劇場公開日:2026/01/16
会場:TOHOシネマズ日本橋ほか[全国]
監督:ニア・ダコスタ
脚本:アレックス・ガーランド
公式サイト:https://www.28years-later.jp/

中編より)

※本ページでは物語の後半~結末について記載しています。

この後に続くケルソンのパフォーマンスの準備過程および本番は、映画館の大画面で鑑賞する歓びに満ちたものだった。弔いのために作った白骨の神殿に火を焚き、ジミー・クリスタルの世界観に合いそうな楽曲を探し、スピーカーを配線し、祭壇を装飾する。ケルソンの準備はどこか楽しげに見える。誰かのために何かをする描写は、こと本作においては決して多くなく、重要だ。 かくしてジミー・クリスタルとジミーズを迎えたのは、爆音で流れるアイアン・メイデンの「魔力の刻印(原題:The Number of the Beast)」(1982)★6である。この場面は楽曲をフルコーラスで流しながら、歌い踊るケルソンのパフォーマンスをたっぷりと見せてくれる。

ここで印象深いのは、満足気なジミー・クリスタルよりも、ジミーズの熱狂である。おそらく初めて触れるであろう大音量のヘビーメタル、目の前で繰り広げられるスペクタクルなライブパフォーマンスへの熱狂。これら文化的なものがもたらす興奮と、「覇王」を目の当たりにして狂喜することの境はあいまいだが、前者こそが彼ら彼女らを突き動かしたのだと考えたい。

本作前半でジミーズが行なう拷問は、映画であるとわかっていても見続けるのが辛いものである。ゴア表現(流血や肉体の破損を伴うグロテスクな表現)を主にした映画でないにせよ、さらりと流すような映し方では決してない★7。「世界の終わり」の後の世界で、ジミーズとして生きてきた若者たちにとって、自身の気持ちを動かす娯楽は暴力以外に存在しなかった。そのほかの何かによる気持ちの高まりは、映像として描かれなかった。ジミー・クリスタルの世界を支えるために行なわれたケルソンのパフォーマンスが、その世界観を超えて作用したこの場面は、このような世界であっても、このような環境においても、人が何かに心を動かされるという希望を示そうとしている。そのためには、まずジミーズから見えている世界を鑑賞者は知らなければならない。だから、前半の描写があれだけ必要だったのだと言える。

こうして鑑賞者には、ジミーズに向ける眼差しの変化が生まれ、ケルソンの他者への対峙の仕方がわずかに内面化されたのかもしれない。だが、(映画のクリシェからすれば想定外ではないのだが)想像しなかった展開を本作、そしてケルソンは迎える。

パフォーマンスこと儀式を終えるやりとりのなか、ジミー・クリスタルの発言からその正体に気づいたケルソンは困惑し、その場をやり過ごすか逡巡する。しかし、ジミーズのひとりがスパイクであることに気づいてしまう。スパイクを守るためジミー・クリスタルをこの場で葬ることを決意するが、ケルソンは返り討ちに合い、ジミーズ同士も殺し合うことになる……。

少なくともこの瞬間まで、ジミー・クリスタルの世界がこの現実に共存することをケルソンは受け入れていた。悲劇的な顛末を物語が迎えてもなお、このことは否定されるべきではない★8。スパイクにも、サムソンにも、ジミー・クリスタルにも同じように接することができるケルソンの行ないこそが、本作における希望であるからだ。ジミー・クリスタルが悪人だから葬ろうとしたのではなく、ジミー・クリスタルの望む世界がスパイク──その世界を望まない者──を傷つけていることに耐えられないから彼を葬ろうとしたのだ。ジミー・クリスタルおよびジミーズの暴力は極端なものとして描かれているため、彼ら彼女らの世界を否定することは、鑑賞者にとって容易である。だが、ジミーズの暴力がそこまで過激でなかった場合も、ケルソンはそれを止める判断をしただろうか? そこに逡巡がありえるのだから、ケルソンの決意の動機を見誤ってはいけない。

ジミーズを“信じさせる”という説明に潜む暴力(の端緒)をケルソンが見逃してしまったように、他者への加害性はさまざまなかたちや程度でそれぞれの世界にある。そのような加害性は、世界観が異質であるかどうかにかかわらず存在するかもしれない。ジミー・クリスタルの語る世界も、ケルソンの白骨の神殿も、ほかのコミュニティからしたらどちらも異質なものとして受け止められていたことを思い出してほしい。ゆえに、他者を一方的に断罪することは危うく、関わりのなかでその行ないをよく見なければならない。そのためには時間が必要だ。だが同時に、よく見ようとしすぎることは事前の逡巡となり、時に行動を遅らせ、他者への不信を前提にしてしまい、手がつけられなくなるかもしれない。

だから、本作のラスト、スクリーンには24年ぶりに再登場したジム(『28日後…』の主人公)と娘の短いやりとりが胸を打つ。

(遠くで感染者に追われるスパイクたちに気づいて)
娘「助けるの?」
ジム「もちろんだ」

人は一貫した存在として善き者であるのでも、悪しき者であるのでもない。ただ、悪くはない行ないを即座に始められるか、その後で逡巡し続けられるかが問われている。

まずはこうしたい、という予行のために、私はこの映画を思い出す。

こうならないように、という予防として思い出すのではなく。


★6──イギリスを代表するヘビーメタルバンド、アイアン・メイデンの代表曲のひとつであり、冒頭のナレーションは新約聖書・ヨハネの黙示録第13章18節から引用されている。同章は獣の数字と言われる666に言及するものであり、「魔力の刻印」のサビも666を連呼する歌詞となっている。反キリスト的であるとして発表時は欧米諸国で論争を巻き起こした。
★7──本作は映倫のR15+指定。過去に鑑賞経験のあったR15+指定の描写よりハードだと筆者は感じた。ゴア表現の程度というより、物語の演出によってもたらされる心理的な影響が大きいように思う。後述するように、この描写が存在する意義を筆者は感じられたが、当然のことながら、苦手な人が無理に観る必要はない。
★8──現実にそのようなことが起きてしまったとき、その当事者に自分がなったとき、このように言えるかの自信はない。しかし、現実では取り返しがつかないことに対しても、立ち戻って何度も考え直す──取り返しをつけようとする──ことが物語においては可能である。事後的な逡巡を続けるために物語はある。


鑑賞日:2026/02/04(水)