
劇場公開日:2026/01/16
会場:TOHOシネマズ日本橋ほか[全国]
監督:ニア・ダコスタ
脚本:アレックス・ガーランド
公式サイト:https://www.28years-later.jp/
(前編より)
作中で主体と行ないを区別して考えているのは、ジミー・クリスタルと対になる存在のケルソン医師である。
感染者と人間の区別なく、死体を見つけては火葬し、白骨の柱を築いて神殿をつくるケルソンは、変わり者として生存者からも敬遠されている。ケルソンは「アルファ」と呼称される、特に凶暴で強靭な感染者をサムソンと名づけ、モルヒネの吹き矢で昏睡させては臨床研究を続けている。前作では目的が不明瞭だった研究行為は、本作ではレイジウイルスの引き起こす症状の解明と回復薬の生成が目的だと明らかになる。感染者の凶暴化は幻覚を伴う恐怖心が引き起こしており、薬によって沈静化できるとケルソンは気づく。地道な投薬治療によって、サムソンは徐々にケルソンとのコミュニケーションが可能になり、最終的に言葉を発する。28年前の感染以来昏迷状態にあったサムソンが言葉を取り戻すシーンは、本作のハイライトのひとつである。
だが、ここで注意したいのは「治療」行為が、投薬“だけ”に見えてしまう点である。ケルソンの医師としての専門領域は明示されないが、沈静化の発想の根本には精神疾患への医療的対処があると思われる。精神医療において、薬物療法によって患者の症状を抑えることは少なくない。幻覚や幻聴といった患者自身に作用する症状、人や物への他害行為は、おしなべて投薬により取り除かれるべきものとして扱われてきた。だが、ケルソンが行なっていた投薬の目的は、レイジウイルスによる感染者の昏迷状態を緩和することだ。それにより、サムソンは他者──彼にとってはまずケルソン──を発見し、関わることが可能になる。また、そのように出会い直せる他者であることを、ケルソンは身を呈して示し、信用を獲得してもいる。ケルソンとサムソンの交流──昼寝をしたり、野原で踊ったり、体育座りで遠くを眺めたり──と組み合わさることで、この投薬は意味を持ったのだ。
だから、ケルソンの行ないは、一方的な「治療」としての旧来の薬物療法(そして、それをさらに単純化した映画描写)のように見誤られるかもしれないが、実際は双方向のコミュニケーションによるサムソンの回復を目指したものだったと言えないだろうか★4。
ケルソンの姿勢は、ジミー・クリスタルに対しても変わることはない。
作品中盤から終盤にかけて、二人の出会いとその顛末が描かれる。ケルソンは感染を防ぐために全身にヨードチンキを塗って外出することを常としており、その異様な姿と、白骨で作り上げた神殿の組み合わせを目撃したジミーズの若者が彼を「覇王」だと勘違いする。ジミー・クリスタルは、「覇王」の声が聞こえることからその存在を信じているが、一方で「覇王」がこの世界に肉体を伴って実在していないこともわかっている。細かくは描写されないが、ジミーズに対しては「覇王」が実在していると(その手先と受け止めることのできる感染者の実在に託して)仄めかすことで、その声の存在を信じさせているのだろう。「覇王」の登場でジミーズの洗脳が解けることを恐れたジミー・クリスタルは、ケルソンとの交渉に向かう。
ひとりで現われたジミー・クリスタルに対して、ケルソンはスパイクに対して向けたのと同じ態度で挨拶し、同じように話を聞く。実在しない声が聞こえるというジミー・クリスタルの説明を聞いたとき、ケルソンの表情はわずかに変わる。このときのケルソンは、具体的な診断こそ下さないものの、幻聴を伴う何かしらの疾患をジミーが抱えているのだと判断したのだと思われる。この判断があるからこそ、ケルソンはジミー・クリスタルの「覇王のふりをしてほしい」という願いを聞き入れたのだろう。
交渉のなかで、ジミー・クリスタルはケルソンに対して脅迫めいたことも言うが、後述する場面でのケルソンの態度から察するに、この時点ではジミー・クリスタルの脅迫を真に受けていなかったように思われる。ケルソンはジミーズがどのような行ないをしているか、この時点では知るよしもない。ケルソンは、ジミー・クリスタルが信じ、周囲の者に信じさせている世界を維持できるよう手伝うことにしたのだ。
単に投薬治療に使えるものがなかった、という可能性も捨てきれないが、サムソンとの関わりを踏まえると、やはりケルソンの「治療」のアプローチは一般的な医療的な対処とは異なるのだと考えてよいはずだ。妄想を修正したり消去しようとするのではなく、そのまま現実の世界と共存させることをケルソンは選択したと言ってもいい★5。
(後編へ)※2026年3月13日公開予定
★4──本稿の執筆にあたって、近田真美子『精神医療の専門性──「治す」とは異なるいくつかの試み』(医学書院、2024)を特に参照した。精神疾患の当事者が地域で生きていくことを支えるACT(包括型地域生活支援プログラム)の実践者たちへの聞き取りと分析は、精神科病院での薬物療法を中心とした従来の精神医療を批判的に検証する側面を持ちつつ、医療の専門性として明示することが難しいコミュニケーションに関わる技術の一端を明らかにしている。薬物療法が治療のすべてではないと言い切る一方、当事者の地域生活におけるコミュニケーションを支える一助となり、選択肢のひとつであるという視座は第3章「『治す』ではなく『暮らす』を目指して」に記されている。ケルソンの「治療」が、過去の映画のそれと異なるニュアンスで見えたことから本書を参照している。なお、本稿執筆時点で本作のソフト販売や配信は行なわれていないため、ケルソンの台詞を詳細にあたることはできていない。台詞の分析結果によっては、監督や脚本家の意図した「治療」が旧来のものである可能性も否定できないが、筆者の鑑賞時の記憶に基づき記述を進めていく。私には、「治す」とは異なる試みが本作では描かれていたように見えたのだ。
★5──『精神医療の専門性』では、幻覚や幻聴、妄想を、本人にとっての現実として一緒に受け入れ、どうしたら社会生活と共存可能かを探る取り組みが散見される。特に第2章「『薬』より『お札』だったんや!」を参照のこと。福祉施設における創作活動もまた同様の効果を持つ実践だと考えられる。作品というかたちで外部化することで、当事者の受け止めている現実は(仮の姿だとしても)他者と共有され、現実の社会で共存する方法を探ることになる。
鑑賞日:2026/02/04(水)