会期:2026/01/29~2026/02/01
会場:スパイラルガーデン[東京都]
公式サイト:https://ac2026.ryutaaoki.jp

「オルタナティヴ・コンピュテーションズ — 祝祭の計算文化」は「量子芸術祭Quantum Art Festival 4/4」の一環としてスパイラルガーデンで開催された特別展である。社会彫刻家・芸術監督の青木竜太による、新作のインスタレーションを含む3作品が展示された。

「量子芸術祭」は、科学とアートの対話を通じて、近年さかんに議論されている量子力学の応用可能性を広く検討しようとする試みであり、2022年の初回から最終回の今回まで、計4回開催されている。オンライン上でのウェビナーからオフライン会場での作品展示までさまざまなフォーマットを介してきた同芸術祭だが、その軸足は、量子コンピューティングを広く一般にひらく、という教育的側面に置かれているように見える。いわばアートを通じたサイエンスコミュニケーションだ。

この中で本特別展は、もう少し巨視的なレイヤーにおける人間と量子の関係性を探索しようとしている点で、特徴的な企画といえよう。すなわち、量子という非直感的な存在が日常に浸透する中で、私たちの感性や認識、ひいてはそれらによって編まれる社会的構築物としての文化がどのように変容しうるのかを実験しているわけだ。比喩的に言えば、本展は「量子を巡る文化」がとりうる無数の状態のうちの一部を取り出してみせる試みであり、それ自体が観測システムの提案と実行となっている。

会場風景[以下すべて、Photo by Kohei Yamamoto]

量子の存在が人々の生活の中で前景化するにつれて、私たちの認識自体が転換するとしたら。これは、ここ20年ほどのアート&デザイン領域の関心事項——社会・技術的な状況の激変が人間のかたちをいかに再編するのかについての模索——から連なる問いであろう。ここで着目しておきたいのは、こうしたアート&デザインの実践が内包する可能性と問題についての再検討が進んでいることだ。例えば、スペキュラティヴ・デザインの提唱者であるアンソニー・ダンとフィオナ・レイビーは、「未来」や「可能性」というワードが氾濫・陳腐化した現在において、ふたたび想像の持つ力を最大化するための方策を提起している★1 。すなわち、思索の対象を「ありうるもの」から「ありえないもの」へと広げることによって、未来へつながる絶対的な基点としての現在(=いま・ここ)から離脱しよう、というわけだ。そして、この「ありえないもの」を巡る旅路の中には、量子も登場する★2 。そこで注目されているのもまた、量子コンピューティングをはじめとした具体的なテクノロジーの発展いかんではなく、その結果として、古典物理学に依拠してきた私たちの常識が「量子的常識」へとシフトする可能性だ。

ここでもう少し、量子とアートを巡る関係性を概観しておこう。なぜならそれは、単にここ数年のハイプというだけではないからだ。例えば、日本のコンセプチュアル・アートの先駆的作家のひとりとして知られる松澤宥は、1988年に文字通りの「量子芸術」を提唱している。1964年に「オブジェを消せ」との啓示を受けてより、松澤は消滅や終焉を自身の創作の基軸として、非物質的な表現へと邁進していった。その過程において、感覚的なレイヤーを超えた存在を扱う量子力学の考え方を、東洋思想などと紐付けながらアートへ導入しようと試みたわけだ。あるいは、同時期にコンセプチュアル・アートを開拓した河原温の作品について、古典物理学的な空間や時間の概念からの離脱を指向していると解釈する向きもある★3 。

一方で、直近数年において、量子力学の知見がアートにもたらす影響を検討している代表的なアーティストとしては、久保田晃弘が挙げられるだろう。久保田は、実装がはじまりつつある量子コンピュータを実作に用いながら、量子の持つ特性が「作品と鑑賞」という形式そのものを変革させる可能性を指摘する。すなわち、量子をテーマにした既存のアートがあくまでも、観測によって古典物理学的に固定された情報を素材としていたのに対し、これからの量子芸術は、その時々の観測(≒鑑賞)行為そのものが作品と不可分に結びついたかたちで現われるべきだ、というわけだ★4 。

ではこうした実践をふまえた上で、青木とその作品はどのような射程において量子を扱おうとしているのだろうか。具体的に見ていこう。

《オルタナティヴ・コンピューテーションズ》

スパイラルガーデンの螺旋状の吹き抜け空間を満たすように葦の原が広がり、中央には四畳半の畳が敷かれている。その上部には黒く細長い直方体が複数個、円を描くように吊り下げられ、ゆらめいている。空間を包むのは幽かなアンビエントであり、それは雨音や大気のうねり、虫の声などを想起させながら天上へと消えていく。展示と同名のタイトルを冠した新作大型インスタレーション《オルタナティヴ・コンピューテーションズ》だ。その脇には、算額(問題の回答を絵馬にして神社に奉納するという、和算の文化的側面を象徴する慣習)に着想を得た《ファントム・リアリティーズ(幽玄的実在)》と、使用する集約ルール(計算手法)の違いによって、同じ投票結果から異なる民意が導出されるさまを可視化した《ニュー・ルソー・マシーン》が並んでいる。

《ファントム・リアリティーズ(幽玄的実在)》

《ニュー・ルソー・マシーン》

これら3作品によってつくられる本展では、文化的構築物としての計算行為を前景化させ、そこに生じる多様性とゆらぎを楽しむ視点を立ち上げることが試みられている。現代社会は西欧数学によって席巻されているわけだが、その物理的実装は古典コンピュータによってなされてきたのであり、量子コンピュータの登場はその唯一性を相対化する契機となりうる。そもそも量子コンピュータの特徴のひとつに、実在の量子そのものを用いるというアナログ性——デジタル情報としてのビットを取り扱う古典コンピュータとの決定的な差異——がある。これはすぐさま、記号操作による抽象化を徹底することで発展した西欧数学からの逸脱を想起させるだろう。こうした背景のもと、青木は量子コンピューティングを通じて、計算行為の文化的多様性に着目しようとしているわけだ★5 。

本展の中心的作品である《オルタナティヴ・コンピューテーションズ》に焦点を当てつつ、より詳しく見ていこう。空中に吊られた28本の直方体は、和算で用いられる計算道具である算木を象徴し、中国の天文概念である二十八宿に対応しているという。二十八宿は、約28日周期で天球を運行する月に1日ごとに星座を対応づけたものであり、本作では東アジア的なコスモロジーを代表している。その下に広がる葦の原は『古事記』で描かれる葦原中国=人間世界を彷彿させ、中心に並べられた四畳半の畳は、小宇宙としての茶室を立ち上げるための基本的な空間構成である。あるいは、四畳半とほぼ同一の広さを持つ方丈のことを思い出すならば、これは鴨長明が隠棲した草庵にも結びつくだろう。いずれにせよ、本作の中には、天・地・人それぞれのスケールにおける宇宙の解釈が入れ子状に存在しており、それらは各々のリズムにおいて生々流転を繰り返している。天体が空を巡り、葦が風にさざめき、人が畳を踏む。





《オルタナティヴ・コンピューテーションズ》

この複数の宇宙の間を往還するものが、振動=音であり、会場を包むアンビエントである。青木によればこれは、上方に設置されたカメラが捉えた人の動きを入力として量子リザバーコンピューティングによって生成されたものであるらしく★6 、まさに溜池リザバーに立つ水飛沫を想起させるような雨音が空間に響き渡っている。また、畳の上では定期的にパフォーマンス——舞踊家・苳英里香による舞と、茶人・松村宗亮による茶の湯——が執り行われており、それぞれの所作もまた、上部のカメラを介してリザバーへと入力され、空間のサウンドスケープや算木の挙動に影響を与えているという。現状の量子コンピューティングにおける課題のひとつが、正確な計算のためのノイズ対策であるが、量子リザバーコンピューティングではこのノイズ自体が、量子系のダイナミクスとして計算資源へ転換される。すなわちここでは、比較的近い未来において実装されるであろう「ノイズを排除した量子コンピュータ」を相対化するためのオルタナティヴとして、「ノイズと共生する量子コンピュータ」の原型が示されているわけだ。

ところで、本作が位置する葦の原を念頭に置くならば、雨音の発生源は溜池というよりも湿地を思わせる。葦には「アシ」と「ヨシ」の二通りの読み方があるが、これは「アシ」が「悪し」に通じることから「ヨシ=良し」と読み替えられたとされている。つまり、葦は「アシ」と「ヨシ」という2つの可能世界を重ね合わせた存在なのだ。後編では、そんな量子的湿原を巡る想像力の回路を広げ、そこに潜在する可能性を探索していこう。

(後編へ)※3/23公開予定

 

★1──アンソニー・ダン&フィオナ・レイビー『ここでもなく、いまでもない——スペキュラティヴな思考、不可能性、そしてデザインの想像力について』(株式会社ビー・エヌ・エヌ、2026)。ただし、個人的な本書の雑感として、ここで提起されているコンセプトの多くは、当時のスペキュラティヴ・デザインおよびその周辺領域に内在していたものであるように思われた(実際、紹介される作品の中にはスペキュラティヴ・デザイン黎明期のものも含まれている)。極端に言えば、「ここでもなく、いまでもない」想像力とは、スペキュラティヴ・デザインをはじめとした未来指向型のデザインが一般化し、ほんらい持っていた批評性の核が失われていった現状において、そのラディカルさをあらためて強調する目的で挿入されたものにすぎないのではないか、という疑念は残る。
★2──ここでは、文字通りのありえないものというよりは、私たちの直感的な世界把握から遠い存在という意味において、焦点が当てられている。
★3──山辺冷「河原温の量子重力的身体——あるいは時空の牢獄性と意識の壁抜けについて」(2009)および、成相肇『芸術のわるさ——コピー、パロディ、キッチュ、悪』(かたばみ書房、2023、292–293頁)参照。特に山辺は、人前に姿を現わさず、「日付絵画」シリーズの存在によってのみ、該当の日付の生存を知覚可能となった河原のありようを、量子的な存在に準えている。
★4──久保田晃弘「量子コンピュータアート序論」および、「量子芸術祭Quantum Art Festival 2/4」におけるウェビナー「量子コンピュータアートの、新たな表現の地平」を参照。
★5──無論ここでは、ユク・ホイが提唱する「宇宙技芸」における、技術とそれにもとづく世界把握の非唯一性——とりわけ、近代以降の計算機械の背景をなしてきたサイバネティクス思想の乗り越え——が強く意識されているだろう。
★6──量子リザバーコンピューティングは、量子系のダイナミクスを計算資源として用いる情報処理手法。従来から、リザバーコンピューティングにおけるリザバー層は光や流体などの物理現象によって代替可能であることが示されており、これを量子系へと敷衍したものである。リザバーコンピューティング自体の概要については、たとえば以下などを参照。https://www.aist.go.jp/aist_j/magazine/20251008.html

鑑賞日:2026/01/31(土)