公開日:2024/11/08
上映館:新宿武蔵野館[東京都]ほか
公式サイト:https://klockworx-v.com/robotdreams/

暗い部屋でソファに体を沈めた、うつろな目をしたドッグという名の犬のキャラクター。顔に反射するのはブラウン管のテレビの光で、ひとりでゲームの二人プレーをしたり、いたずらにテレビのチャンネルを回したりする。冷蔵庫からレトルト食品を引っ張り出すときの顔もまた、庫内の照明に照らされる。こうしてニューヨークという大都会のなかでひとり孤独に暮らすドッグの顔を見返すのは、家電や、ほかの誰かに向けられた明かりの反射だけだ。誰も、こうして過ごす彼の表情を目にしようがない。いま、自分のことを自分だけしか感覚していないと気づいたときの孤独感は、しばしば耐え難い。冒頭から最後まで、私にも覚えがある心の動きが、何度も思い起こさせられる。

ドッグの顔は簡素な絵柄で、輪郭はすっきりとした黒い線で描かれている★1。わずかな目の動きや、漏れる吐息の間合いが、描画の向こうの感情を思わせる。セリフもないアニメーションだが、細やかな演出や演技の数々で、102分があっという間に過ぎていく。

「大都会ニューヨーク。ひとりぼっちのドッグは、孤独感に押しつぶされそうになっていた。そんな物憂げな夜、ドッグはふと目にしたテレビCMに心を動かされる。数日後、ドッグの元に届けられた大きな箱──それは友達ロボットだった。」

ドッグとロボットは関係を深めていくが、ビーチでロボットが動けなくなったことを境に、二人は離れ離れになる。ビーチが再び開く1年後まで、二人はそれぞれの経験を重ねていく。作品の終盤、ロボットはある決断をする。そして、大都市に生きる群衆のひとりとして、ドッグとロボットがそれぞれの生を続けていくさまを予感させて映画は終わる。

ところで「友達ロボット」★2として購入され、購入者に対して無条件に親愛の情を示してくれるロボットは、ドッグとは非対称な関係性にあたる。フィクションにおけるロボットや人工知能といった存在は、こうした非対称な関係のなかで、友情や恋慕を抱いたり、反逆したり、ときに人間を無視したりする。人間らしい心の動きやその表出は、非対称だったり歪な関係下でこそ輝いてしまう。人間ではないもののそれに、私たち人間は強く心を動かされ、人間同士のドラマで見るよりもそれらしく、生々しくそれを受け取る★3

だから、これまでのフィクションにおける先達と同様、目には見えない心の動きを可視化するため、本作のロボットは、物語に奉仕させられていると言うこともできるだろう。物語の中でも外でも、ロボットは私たち人間に効果的にはたらきかける。そして、ロボットを助け出そうとしてうまくいかないドッグの人間くささが強調されるのだ。

だが、一方で、物語に奉仕しているのはむしろドッグの方かもしれない、とも思うのだ。キャラクターの生によって物語が動くのか、物語を動かすためにキャラクターの生があるのか。この差は大きい。一見奉仕的な存在に見えるロボットではなく、ドッグこそが物語を動かすために奉仕する存在だという考えが頭をよぎる。キャラクターを物語の内側と物語そのものとに挟まれたものとして見ることができるのは、画面の手前にいる鑑賞者あるいは作者だけだ。物語の内容だけを見ていては、ドッグの置かれた立ち位置はわからない。

映画とはつくられた世界そのもので、私たちは上映時間の前後左右にある(作品内)世界を想像することもできるが、つまるところ見えるものしか見えていない。本作のロボットは、誕生のそのときが映し出され、その死と再生、新たな生が描かれる。そして終盤、ロボットは別れてしまったドッグの元へ走るか否かを選択する。つまり再会の有無を決定したのはロボットだ。これは二人の関係性の話であり、一方で、世界のあり方にも関わる。二人の周囲にある関わりが、決して二人だけのものではない、ということをロボットはもう知っている。

同じように、ドッグにもさまざまな選択の機会があっただろうが、私たちに見えた範囲では、自分と相手の間にある関係の選択だけをドッグはしている。ここに、ドッグとロボットの経験の決定的な違いがある。これはドッグの落ち度ではないし、まだそのような選択のときを迎えていないだけだろう。いずれにせよ、ドッグはまだ世界を変える(ような)選択を、自覚的にはまだ決断していない。そうとは知らずに唯一したのは、ロボットを起動するという選択だ。ロボットとドッグの間にある心の動きなるものを描くには、ロボットが起動する必要がある。ロボットと対置される存在が必要となる。そのために、ドッグはそこにいた。あらかじめそこにいて、これからもそこにいる存在。

ロボットと別れ、(再度の購入で)新たなパートナーを得て、ドッグは以前のドッグから変わった。決断の有無や大小でその人の生は評価されるべきではないが、本作ではロボットに託されたものが多すぎるようにも思う。いかようにも機会を配分することができたにもかかわらず、おそらくドッグの変化を自然でささやかなものにするために……。残念ながら私は、この街にいる大勢もまたドッグのようにそれぞれの生を生きているのだ! と思うよりも、ドッグもまた1980年代のニューヨークから出られない(=自己決定を封じられている)大勢のうちのひとりとして見てしまうのだった★4

『ロボット・ドリームズ』の鑑賞を通じてわかったのは、画面の向こうに対象を留め置くことで、私が物語の内容を受け取っているということ。キャラクターに当事者意識を重ねるのではなく、その心の動きだけを私が見つめているということだ。「感情移入している」というとき、対象そのものにではなく、その心の動きにしか私は(あるいは私たちは)重なれない。そのような心の動きを生み出すために奉仕するキャラクターを救い出すことは、鑑賞者にはできないからだ。そのような宿命を引き受けなければならないのは、キャラクター自身ではなくまず鑑賞者である私のほうだ★5

映画館というのは、美しくも酷な場所だと思う。画面を見ているようで、内容だけがこれほど際立つ鑑賞経験はほかにはない。だから、思い起こされる心の動きが生々しくあればあるほど、それを引き起こしたドッグという存在の行く末を案じてみたい。

そうでもしないと、画面に映るもの──そこにいる人や物事を確からしく受け止めることがいつかできなくなってしまうかもしれない。

私は心配なのだ。内容を得るためだけに表面を見ている私を見つけてしまったから。これがアニメーションでなくとも、そのように私の目は動きそうだから。


★1──例えば『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲』(2001)クライマックスにおける、螺旋階段を駆け上がるしんのすけの長回しでは、走りながらボロボロになるしんのすけの輪郭は徐々に荒れていき、(アニメーションに仮想される)身体の傷み以上の変化が加えられている。必死さが輪郭の粗さに託されている。本作では、絵のテクスチャーではなく、その線の集まりによって見えてくる演技に力が注がれている。
★2──便宜上、友情や友達と言うしかないが、friendという単語には友人だけでなく恋人の意も含まれている。本作における関係性は(広義の)親密さだ。
★3──本作で人間に該当するのは動物たちだが、それは絵柄の問題として割り切って鑑賞できる。ロボットがロボットであるのは、購入、組立によって生を得るという、明らかに動物(人間)とは異なる存在として描かれているからだ。
★4──オリジナルビデオアニメ『メガゾーン23』シリーズ(PART I:1985、PART II:1986、III:1989)では、主人公たちが暮らす1985年の東京が、実際は25世紀の巨大宇宙船内にあるという設定だ。人々は洗脳され、そこを1985年の東京だと思いこんでいる。物語というパッケージと、再現されたある時代/閉鎖空間である宇宙船という時間/空間のフレームの重なりは、物語をより強固に物語たらしめる。物語の登場人物が自分自身の生を疑ったり問いかけてくるメタ構造の作品でなくとも、鑑賞者である私たちは、あるパッケージを重ねることができるフレームを物語内につい求めてしまう。本作においては、1980年代のありし日のニューヨークが、私たちが作品から適度な距離をあけ、安心して感情を動かすためのフレームと言えるだろう。『メガゾーン23』の宇宙船を、フィクションを鑑賞する私たちの思考フレームの喩えとして見ることもできる。
★5──「フィクションをつくることは、取り返しをつけることだ」という言い方を、敬愛する複数の作家たちからそれぞれ聞いたことがある。取り返しのつかないことの連続する現実に対して、フィクションは取り返しにいくことができる。少なくとも、その判断を悩み直したり、悩み続けることができる。そのうえで、ロボットの選択は取り返しをつけないという決断として描かれる。一方で鑑賞者は、後から見ることしかできない。

鑑賞日:2024/11/18(月)