューでは物語のかなりの部分を端折らざるを得なかった。触れられなかった論点もいくつもある。興味を持たれた方は果てとチークのウェブサイトから台本データを購入することができるのでぜひ読んでいただけたらと思う。今後の果てとチークは2026年6、7月に『きみはともだち』を、2027年1月に『くらいところからくるばけものはあかるくてみえない』をそれぞれ再演予定とのこと。

[撮影:上野哲太郎]

鑑賞日:2026/01/17(土)


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