会期:2024/02/17~2024/02/18
会場:京都芸術センター[京都府]
公式サイト:https://choreographers.jcdn.org/program/endanfes2023

NPO法人ジャパン・コンテンポラリーダンス・ネットワーク(JCDN)による、2日間のダンスフェスティバル。若手振付家のショーケース計11作品に加え、きたまり、砂連尾理+寺田みさこによる2000年代の関西ダンスシーンの代表作2作品が、若手ダンサーに振付ける「リバイバル・リクリエーション」として上演された。また、同じく2000年代の山下残の傑作短編『横浜滞在』もゲスト企画として再演された。若手振付家・ダンサーに対しての、「リバイバル・リクリエーション」という形における支援・育成であると同時に、「ダンスのアーカイブと再演」について問いかける意義ある企画だった。

私は2日目のプログラムを鑑賞。若手ショーケースで目を引いたのが、高橋綾子/Ayalis In Motionのデュオ作品『Political Spaghetti』(2023年初演)だ。一瞬、全裸と見紛うヌーディーな下着だけを身に付けた2人のダンサーが、「唇どうしの接触」だけを保ったまま、体勢を入れ替えて動き続ける。「身体のどこかの部位をつねに接触させて動く」→「特定の部位の接触に縛る」とコンタクト・インプロヴィゼーションのハードルを上げていく試みのなかでも、「唇」は繊細な触覚器官で、非常にパーソナルかつセンシティブな部位だ。コンタクトの負荷を最大限にかけつつ、どこまで動きの自由度と密度を構築できるか。全裸のように見える衣装だが、エロティックな官能性はなく、「唇」という接触ポイントを起点に、動きが全身へ波及していくダイナミズムや、ダンサーどうしの動きの主導権の複雑な交替が見えてくる。後半では、唇から細く赤い糸が伸び、「唇にくわえた糸」が可視化する距離を保ったまま、モノに媒介された非接触のコンタクトが展開していく。照明、スモークの操作、楽曲など緻密な構築とともに、息を潜めて見つめ続けるしかない緊張感が凝縮されていた。


高橋綾子/Ayalis In Motion『Political Spaghetti』[撮影:草本利枝]


高橋綾子/Ayalis In Motion『Political Spaghetti』[撮影:草本利枝]

一方、「リバイバル・リクリエーション」では、きたまりが21歳のときに初演し、その後2年間かけて再創作して自身のカンパニーKIKIKIKIKIKIのレパートリーにした『サカリバ』(2004年初演)に注目したい。舞台上には、「生と性」を象徴するベッドが一台。前半、「無垢」「純粋」「少女性」を象徴する柔らかな白い衣装を着た4人の女性ダンサーが、眠りから覚め、無邪気に飛び回り、「性の目覚め」に至る。サカリのついた猫のように、ベッドの上でうめき声を上げた少女たちは、後半、赤や青、緑の毒々しげな色のボディコンシャスなドレスへ着替え、「女」に変貌する。入れ子状の「舞台上の舞台」でもあり、女たちが奪い合うベッドは、激しく腰を振り続けるセックス、孤独な出産のうめき、食卓を拭く「妻の家庭内の領域」であり、終盤では色とりどりの花で満たされ、生(性)の祝祭/死や葬送という両義性に満ちた場となる。「男性の不在」により、男性の性的幻想を排した「女性自身によるセクシュアリティの表出」であると同時に、ポップで力強い振付は踊り手の個性を際立たせる。


きたまり『サカリバ』[撮影:草本利枝]


きたまり『サカリバ』[撮影:草本利枝]

砂連尾理+寺田みさこのユニットは2007年に活動停止し、きたまりが2003年に結成したKIKIKIKIKIKIも2018年以降、固定メンバーのカンパニー制を廃止している。そのため、今回リバイバル・リクリエーションされた2作品は、ユニットやカンパニーのレパートリーとしての再演は困難だ。「ダンスのアーカイブ」には、古典的な記譜法や映像記録、3Dモーションデータに加え、「再演」「リエンアクトメント」もひとつの方法である。もちろんそこには、「オリジナル上演」との時間的・身体的ズレが発生する。だがそのズレが作品の本質を別角度から照射する事態にこそ、「再演」「リエンアクトメント」の有効性が賭けられているのではないか。

『サカリバ』の場合、「男性から一方的に押し付けられた性規範」に対する逸脱や抵抗と同時に、「KIKIKIKIKIKI」というカンパニーが「ダンサーの理想的身体という規範」に対して持っていた批評性を改めて意識する機会となった。きたまり/KIKIKIKIKIKIにはその名も 『ちっさいのん、おっきいのん、ふっといのん』(2011)という作品があるが、きたまり自身を含むカンパニーメンバーが、「背が高くスレンダー」「体型・身長が揃っている」といった「ダンサーの理想的身体」の規範から外れたダンサーで構成されていた。一方、今回の上演では、若手ダンサーたちの身体が「揃って」感じられたことは、改めてKIKIKIKIKIKIというカンパニーの特異性や批評性を浮かび上がらせた。だが同時に、「女性の性」は「若さ」という消費期限付きなのかという問いも浮かんだ(この問いに対する応答は、きたまりが近年取り組む太田省吾の戯曲シリーズのうち、『老花夜想(ノクターン)』(2021)での「年老いた娼婦」というモチーフに引き継がれているだろう)。

一方、「ダンス」を熱気とユーモアとともに徹底的に解体するメタダンス作品として圧巻だったのが、山下残『横浜滞在』(2002年初演)だ。横浜のウィークリーマンションに籠もりながら、「ダンス作品がつくれない」というスランプや葛藤自体を、「日記に書かれた言葉のリテラルな身体化」という手法で「ダンス作品」にしてしまう。舞台奥中央には、キャップを目深に被った山下がマイクを握り、ラッパーのように高速かつリズミカルに言葉を繰り出す。起き上がる、歩く、振り向くといった日常的な動作。道端で目撃した交通事故や街中の情景描写。「考え抜いて作為のない作品をつくれるのか」というダンスへの抽象的な自問。そうした言葉の奔流を背に、ダンサーの後藤禎稀が途切れることなく激しく動き続ける。「脚や腕を何度の角度で上げる」といった動作の即物的な言語化と、「木綿豆腐と絹ごし豆腐の柔らかさの違いを身体的に表現する」といったナンセンスなタスクとのギャップが笑いを誘う。振り向きざまのキメ顔に「ビスケットをあげようか」という台詞が発射され、爆笑の渦が巻き起こる。


山下残『横浜滞在』[撮影:草本利枝]


山下残『横浜滞在』[撮影:草本利枝]

山下は、あらゆる動作を「言語化と編集」によって「ダンス化」可能にしてしまう。あるいは、山下が舞台上で行なっているのは、「動きをリテラルに言語へ置換し、ダンサーに伝達する」という「振付」作業そのものである。高速で繰り出される言葉が、ダンサーをまさにあやつり人形のように自在に動かすことで、「振付家」という(通常は不可視化された)権力構造をメタ的に舞台に上げて見せる。あるいは、超絶ラッパーと化した山下自身の腕や身体が動くさまも「ダンス」といえるのか? 山下もまた、言葉のグルーヴにのって「ダンス」しているのか? これは「ソロダンス」なのか、「デュオ」なのか? 「ダンス」をめぐる何重もの構造的な問いを、(「ダンス作品」では珍しい)「爆笑のユーモア」とともに問う作品だった。

鑑賞日:2024/02/18(日)