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nobuhikohaijima@ficition? +α
梅津 元[埼玉県立近代美術館]
 
札幌/吉崎元章
埼玉/梅津 元
神戸/木ノ下智恵子
福岡/川浪千鶴
 
 
東京都現代美術館のアニュアル展として開催された「フィクション?」を見た。クールな展覧会だった。良くも悪くも。この展覧会に対しては、すでに様々な意見が出ている。批判的な意見は、主に絵画展という枠組みの設定や出品作家の選定に対する疑問がベースにあるようだ。評価する声は、知名度やキャリアに頼らない作家選定を潔しとしているようだ。率直な印象として、画廊を回っているような気分にもなる展覧会だったのは確かなのだが、この点をどう評価するかで意見がわかれるのだろう。美術館で開催する展覧会の出品作家として妥当かという疑念が内部にも外部にもあることは想像に難くない。しかし、画廊で見るなら評価できて、美術館に展示される作品としては認めがたいという判断は果たして成り立つのだろうか?
 筆者の感覚では、こうした美術館の判断は、かつての権威主義的な「質」の判断にもとづくものではなくなっており、集客という「量的」な判断へと変質してきているように思われる(もちろん、そもそも美術史的な価値判断にしても相対的なものでしかなく、絶対的な質の提示など不可能なのであるが)。そうした相対的な状況においては、この展覧会における出品作家の選定は(各作家の作品の質はまた別として)、基本的に歓迎されるべきものと言ってよいだろう。だからといって出品作家がすべて認められるかといえばそうではない。ある意味で、批判的な考察の対象になるべく作家や作品が選定されているとも言えるのであり、作家にとってはあらゆるチャンスがそうであるように、厳しい試練でもあるはずなのだ。
 つまり、こうした作家選定がなされたからこそ、それらの作家や作品について論じる機会が得られたわけだし、評価の定まっていない若手作家を中心に紹介しているのだから、批判を含めて展覧会をめぐる様々な議論が発生することも、このような枠組みの展覧会の重要な開催意義のひとつであるはずだ。ならば、ここではこれ以上不毛な状況論や制度論に拘泥することなく、あくまでも展示された作品について具体的に論じるべきだろう。そもそも出品作家のすべてに積極的な興味など沸くはずもないのだから、一人でも興味をひく作家がいれば、いや一点でも興味をひく作品があったならば、そこから議論を始めればよいのではないか、と思う次第である。

*  

 筆者にとって、本展を見て最も印象に残った作品は、はい作字島伸彦の《something big》であった。はい作字島の典型的な作品は平面的と記述されることが多い。確かにはい作字島の作品はフラットな色面に特徴があり、これを平面的と見なすのは自然なことに違いない。ところが、この作品から、およそ平面的とは言い難い不思議な空間把握がもたらされたのである。それはいわゆる遠近法的な奥行きの把握ではなし、オールオーヴァーな抽象絵画に対して指摘される「浅い奥行き」とも異なる感覚であった。それは、モチーフ(この場合は二羽の小鳥)の形態と相互の位置関係−例えば方向性や距離感など−、さらには図と地の色彩の対比の効果によってもたらされたと推測される。画面のサイズも無視できないが、より重要なのは画面のサイズとモチーフのバランスである。
 ところでこの展覧会にははい作字島の作品が8点出品されていたのだが、《something big》から受ける感覚は他の作品とは異なっていた。そこで、《something big》をはい作字島の出品作品8点の中でもう一度とらえなおしてみたい。島の作品はステンシルの技法で制作されているが、図と地の関係に着目するならば、今回の出品作品は以下の3つのタイプに分類できる。
(1)図が塗られ、地は塗られていないもの→《frost》
(2)図は塗られず、地が塗られているもの→《exit》、《nightmare》
(3)図と地にそれぞれ違う色の絵具が塗られているもの→《somethig big》、《roof》、《ground》《polestar》、《time landscape》
 まず明瞭に感じられたのは、(1)や(2)に比較して、(3)のタイプが最も成功しているということである。(1)や(2)では、図と地のどちらかは絵具が塗られず、キャンバスの地が見えている。そのため、図と地が反転するような効果は得られても、視覚的な効果はさほど高くはなく、色彩よりも形態(と配置)が重要である。言い方を変えれば、良くも悪くも図式的なのである。おそらく、キャンバス地が露出しているエリアが物理的な平面として認識されるためだろう。これに対して、(3)のタイプでは、図と地がそれぞれ別の色で塗られているため、視覚性がより強調されている。そのため、塗り自体が平面的であっても、図と地の色彩が対比される効果により空間的な広がりが知覚されるようになるのである。
 ここでは《something big》との比較のために、《ground》を取り上げてみよう。この作品では、ベージュ系の地にクリーム系の色で動物(犬?)の姿が描かれている。動物は右上から中央にかけて描かれているが、全体が画面におさまっているわけではなく、上辺と右辺で切られているため、抽象的な図像としても見えてくる。図と地はそれぞれ一定の面積を有しているため、図と地が反転するような効果は感じられるものの、空間そのものは基本的には平板であり、《something big》のようなとらえがたい空間は発生していない。また、色彩も比較的近い色が選ばれているため、デリケートな気配が漂う反面、《something big》のような色彩の対比による空間の発生もさほど感じられない。
 このように若干の考察を加えるだけで、《something big》が特別に筆者の興味をひいた理由を、わずかではあるが明らかにすることができた。こうして興味を惹かれた作品について思いをめぐらせることから、「フィクション?」展の全体を視野におさめることが、いずれ可能になるだろうと思う。その作業は、ゆっくりとしか進んでいかないため、ここでこれ以上の論を展開することはできないが、機会があれば本展について改めて考えてみたい。  

「フィクション?」展会場風景 「フィクション?」展会場風景
島伸彦作品:左から《exit》、《time landscape》、《polestar》、《Something big》
すべてアクリル、顔料、カンバス、2001年 
写真撮影:長塚秀人 
写真提供:東京都現代美術館

 この時代に誰もが共有しうる価値基準など存在しないことぐらいはわかっているつもりだ。しかし、異なる価値観の共存や価値の多様化が叫ばれる状況において、時代はむしろ批判精神を欠き、多様化とは裏腹の趣味の画一化が進行しているように思えてならない。そんな状況にあっては、様々な批判があるにせよ、一方では企画者のテイストが強く押し出された個人主義的な展覧会のようでありながら、他方では誰の趣味とも特定できない時代の気分が漂うような展覧会でもあったという意味で、「フィクション?」は貴重な企画であった。同じ作家の選定に対して批判する声があれば評価する声もあるのは当然である。むしろ、そうした判断の根拠が結局のところ、展示された作品に対する評価に立脚しているという事実を改めて思い起こすべきだろう。繰り返しになるが、不毛な制度論や状況論に無駄な時間を費やすのはやめて、作品について論じるべきではないかと思う。

 +α  

 高柳恵里の個展を見た(モリス・ギャラリー/4月1日-13日)。そういえば高柳はMOTアニュアルの第1回展の出品作家でもある。新たに発表された作品は、相変わらず他の追随を許さない境地を独走している。呆気にとられるような素っ気無さ。突拍子もない発想。しかし、そうした作品にしても奇を衒った感じが全くなく、さも当たり前のようにただそこにある。そして、驚嘆しつつもすぐにそれを当たり前のこととして受け入れてしまっている自分に再び驚愕してしまう。感覚的な言い方ではあるが、いつのまにか脳内のチューニングが勝手に変えられてしまい、しかも展覧会場を出たあとでもチューニングがもとに戻らない、そんな感じなのである。ということはつまり、どんなにひそやかな外見をしていても、高柳の作品には存在感や強さがともなっているというべきか。書きたいから書き始めたのだが、あの奇妙な作品たちを思い起こしても、戸惑いが増えるばかりで、作品についての記述をする気が起きない。作品について論じるべき、と書いたばかりなのだが、今回はご了解願いたい。

[うめづ げん]

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