劇場公開日:2026/01/16
会場:TOHOシネマズ日本橋ほか[全国]
監督:ニア・ダコスタ
脚本:アレックス・ガーランド
公式サイト:https://www.28years-later.jp/

他者を暴力で支配し、抑圧する人。
互いの善意を信じて他者と関わる人。
崩壊した世界でなお、あるいはだからこそ、どのような人間でありたいのか、あるいは、なりたくないのか。
終末後を描いた映画は、このような問いを鑑賞者に突きつけてきた。

例えば『ゾンビ』(1978/監督:ジョージ・A・ロメロ)に代表されるように、ゾンビ映画ではその時々の社会不安が風刺されてきた。放置されたショッピングモールといった閉鎖環境のなかで、社会の縮図とも言うべき人間模様が描かれ、空間内外の境界を介して集団や価値観の線引きがせめぎ合う。ゾンビだけでなく、人間もまた脅威として描かれるこれら作品においては──創作における時代的な傾向もあろうが──、各登場人物は全面的な善き者/悪しき者として配役されており、鑑賞者はいずれかの存在に感情移入することになるだろう。2時間前後の映画鑑賞において、登場人物はある程度一貫した性向のキャラクターを与えられてきた。だが、そもそも善悪の線引きがどこにあるのか、人間を善悪いずれかのキャラクターに二分できるのか、を疑問視していくと、どのような主体でありたいかというかつての問いそのものが有効ではないように思えてくる。

善き者と悪しき者という区別ではなく、行ないの善し悪しを見つめ、その連鎖として人間社会を描き、問うことはできないのだろうか?★1

本稿は、行ないから各主体について考える実践として『28年後… 白骨の神殿』を位置づけるものである。

『28日後…』(2002/監督:ダニー・ボイル、脚本:アレックス・ガーランド)、『28週後…』(2007/監督:ファン・カルロス・フレスナディージョ)、『28年後…』(2025/監督:ダニー・ボイル、脚本:アレックス・ガーランド)、そして本作と、未知のウイルスの蔓延により崩壊した世界★2での人々のサバイバルをこのシリーズは描いてきた。冒頭に挙げたような、『ゾンビ』に連なる問いは本シリーズにおいても繰り返し提示されている。

この世界における脅威は、レイジウイルスに感染し狂暴化した感染者たち──本作ではゾンビとは呼ばれない──と、カルト化した生存者の集団である。それらの脅威にさらされる小さな集落を形成して生き延びる生存者のコミュニティは平和に見えるが、近世的な価値観や風習によって維持されており、程度の差はあれど、カルト集団と同じく抑圧的な小社会になっていると考えることもできる。どの主体も、集団も、レイジウイルスのアウトブレイクという危機的状況を背景に生まれている。前作『28年後…』からの主人公・スパイク少年は、これら小社会の間で生き方を選択しようともがくことになる。

前作では、スパイクは癌の母親を連れ、安全だが閉鎖的な島からイギリス本土へ渡る。感染者の研究をひとりで続けるケルソン医師のもとで母と死別したスパイクは、ひとり旅の最中に全員がジミーと名乗る集団・ジミーズに助けられ、本作ではその一員に迎えられてしまう。本作の冒頭から明かされていくが、ジミーズは、「覇王の息子」を自称するジミー・クリスタルの洗脳によって支配された、殺人をもいとわないカルト集団だ。スパイクは自身が殺されないために集団に着いて行こうとするが、道中の集落で行なわれる残虐な拷問を目にして耐えきれず、逃走を何度も試みる。

ジミー・クリスタルとジミーズは、他者への暴力──ジミーズ内で振るわれることすらある──の残虐さによって、悪しき者たちとして描かれている。そのコミュニケーションは一方的なものに終始しており、物理的・精神的を問わず暴力そのものである。一方、ジミーズの若者たちがアウトブレイク以降に生まれただろうことを踏まえると、このカルト集団の悪は生来のものではなく、環境によって形成されたのだと考えるべきだ。洗脳され始めのスパイクの様子からは、ほかのジミーズもかつてそうであったという推察が可能であるし、何より「世界の終わり」を幼少期に経験したショックがジミー・クリスタルの思考を支配しているのは間違いないからだ。ジミー・クリスタルは、幼少期にレイジウイルスのアウトブレイクを経験し、教会の牧師であった父が信者や親姉妹を襲うさまを目にした。保守的な教義と感染者による襲撃を組み合わせて理解した(と思われる)ジミー・クリスタルは、自らの信じる世界観を若者たちに強要し、信仰させている。

ジミー・クリスタルおよびジミーズの行ないをまったくもって肯定しようがない一方、彼ら彼女らを単に悪しき者であると断罪はできないような背景を設けているのが、鑑賞者に向けられた本作の厳しさのひとつである★3

(中編へ)※2026年3月11日公開予定


★1──加害者/被害者という主体の問題ではなく、加害/被害という行ないの問題として考えなければ取りこぼされることがあまりに多い。例えば、ある被害を受けている特定のアイデンティティの人たちへの連帯を示そうとした結果、加害する人たちをあるアイデンティティでひとまとめにすることがある。そうした「加害者」へのプロテストは、結果的に「加害者」と同じ論理で世界を捉えることにつながっていることがある。プロテストするべきは、そのような世界の認識と、加害行為そのものである。これは、たとえ加害と被害の当事者の間に力の不均衡があってもそうである。不均衡があるからこそ、アイデンティティを元手にせず、その行ない、行ないを支える構造を批判していく必要がある。なお、ここでの例は国家や民族といった規模を念頭に置いているが、個人間においても考え方は同様であるし、物語は描かれる問いをさまざまにスケールする可能性を有している。
★2──『28週後…』のラストでは、感染がヨーロッパ大陸にも広がったことが示唆されているが、『28年後…』ではイギリス島だけがいまだこの状況下であり、周辺海域が封鎖されていることが明らかになる。
★3──『28日後…』の時点で意図されていたかは不明だが、少なくとも前作・本作においては、ゾンビではなく感染者と呼称されていることの意味は大きい。ロメロの描いた頃のゾンビは風刺や比喩を重ねる下地として非人間のゾンビは機能し、ジャンル映画におけるゾンビは娯楽としての暴力を受け止める的になっている。暴力を受ける側に感情移入する必要がない、というメッセージを今日のゾンビはあらかじめ持っているが、後述するケルソンの研究は感染者の意味を大きく変えてしまう。感染者をはじめ、各登場人物をひとつのキャラクターに陥らせないことが、本作では徹底されている。なお、ジミー・クリスタルは、感染者を「ゾンビ」と呼ぶ。


鑑賞日:2026/02/04(水)