
会期:2026/01/31~2026/03/01
会場:長野県伊那文化会館[長野県]
長野県・諏訪を中心に展開した、1970年前後の美術の動向に注目した展覧会「かみ派の美術―諏訪につどった前衛たち 1969−1974」が長野県伊那文化会館で開催された。本展はこれまで松澤宥を軸に語られてきた長野県での野外イベントや展覧会を、個々の作家や彼らが用いた「紙」に注目して再読する資料展である。

「かみ派の美術―諏訪につどった前衛たち 1969−1974」冒頭に掲げられた表[筆者撮影]
会場にはまず1969年から1974年にかけて開催された11の展覧会と、それに関わった23名の作家の名前が並ぶ表がある。それらの展覧会の紹介から始まり、参加作家や出品物の関連資料が一室に広がっている。登場する紙は、展覧会の企画書や作品の説明書、指示書、手紙、ポスター、DM、ミニコミ、レポートなどである。
「かみ派の美術―諏訪につどった前衛たち 1969−1974」会場風景[筆者撮影]
1964年3月、前衛美術の集合地だった「読売アンデパンダン」展が中止された理由のひとつに、運営者が想定しない「物」の横溢があった。ネオ・ダダや反芸術と標榜されるようになる若い作家は生活用品も作品の素材として扱い、赤瀬川原平は自動車のゴムチューブ、吉村益信はウイスキービン、工藤哲巳はタワシをモチーフにしたほか、食品や刃物といった物の持ち込みが衛生問題や事故を危惧させる事態に発展していった。
本展の主要人物である松澤宥は1953年の第5回頃から「読売アンデパンダン」展に参加し、1963年には「プサイ函」として観念の停留所とも捉えられる入れ物を出品している。松澤は同展の中止を知った数カ月後、1964年6月に「観念美術宣言」を発し、12月には長野県で「荒野におけるアンデパンダン64」を開催する。その告知文には「物質を信ずるなかれ 感覚を信ずるなかれ 眼を信ずるなかれ」の文言と、出品方法として「あなたの出品物は手元に置いて それから発する無形のもの(虚の作品)を会場まで届けて下さい」と記し、物との決別を広く提唱していった。
70年に向かうにつれて美術の潮流は「物」から「もの」へと移行し、対象との関係や空間表現が志向されながらも五行思想的な自然物、石、粘土、紙、綿といった物質性への関心が高まっていく。長野ではそうした自然物が実際にある野外をイベントの場に選んだり、東京や京都などから作家や批評家を招いたりしながら、松澤を中心とする「ニルヴァーナ・コミューン」が展開されていく。そこでは手紙を含め、観念の滞留場所としての紙の活用が行なわれていった。
「かみ派の美術―諏訪につどった前衛たち 1969−1974」展示作品[筆者撮影]
実際に展覧されている紙を見ていくと、個人的な表現を抑制するようなデザインの魅力が際立っている。とくに松澤が愛用した曼荼羅の九区画構造を用いたものや、規則的なグリッドに明朝体の文字を配するレイアウトなどの精緻な表現に惹かれる。それらのいくつかは、のちに装丁家とデザイナーになる芦沢泰偉と田中孝道が手がけている。
また一方で紙が言葉や情報の置き場に留まらず、九区画に写真を配置した作品や、パスポートや製薬袋の様式を持つものなど、それ自体が物質的な魅力を有する紙も見られる。

「かみ派の美術―諏訪につどった前衛たち 1969−1974」より、斎藤俊徳《*ZAZEN-MANDARA(2)* January, 1971.》[筆者撮影]
「かみ派の美術―諏訪につどった前衛たち 1969−1974」より、春原敏之《世界最終◯◯◯◯パスポート》[筆者撮影
美術イベントとしての「ニルヴァーナ・コミューン」の活動は70年代に徐々に落ち着いていくが、コミューン自体が非物質的な表現形態でもあり、音を扱ったイベント「音会」の演奏やパフォーマンスなど、かたちのない美術表現の魅力がおよそ50年を経た今でも個々の紙を通して伝わってくる。また出品作家の多くが教師などを生業にしながら現代美術、しかも観念美術に取り組んでいたこと、とくに春原敏之は農民美術に携わるなど★1、生活と前衛美術が無理なく調和していた生き方に励まされる気持ちになる。
本展には古沢宅のパフォーマンス記録などの映像も出品されていた。個々の作家の取り組みは書籍『かみ派の美術 諏訪につどった前衛たち1969–1974』(水声社、2026)においても見ることができる。
鑑賞日:2026/03/01(日)
★1──春原敏之は木工品の職人としても知られている。https://story.nakagawa-masashichi.jp/83343(中川政七商店の読みもの)