会期:2025/11/01~2026/02/15
会場:国立国際美術館[大阪府]
公式サイト:https://www.nmao.go.jp/events/event/20251101_for-a-placard/
(前編より)
前編で見たように、視覚的・触覚的なインパクトで訴える田部の《プラカード》と、「かき消されそうな声とその可傷性」を示す谷澤の「極小のプラカード」という対照性で始まった本展は、田部の《人工胎盤》と笹岡の《イカロスの花嫁》において、家父長制や婚姻制度のなかで当然視される女性の痛みや犠牲、「女を知ったら一人前の男」と見なすホモソーシャルな共同体に対して「NO」を突きつける。笹岡の映像作品では、捧げられた花嫁人形ヨリコは最終的にイカロスと結ばれない結末に至る。だが、もし2人が「家庭」を築いていたら、「幸せ」になったのだろうか? あるいは、「家族」は「恋愛関係で結ばれた一対の男女が築くもの」という固定観念をどう解体・拡張していくことができるのか?
こうした問いを変奏するのが、向き合うように展示された、飯山由貴の映像作品と金川晋吾の写真作品である。飯山由貴の初期作品《あなたの本当の家を探しにいく》と《海の観音さまに会いにいく》は、幻覚や幻聴の症状をもつ妹が見ている世界をともに見ようとする行為を通して、ステレオタイプな「家」「家族」とその虚構性を逆説的に浮かび上がらせる。前者で飯山は、「本当の家を探しにいく」と言って外に出ようとする妹を否定するのではなく、夜の住宅街をともに歩きながら「本当の家」を探す。2人が頭に装着した小型カメラの映像は、重なり合いつつもズレを伴ってひとつの画面に合成され、同じ景色を見ていても完全には共有できないことが示される。あてどなく歩く夜の散歩は、文字通り「家」「家族」の枠組みの外に出て、これまで話を聞けなかった幻覚や幻聴とその辛さについて 知ろうとしていく 時間でもある。一方、会話を交わすうち、妹にとっての「本当の家」は、ステンドグラスが光り輝く「北欧っぽい家」であり、ムーミン一家が暮らす家であることがわかってくる。妹にはムーミン一家が暮らす世界が見えており、そこで自分はムーミンたちと同じ「妖精」になっているという。

飯山由貴《あなたの本当の家を探しにいく》(2013)[©liyama Yuki 提供:国立国際美術館]

飯山由貴《海の観音さまに会いにいく》(2014-2020)[写真:宮沢響、飯山由貴 ©liyama Yuki 提供:国立国際美術館]
妹が見ているムーミンの世界を、両親と飯山で再現してみたのが《海の観音さまに会いにいく》だ。着ぐるみやお面を被り、父親はムーミンパパに、母親はムーミンママに、飯山はムーミンに扮し、妖精の姿になった妹と一緒に、彼女の指示書に従って箱根の観音にお参りに行く。本作の潜在的な批評性は、実際の家族が「理想的な家族」であるムーミン一家を演じるというメタ的な二重性によって、「演じられた虚構」としての家族像を浮かび上がらせる点にある。
規範化された家族像を、生活の営み方そのものによってどう解体・拡張していくことができるか。この問いを自覚的に引き受けるのが、金川晋吾の《明るくていい部屋》だ★1 。金川は2019年より、アーティストの斎藤玲児と百瀬文と3人での共同生活を始めた。部屋探しでは、女性と男性のカップル以外の複数の大人が住むことを許容する賃貸物件が極めて少なく、婚姻や血縁を標準として設計された社会構造に直面したという。また、一緒に暮らすうちに、金川と百瀬の関係は性愛から友愛に近いものへと変化し、2022年からは百瀬のパートナーとしてアーティストの森山泰地が加わり、現在は4人で生活している。金川の写真には、一緒にご飯を食べ、必要以上に気を遣わず、時に「他人」には見せないようなプライベートな姿が、透明感のある光とともに収められている。また、金川自身のセルフポートレートでは、規範化された関係性を脱しながら生活するなかで、ファッションやネイルによって、ジェンダー表現の自由さを獲得していく様子も収められている。

金川晋吾《明るくていい部屋》(2019-2025)、「プラカードのために」展示風景(国立国際美術館、2025)[撮影:山中慎太郎(Qsyum!)]
そして、国家や権力によって敷かれた閉塞的な通路を、「抵抗の歩みを進めていくための道」へと読み替える行為によって交差するのが、志賀理江子の映像インスタレーション《風の吹くとき》と飯山由貴の映像作品《In-Mates》である。志賀の《風の吹くとき》は、スクリーンが上下に二分割され、下部では、東日本大震災後に造成された長大な防潮堤の上を、暗闇のなか、若い女性がレポーターのように語りながら淡々と歩を進めていく。語られるのは、中央に対して「東北」と名付けられた地域が、食糧や労働力、エネルギーの供給地として搾取されてきた歴史について、そして震災後の復興事業における「惨事便乗型資本主義」の形で再び搾取が反復される構造だ。語りかける女性の後ろには、もう一人、目を閉じた女性が影のように付き従い、震災の死者や沈黙を余儀なくされた人々の存在を示唆する。上部の映像では、同じく夜間や昼間に防潮堤の上を歩く人、ブルーシートで覆われた地面、重機、赤く着色された水流などイメージの奔流がフラッシュバックのように畳みかける。女性の語りは二度繰り返され、搾取の歴史の反復性を示すが、映像の上部で赤く点灯するデジタル数字のカウンターは次第にぼやけて視認できなくなり、震災の記憶の忘却を示唆する。

志賀理江子《風の吹くとき》(2022-2025)、「プラカードのために」展示風景(国立国際美術館、2025)[撮影:山中慎太郎(Qsyum!)]
飯山の《In-Mates》もまた、近代帝国日本が何重にも周縁化してきた他者についての語りを、地下道という舞台において回復しようとするものだ★2 。飯山は、先述の《海の観音さまに会いにいく》の制作時に日本の精神医療史を学ぶなかで、戦前の東京にあった精神病院・王子脳病院に、2名の朝鮮人男性が入院していたことを知る。本作では、看護日誌に残されていた2名の記録を元に、在日コリアン2.5世のラッパー、FUNIが文字通り声を吹き込む。《In-Mates》のキーとなるのが、韓国語、日本語、英語の3言語の多層構造が示す、アイデンティティの混乱と回復、そして連帯への希求である。「ここはどこだ?」と記憶喪失のように呆然と暗い地下道に佇むFUNI。彼は2名の患者が乗り移ったかのように、韓国語でつぶやく。「俺を助けてくれてありがとう」という言葉は、精神病院の医師や看護師たちに向けたもののようだ。「俺もあんたらみたいにいいことしたら ここを出れるかな?」という言葉には、精神病院/在日コリアンという二重の拘束からの脱出が掛けられている。「俺の名前は岡本信吉」と名乗る彼は、「俺は日本人だから朝鮮人は全員抹殺だ」「俺は朝鮮人だから殺してくれ」という分裂した語りを展開し、在日コリアンの生自体が歴史的に精神的な分裂状態を生きざるを得なかったことを突きつける。

飯山由貴《In-Mates》(2021)、「プラカードのために」展示風景(国立国際美術館、2025)[撮影:山中慎太郎(Qsyum!)]
中盤では、FUNIともう一人の在日コリアン男性が、日本への帰化をめぐって在日コリアンどうしの間にある葛藤や軋轢を日本語で語る。「民族がポジティブなものにはたらければいいとは思うけど」と語るFUNIは、しかしそのこと自体、社会的に大きな負荷がかかって生まれた事態であり、「なんなの? 民族って 何そのフィクション」と述べる。
後半のラップでは、「全羅南道 3月1日に生まれて」と韓国語で開始されたラップが、次第に日本語で韻を踏んだものへ変わり、「自由ってどんな感覚なんだ」と英語で歌われていく。これは黒人ジャズピアニストのビリー・テイラーが作曲し、作中のラップにも名前が登場する黒人ジャズ歌手のニーナ・シモンが歌った『I wish I knew how it would feel to be free』という歌であり、60年代アメリカの公民権運動で広く歌われた。映像では、プラカードを掲げた公民権運動の黒人たちと現代のBLM運動の写真が投影され、3.1独立運動の記録写真も混ざる。無関心に通行人が通り過ぎていた映像内には、気づくと、歌に伴奏するベース奏者が映っており、「隣でともに歩む人」がいることを告げる。それだけで勇気が出る。「画面を越えてこい」「俺だけに任せんなよ」とカメラ越しに鼓舞するFUNI。彼の歌声が響き終えると、カメラがパンし、「これまで閉じ込められていた閉塞的な地下道」が、「これから歩いていくための道」へと反転して本作は終わる。
「あえて防音壁をつくらず、映像作品どうしの音響を混ぜ合わせる」という本展の展示設計も効いていた。例えば、「どこを見渡しても八方塞がり」という志賀作品から聴こえてくる音声が《In-Mates》の鑑賞中に偶然重なり、「国家権力や規範によって、何が周縁化され、見えなくされ、排除されてきたのか」を重層的に問う。また、《In-Mates》に挿入されるプラカードを掲げた黒人たちの行進は、冒頭の田部のコラージュ作品へと回帰的にリンクし、本展それ自体が多声的な織物のような磁場を形成していた。そして、レイシズム、植民地主義、性差別、「正常」「普通」の規範化に抗する作品=プラカードが共鳴し合う本展は、さまざまな差異が交差するインターセクショナルな視点から、抑圧や差別を生み出す構造を眼差す姿勢を指し示す「もうひとつのプラカード」を成していた。
★1──本シリーズは、写真集『明るくていい部屋』(ふげん社、2024)として出版されている。
★2──《In-Mates》の字幕は下記で公開されている。https://doshisha.repo.nii.ac.jp/records/2000870 また、本展は、《In-Mates》が初めて美術館展示室で上映展示された機会となった。《In-Mates》に対するこれまでの上映禁止については、上記の字幕データを含め、下記に収録されている。同志社大学《In-Mates》シンポジウム実行委員会編『飯山由貴《In-Mates》の上映禁止が問いかけるもの:検閲/コロニアリズム/ジェンダー』(同志社コリア研究センター、2025)
鑑賞日:2025/10/31(金)、2026/02/13(金)