会期:2025/12/20~2026/03/08
会場:京都国立近代美術館[京都府]
公式サイト:https://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionarchive/2025/465.html

1990年代から現在まで、20名の国内作家を紹介するグループ展。風間サチコ、笠原恵実子、志村信裕、田中功起、高嶺格、原田裕規、AKI INOMATA、手塚愛子の各作品について筆者は、「2000年代以降の日本の現代美術における歴史批評の実践」というテーマの下、下道基行、小泉明郎、藤井光、ホー・ツーニェンも加えながら、ポストコロニアルな視座を交えてカタログに寄稿している。

一方、本稿では、実際の展示構成から受けたインスピレーションを元に、まったく異なる視座から本展を切り取り、別の問題系を考察してみたい。本展の展示構成の特徴は、「展覧会での鑑賞者の作品体験が、あたかも航海上の潮流やうねり、未知の島との遭遇などを記録した『海図』のような物語として描き出されることを試みます」とチラシで述べられているように、(一部を除き)個々の作家の領域を独立したブースで区切るのではなく、作品どうしの空間的共存がシークエンスを形成する点にある。企画は京都国立近代美術館主任研究員の牧口千夏が、会場デザインは建築家の西澤徹夫が担当した。

本稿では、特に、展示前半の視覚的なハイライトと言える、小谷元彦の《Phantom-Limb》と石原友明の《世界。》が配された展示室への着目から出発する。小谷の《Phantom-Limb》は、白いワンピースを着たロングヘアの少女が、キリストの磔刑像を思わせるポーズで、重力から解放されたかのように白い空間に横たわる、5点組の写真作品である。まどろむような表情とは裏腹に、少女の腕の先は真っ赤に染まり、一見、手首が切り落とされたかのような衝撃を与える。近づくと、鮮血に見えたものは、掌で握り潰したベリーであることがわかる。タイトルの「ファントム・リム(幻影肢)」とは、事故や病気で失った手足が実在するかのように感じたり、無いはずの手足の痛みを感じる現象を指す。


手前:石原友明《世界。》(1996) 奥:小谷元彦《Phantom-Limb》(1997) [撮影:大町晃平(W)]

石原の《世界。》は、床に正方形に敷き詰められた真鍮板を、まばゆいシャンデリアが照らし出すインスタレーションである。真鍮板の表面には点字で短文が刻印され、鑑賞者は靴を脱いでその上を歩くことで、足裏で点字の凹凸を感じることができる。だが、点字を読めない者はその意味を解読できず、シャンデリアのまばゆい光の下、「見る者」が「見られる対象」に反転される。

磨き上げられた真鍮板は、シャンデリアの光を反射し、「見られる対象」となった鑑賞者の身体を映し出す鏡面となり、本展においては、小谷の《Phantom-Limb》もまさに幻影として加わる。視覚的なスペクタクルという以上に、ここには、奇妙にねじれた呼応関係がある。「ファントム・リム(幻影肢)」では、「対象に触れて感じるための手足」が存在しないのに、感覚だけがある。一方、石原の《世界。》では、点字に触れるための手足はあっても、情報として読み取ることができない。二重化された欠落と不在。


小谷元彦《Phantom-Limb》(1997)[撮影:大町晃平(W)]

石原の《世界。》は、絶対的な視覚の優位性に基づく「美術」という制度のルール(=セカイノコトワリ)を、何かを見るために必要不可欠な「光」と「鏡」というメディアを用いて強調しつつ、逆説的に機能不全にさせる。一方、本展では、鑑賞者が(真鍮板の上に乗って《世界。》の作品空間に入り込むのではなく)その外側から眺めたとき、鏡面に映り込む「見られる対象」が、なぜ、なおも「美少女の身体」であるのかが問われねばならない。視線の主客とジェンダーの非対称性をめぐるこの問いは、《世界。》以外にも点字を用いた作品と同時期の90年代に発表された石原のテキスト作品とも関わってくる。以下では、本展出品作ではないが、「海図」から外れた島への漂着として、石原の小説『美術館で、盲人と、透明人間とが、出会ったと、せよ。』を検討する★1


石原友明《世界。》(部分、1996)[撮影:大町晃平(W)]

石原の小説は、デュシャンを参照したタイトルが示すように、「盲目の老人」と「身体が透きとおってしまった女」が美術館で出会うという、寓話性の強いテキストである。透明人間になった女の身体は、視覚に頼らない盲人だからこそ、わずかな息遣いや気配によって感知されてしまう。そして盲人は、展示された絵の解説をしてくれるよう、透明人間の女に頼む。盲目の老人は透明人間の女の見えない腕を取り、二人は絵について会話しながら美術館の中を歩く。小説は、閉館を迎えた夕方、「美術館の扉は閉じられて、恋愛が始まる」という結びで終わる。

「見る主体」としての男性が「盲人」になり、「見られる対象」としての女性が「透明人間」になる(もはや裸の肉体を覆う必要がないので透明人間は服を着ていないという設定は、「見られる対象」である女性像の多くがヌードであることを示唆する皮肉として読める。加えて、「純粋な視線」となって美術館を歩き回ることは、肉体を忘却してただ「眼」だけの存在になった鑑賞者のメタファーでもある)。石原の小説は、「美術」の制度を支える視覚の優位性がジェンダーの不均衡な構造と不可分であることを踏まえつつ、反転させたネガとして差し出しているように見える。ただし、老人が盲目であるからこそ透明人間を感知できたように、女性の透明化した身体は、「見えない視線」になおも捕獲されてしまう。そして、視線の主客とジェンダーの非対称性を転倒させた二人の出会いが、視覚の絶対的優位性に支配された美術館の外の世界へ抜け出ても、「(たとえ歳がどれだけ離れていようとも)男女の出会いは、恋愛に帰結しなければならない」という異性愛規範という別の法によって支配され続ける。 では、女性の身体は、視線の対象として見られる客体となるジェンダー構造や異性愛規範から、どこまでも逃れられないのだろうか? この問いに対して、逆説や皮肉をもって応答するものとして、後編では、笠原恵実子と松井智惠の出品作を取り上げる。

★1──『美術館で、盲人と、透明人間とが、出会ったと、せよ。』は、加筆を重ねて複数のバージョンが発表されている。初出は1993年だが、本稿では、「石原友明展:美術館へのパッサージュ」(栃木県立美術館、1998)の図録に収録されたテキストを対象とする。

(後編へ)※4/9公開予定

鑑賞日:2026/03/06(金)