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「佐藤尉隆展 −洞窟としての耳のために−」展
毛利義嗣[高松市歴史資料館] |
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いろんな人の耳を接写した写真、です。コンセプトについては佐藤さん(旧・中野渡尉隆)本人の文章がこちら<http://www5a.biglobe.ne.jp/~Arte2000/sub6.htm>にあるので、どうぞ。で、これだけだとちょっと想像しにくいと思うのでレポートしてみましょう。 まっ黒な背景に、実物よりはるかに大きい(縦50センチほど)モノクロの耳だけが浮かび上がってます。20点ほどの作品はそれぞれ別のモデルによるもの。普段はあまり他人の耳をしげしげと眺める機会もないわけですから、こうしてみるとまあ奇妙なモノたちであるなあ、という感じでしょうか。 現代美術な人なら、三木富雄のこういう彫刻<http://kas.gaden.com/kojima/2002/020701.htm>を連想するかもしれませんね。といっても似てるのは外見だけで、モチーフが耳(しかもなぜか左耳)だということ以外にあまり共通性はなさそうです。三木さんの「耳」というのは何より、同質なモノの際限ない繰り返しでした。だからそれぞれの耳が別個のものである必要はなかった。耳のモデル、いたかもしれませんが、これも別にいなくてもよかった。観念的な「耳」というイメージを実体化してこの世界を満たすこと、耳による人類(と三木さん本人)補完計画、といったような作業だったでしょうね、たぶん。もしかしたら観客さえいらなかったかもしれない。 佐藤さんの場合、観客もモデルも必須です。作品とは、制作者のイメージを見る人に発信するテレビモニターではない、というわけです。むしろ世界の中にわずかに開けられた裂け目ようなもので、それだけでは意味をなさない。それを覗き込む人がいて、彼らもまた世界の中の裂け目のようなものなのですが、両方がその場で共振することによってはじめてイメージが生まれる。もちろん作品も観客もモデルも交換可能で、でもそれらの組み合わせはひとつとして同じものはなく、そうして様々に生まれたイメージどうしの綾な関係がさらに共振を引き起こす。ノイズみたいなものです。「作品」というなら、ギャラリースペースも含めた空間というか仕組みというか、その全体で作品に「なる」わけです、ひととき。 で、ここで話の方向がズレるかもしれないんですが、実際に写真を見ててとても印象的だったのは、いくつかの耳にしてあったピアスでした。差異というには鮮明すぎるノイズのような気がしたわけです。この作品が今日的な「肖像画」であるなら、「耳」がそのモチーフとしてふさわしいのは確かでしょう。その持ち主の何かを反映している、が、それが何かはよくわからない、顔とか目とか口とか鼻とか体格とか手足とか、ほどは美醜や性格や制度性を見出せないものだから。ほどよい匿名性を持っている、というか。ところが、ピアスをしている耳というのはそのほどよさから離れてしまう。「装い」の温度、モノクロ映画の一部が突然カラーに切り替わった感じでしょうか。ちょっととまどいながらも、佐藤さんの作品というのはこれまでも、コンセプトとして示されたものと実際に作られたモノとの微妙な不一致があったなあ、と思ったものです。中野渡時代の「パイドロス」(逆送するカスタムバイク)とかもそうですが、作品の方が色っぽいんです、ありていにいえば。 というわけで、佐藤さんは11月からの府中市美術館での展覧会にもこのシリーズを出品するということなので、引き続きを覗き込んでいきたいなと、思いました。
[もうり よしつぐ] |
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