はじめに──特権的なデザイナー神話の解体

デザインは、デザイナーのものだろうか?

この問いは数十年前なら新鮮だったかもしれないが、今ではやや時代遅れな感さえある。近年刊行されたいくつかのデザイン邦訳書を辿るだけでも、エツィオ・マンズィーニは「すべての人々がデザイン能力を持つ」というアイデアを『誰もがデザインする時代のデザイン』(2026)のなかで提唱したし、アルトゥーロ・エスコバルは、私たちのデザインがすべてを揺さぶり、それによって私たちがデザインし返される「存在論的デザイン」について論じていた。

こうした議論のなかでも特に『ポストヒューマニズムデザイン』(2025)の著者であるロン・ワッカリーは、「デザインはデザイナーのものである」という命題に対して正面から批判を展開した論者の一人である。彼はヒトとモノの相互依存関係を描き出すなかで、デザインとは本質的に分散型エージェンシーの絡みあいであり、すなわちそれはすべてのものたちと「ともにデザインする(designing-with)」ことなのだと主張した。「ともにデザインする」とはどういうことか。

ここではワッカリーが解体を試みたアクターの一人であるディーター・ラムスについて考えてみよう。言うまでもなくディーター・ラムスはバウハウスの理念を受け継ぐ代表的なデザイナーの一人である。ワッカリーによれば、ラムスはそこには本質的で普遍的な「よい」オブジェクトというものがあり、それを可能にする「よいデザインの原則」が存在すると考えている(当然その背景には、いわゆる「原則」を正しく適用できる天才的な人間デザイナーが存在するという前提が忍び込んでいる──もちろんここでの人間デザイナーとは、ラムスその人のことである)。この原則を徹底することにより、ラムスは「正しいデザイン」を遂行できるというわけである。この考えに、ワッカリーは問いを投げかける。

「ラムスは製図用鉛筆、製図台、熱可塑性プラスチック、プロトタイピングツール、プロトタイピング用の素材などと相互接続された、まさにヒト−モノだったのではないだろうか。ラムスを、彼を雇った製品企業であるブラウン社から切り離すことはできるのだろうか。ラムスは、材料科学研究、ブラウン製品のポートフォリオ、企業の方向性や戦略、デザインチームの社員、エンジニア、設備、スタジオ、建物、営業部隊、流通システム、サプライヤー、メーカー、そしてウルム造形大学といったパートナーたちの一部なのではないだろうか。」(ワッカリー、2025、229頁)

この問いかけを通じてワッカリーが指摘しているのは、仮にラムスが神がかった能力をもって正しいデザインを遂行しようとしたとしても、その遂行は実際には、製図台や、素材の持つ物理的制約、企業の経営上の戦略とのすりあわせ、スタジオやチームメンバーによる修正といった影響を免れることは不可能だという事実である。デザインは常にそこに共在するものたちとの「分かち持たれ」の結果であり、「原則のみに基づいたデザイン」は幻想にすぎないのだ。

このようにしてデザインがデザイナー(だけ)のものではないという事実が明らかになるとき、つぎのような問いが浮かんでくる。「デザインは具体的に何に影響を受け、どのように変質し、さらにはどのように社会に影響を与えているのだろう?」 この問いにこたえようとする領域のひとつが「デザイン文化(Design Culture)」である。本記事ではこの語を拠り所にして、デザインを捉えるひとつの視点を紹介してみたい。

モノをめぐる社会的実践の総体としての「デザイン文化」

図1:デザイン文化の三つの領域(ジュリエ、2000、4頁)

デザイン文化研究は2000年代にガイ・ジュリエが立ち上げた、デザインをモノ(あるいは空間やイメージ)そのものではなく、モノをめぐる社会的実践の総体として捉えようとする研究領域である。デザイン文化という語自体は必ずしも十分に普及しているとは言いがたいが、ここでは便宜的にこの用語を用いて、デザイン史やカルチュラル・スタディーズを発展的に引き継ぎ、人文学的・社会学的アプローチを広範に適用して「デザイン」を研究する一群を指し示すことにしたい。

ジュリエによれば、デザイン文化は生産(production)・デザイナー(designer)・消費(consumption)の三領域の交差点として記述されるという[図1] 。この三つの領域を簡単に見ておけば、生産とは、簡潔な意味でモノやイメージを産出する工程のことである。しかし、これは単なる製造行為に留まらず、素材・技術・製造システム、さらにはマーケティング・広告・流通チャネルまでが含まれる。デザイナーはこの生産プロセスの内部で視覚的・物質的な成果物の形と内容を形成する主体として位置づけられるが、それと同時に、専門的な言説・教育・歴史的文脈によっても規定される存在として捉えられる。消費は人口動態はもちろんのこと、なぜ特定のデザインに特別な意味が与えられるのか、消費という行為は能動的か受動的か、場所はどのように消費されるのかといった質的な問いを含む領域である。デザイン文化は、これら三つの領域(当然、これに限らない)が絶えず交差しあいながら「デザイン(モノ、イメージ、空間)」が生み出され続けているのだ、と主張しようとしている。生産の論理は消費の形を規定し、消費の欲望は生産を方向づけ、デザイナーはその媒介者として機能する。デザインは、こうした複雑な政治性が織り成す生態系の産物として姿を現わすのである。

「デザイン文化を研究する」とは、具体的にどういうことなのだろうか。デザイン文化研究を通じて、何が見えてくるのだろうか? これについて理解するために、エリーゼ・ホドソンの博士論文『動くデザイン──日用品とデザイン労働の国際的分業』(2019)★1 を見てみよう。彼女はアクターネットワーク理論を援用し、特定の商品を探索する「モノの民族誌(object ethnography)」に取り組んだ。その対象のひとつが、カナダの安全靴メーカー・Mellow Walkが製造する鉄芯入りブーツ「ヴァネッサ」である。このヴァネッサは、いかにして「デザイン」されているのだろうか?

図2:筆者がガイ・ジュリエから「デザイン文化」を学んだアールト大学の校舎。ファッション領域の学生たちが手を動かしている。

トロントの工場でヴァネッサのデザインを担っているのは、Mellow Walkのデザイン・ディレクターであるネルソン・シルヴァである。彼はデザインを考えるうえで、CEOらとともにミラノの展示会でグローバルな靴の潮流を視察し、既存の製品を参考に、現在のトレンドと「Mellow Walkらしさ」の両立点を探っていく。このとき製作される初期コンセプトは安全靴として、社内の安全基準にも適合しなければならない(ホドソンがここで、展示会や歴史的文脈、規制を重要なアクターのひとつとして挙げていることを付記しておきたい)。コンセプトが固まると、彼は製図板に向かい鉛筆でスケッチを起こす。シルヴァが描いたスケッチはCEOとともに三つの案に絞り込まれ、販売用モデルの製作段階へと引き渡される。

サンプルをラインに通して形にしてみると、ストラップに反りが生じることがわかった。縫製担当のテレサ・トーレスがカウボーイブーツの製作経験があり、革を2枚貼り合わせて厚みを倍にすることを提案する。こうして完成した販売用モデルをジェフ・ヴィオリのチームが展示会や地元のバイヤーのオフィスに持ちこみ、売れる/売れないの判断や、色、素材、ディティールについての意見を収集する。その結果ヴァネッサのモデルのひとつは、側面ジッパーのないミドル丈ブーツになり、耐久性のある黒革で作られることになった。型紙が完成すると、サンプルは裁断、フィッティング、フィニッシュワークへと引き継がれていく。裁断を担当するキャロル・パッダは、「すべては革から始まる。私から始まるんです」(前掲書、171頁)と言い、厚み、伸び、傷、柔らかさ、裁断しやすさ、傷がつきやすいかどうかなどの観点でシルヴァに対してフィードバックを与える……。

ここに記したのは、ホドソンが追跡したヴァネッサの「デザイン」プロセスの、ほんのわずかな一部分である。シルヴァは確かにヴァネッサのデザイナーである。しかしヴァネッサはまた、CEOによる判断、地元のバイヤーたちの感覚、パッダの皮革の知識、トーレスの経験、パターン作成ソフトのCaligolaといったすべてのアクターたちによってコ・デザインされ続けていた。ホドソンの研究は「ただ独りで立つ天才デザイナー」の神話を根本的に揺さぶり、独立したデザインのように見えるものが、いかに分散した実践の集積体として成立しているかを描き出す。デザイン文化はこうして生産・消費・デザインを往来しながら、そのデザインが成立する生態系を捉えようとするのだ。

パスポートをめぐる「デザインと政治」へ

ホドソンの博論はモノに関わるアクターをあぶり出し追跡することで、デザイン文化の可能性を切り開いている。しかし、政治的に見ればその議論はややナイーヴだということもできよう。ベトナムの工場の職人たちも靴をデザインしているのだと彼女がいくら主張したところで(この指摘は確かに正当なものだが)、そのシステム全体がもたらす利益は誰のものなのか、という問いは秘匿されたままだ。ジュリエが、デザインは政治性を具現化する行為であると論じたことを思い起こせば、デザイン文化はまた、この政治性という論点をも引き受けねばならない。

この「政治」と向き合ったデザイン研究者のひとりがマフムード・ケシャヴァルズである。彼は博論をもとにした鮮烈な著作『パスポートのデザイン政治──物質性、不動性、抵抗』(2018)★2 のなかで、パスポートを出発点として、このデザインと権力・移動・排除の関係を精緻に分析した。パスポートはそれだけを見れば単なる冊子に過ぎない。しかしその冊子は、誰がどの国境を越えられるか、どの空港でどの列に並ぶかを決定し、場合によっては生死をも左右する。このリアリティを捉えるために、ケシャヴァルズの議論から二つのエピソードを手繰り寄せてみよう。

ネマットは、小さいころアフガニスタンからイランへ逃れた移民の一人である。6歳まではイランでの在留許可が認められていたが、その後許可が更新されず、イランに不法滞在するしかなかった。その結果ネマットは12歳で働き始めることになり、強制送還の恐怖や、仕事や学校における搾取を受けながら生きた。彼は15歳で結局アフガニスタンに戻されることになったが、あまりの危険ゆえに、密入国業者の助けを借りながら、さらには銃撃を受けながらも、彼は再びイランに戻るしかなかった。ネマットは考えた。「まずパスポートを手に入れなければならない」。パスポートは単なる身分証明書ではない。ネマットにとってそれは、どこへ移動できるか、どこで生きられるかという可能性そのものを指し示している。

イランに生きるトランスジェンダー(トランス女性)であるマリアム・モルカラは、1987年という極めて早い段階で、性転換手術について宗教上の承認を得た。しかし医療機関、警察、登記所のいずれもが障壁となるなか、実際に彼女が手術を受けられたのは、2003年になってからのことだった。何より彼女を苦しめたのは、パスポートに記載された「男性」という表記である。タイで手術を受けるために飛行機に乗ることになった彼女だが、出国のために(20年ぶりに)男性の服を着なければならなかったのである。彼女は言う。「女性のように見え、女性の体と顔つきなのに、スーツを着てサムソナイトのハンドバッグを持った男がいる。このことは、空港で多くの人々を困惑させることになりました。それはあまりに辛く、あまりに屈辱的な瞬間でした。」(モルカラ、2006)

図3:日本国のパスポートは「移動の自由」という政治を行使する。

こうしたエピソードからわかるのは、パスポートは単にデザインされた物質であるだけでなく、移動や居住の特定の条件自体をデザインし、さらには名前や性別に対してどんな身体が「正常」なのかといった自己/他者の認識をも運んでいるという事実である。しかし、ここまでのエピソードはパスポートが行使する政治という一側面を論じたものでしかない。デザインと政治をさらに精緻に捉えるには、移動性の支配に対する「闘争」にも目を向けなければならない──つまり、「偽造パスポート」の存在である。ケシャヴァルズは移民ブローカーとして偽造パスポートを提供してきたアミール・ヘイダリへもアクセスし、その闘争を描き出す。アミールの言葉から見えてくるのは、「偽造」という言葉のあまりの不安定さである。

この世界は、偽造された現実だ。……スウェーデンは「スウェーデン」という名の国家を定義するために、900万通のパスポートを発行する。だとすれば、戦争や紛争、暴力から逃げようとする緊急の支援と移動が必要な人々に対して私が10万通のパスポートを発行することの、何が問題だというのだろうか? 一体どんな道徳的立場に基づけば、私だけが犯罪を犯した偽造者であり、国は違うと言えるのだろうか? 偽造とはなにか。偽造とは、無から有を生み出す行為である。それは不自然なものを存在させ、それを自然なものとして提示することだ──国家のように、国家が作り出した国境のように。国家も国境も偽造だ。作り出されたものだ。それは不自然なものだが、私たちはそれを自然だと感じたり、自然なものだと信じこまされていたりする。国境を作ることもまた、偽造の一形態だ。さあ、教えてくれ。誰が「偽造者」なのか? 国家か、それとも私か?(ケシャヴァルズ、2016、193頁)

偽造パスポートは違法である。しかし同時にそれは、正規のルートで移動の自由を手に入れられない人々がシステムの論理を逆用する「物質的抵抗(dissent)」でもあるのだ。パスポートはモノであり、パスポートは移動を支配する。しかしまた、パスポートの支配は(違法ながら)異議と闘争にひらかれてもいる。ケシャヴァルズが描き出すパスポートは、政治性を埋めこまれ、政治を行使しながら、そしてまた同時にその支配と抵抗、闘争のうちで揺らぎ、変質し続けている。

デザインはそれ単体で存在してなどいない。デザインとは、それを取りまくすべてのものたちのうちで継続的に影響されあい、変質し続ける存在論的な生成の過程そのものである。ケシャヴァルズはその過程を詳らかにすることを通じて、闘争のアクティビズムの可能性をも指し示そうとしている。

おわりに

デザイン文化が包摂する領域は広く、豊かである。ここには紹介しきれなかったものの、デザイン文化研究には他にも女性用セックストイに埋め込まれた規範と、そこにデザインが持ち込まれることで起きた変化を捉えた研究や(グローバー、2019)、イギリスにおける羽毛布団がいかに「新しい時代」を代表してきたのかを語った論文(ハイモア、2019)、さらには森永のミルクキャラメルが「菓子を携帯する」という文化自体を創出してきたことを論じた博論(片倉、2024)などがある。その議論はいずれもその存在論的な絡みあいに身を投げ込み、既存のデザインの理解、世界の理解を押し広げてくれている。

この記事では、デザイン文化という語をきっかけに、絡みあうデザインの生態系を捉えるひとつの視点を示してきた。デザイン文化はいまだ曖昧な領域であり、現代のデザイン史やデザイン・スタディーズ、あるいはカルチュラル・スタディーズやメディア・スタディーズとどう違うのか、あるいはアクターネットワーク理論や科学技術社会論の議論に何を付け加えたのかという批判は容易い。それでも本記事で紹介したいくつかの研究は、デザインを論じていくための重要な方向性を指し示していることは間違いない。その広がりの一端を伝えることができていれば本望である。

★1──博士論文の邦題は筆者による試訳。原題は下記参考文献参照。
★2──★1と同様試訳。

参考文献
・アルトゥーロ・エスコバル『多元世界に向けたデザイン:ラディカルな相互依存性、自治と自律、そして複数の世界をつくること』(増井エドワード・緒方胤浩・奥田宥聡・小野里琢久・ハフマン恵真・林佑樹・宮本瑞基訳、水野大二郎・水内智英・森田敦郎・神崎隼人監修、BNN、2024)
・Glover, J., “Design culture in the sex toy industry: A new phenomenon”, G. Julier et al. eds. Design culture: Objects and approaches(Bloomsbury、2019、115–130頁)
・Highmore, B., “Taste and attunement: Design culture as world making”, G. Julier et al. eds. Design culture: Objects and approaches(Bloomsbury、2019、28–38頁)
・Hodson, E., Design in motion: The everyday object and the global division of design labour(博士論文、York University、2019)
・Julier, G., The culture of design(SAGE、2000)
・片倉葵『国産キャラメルの普及をめぐる紙小箱のデザイン文化研究』(博士論文、東京都立大学、2024)
・Keshavarz, M., Design-politics: An inquiry into passports, camps and borders(博士論文、Malmö University、2016)
・Keshavarz, M., The design politics of the passport: Materiality, immobility, and dissent(Bloomsbury、2018)
・エツィオ・マンズィーニ『誰もがデザインする時代のデザイン:日々の営みからソーシャルイノベーションを生み出すための思想と実践』(中山郁英・石塚理華・岡本晋・森一貴訳、八重樫文・中山郁英監修、BNN、2026)
・Molkara, M. K. “Tagheer-e-Jensiat Dar Iran”(インタビュー、BBC Persian、2006年5月19日、URL=https://www.bbc.com/persian/arts/story/2006/05/060519_7thday_bs_transexual
・ロン・ワッカリー『ポストヒューマニズムデザイン──私たちはデザインしているのか?』(森一貴・水上優・比嘉夏子訳、上平崇仁解説、明石書店、2025)