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「サイト―場所と光景」〜写真を見る経験について
梅津 元[埼玉県立近代美術館] |
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東京国立近代美術館で開催された「サイト―場所と光景」を見た。興味深い展覧会だった。タイトルが示すように、「サイト」という言葉は、「site=場所」と「sight=光景」のふたつの意味で用いられている。カタログのテクストによれば、前者の「site=場所」には、撮影された「場所」のみならず、美術館という写真と向き合う「場所」を問う意図も込められている。筆者にとって、これは極めて重要なテーマである。それを説明するには、写真の展覧会からたびたび感じる、ある満たされない感覚について述べなくてはならない。もう10年以上も前から続いていることなのだが、美術館で開催される写真の展覧会を見に行くと、なぜだかひどく疲れてしまうことが多い。といっても、それは展覧会としての良し悪しとは直結していないし、展示された写真に対する評価とも別の次元の話である。筆者は写真という媒体には積極的な興味を持っているのだが、にもかかわらず美術館で写真の展覧会を見ると満たされない感覚を覚えてしまうことが多く、いつしかそのことについて考え込むようになってしまったのである。 ※ この満たされない感覚について改めて考えてみると、写真をめぐるいくつかのごく一般的な事柄に思い当たった。まずは写真が受け手に暗黙のうちに何らかの意味内容の読み取りを要求しているのではないかという問題がある。ドキュメンタリーや報道写真などの具体的な目的を持った写真に限らず、多くの写真はその意味を読み取られることを期待しているように感じられ、見る者に無意識のうちに負担を強いているのかもしれない。次に、写真の展示という問題がある。写真に限らず版画にも共通することであるが、もともと複数性を備えた作品や、印刷媒体で発表された作品を、美術館という場所に展示することから生じる違和感を覚えたことのある人も多いだろう。もちろんそんなことを言えば、ほとんどの美術作品はそれが本来帰属していた場所や条件から引き離されて美術館という制度的な空間に置かれることで展覧会が成り立つのであるが、おそらく写真はその画像を支える物質的な基盤が他の媒体よりも希薄であるがゆえに、展示空間において見ることがより強い違和感を生むことが多いのだろう。最後に、上述した問題を含めて、写真を美術館という場所で見せるということが充分に自覚されていないか、あるいはその自覚が展示に充分に反映されていないのではないかという問題がある(美術館に勤務する人間としてこれは他人事ではないが)。もちろん他にも色々と原因は考えられるが、あの満たされない感覚をもたらす要因は、おおむねこの3点に集約できるように思う。そして、こうした問題について考えることが多かったため、美術館という場所で写真を見ることを問う「サイト―場所と光景」は、筆者にとって特別に興味深い展覧会であったのだ。 ※ 展示を見た率直な感想を述べれば、あの満たされない感覚にはさほど悩まされずにすんだものの、設定されたテーマと出品作家の選定には微妙なズレが感じられた。しかし、鈴木理策と横澤典の作品と展示から、あの満たされない感覚を払拭する充足感が得られた(ただし本展を見る前からこの二人の写真には関心があった)。そこで以下ではこの二人の作家の作品と展示について考えてみたい。 ※ こうした展示の成果は、美術館で写真を展示することに対しての自覚という本展のテーマが、具体的な展示に反映した結果と見なすことができる(ただし作者の意図と企画者の意図を判別するのは困難である)。本展全体に関していえることではないのだが、少なくとも鈴木理策と横澤典の二人の展示に関しては、それが作者の意図か企画者の意図であるかは別として、作品の魅力をひきだす展示が実現していたとみなしてよいだろう。二人の写真は、日常的な生活においてはその能力のごくわずかしか行使されていない視覚という感覚器官の潜在的な能力をひきだすものであったという点では共通しており、それぞれの展示は、ひたすらに見ることを要求するその画像の前に見るものを長く佇ませることに成功していた。撮影された「場所」が、時間的にも空間的にも隔たった「場所」である美術館で「再現」されるのではなく、その写真が美術館の展示室において「現前」し、全く新しい時間と空間の経験を可能にする。そうした「場所」に身を置くことができれば、筆者を悩ますあの満たされない感覚も自ずと解消されるにちがいない。
[うめづ げん] |
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