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中村屋サロン

Nakamura-Ya Salon
更新日
2024年03月11日

明治期末から大正期にかけて、新宿中村屋の創業者である相馬愛蔵とその妻・黒光(本名・良)の周りに集まった芸術家たちの交流を指す。1908年に、愛蔵と同郷の彫刻家・荻原守衛(号・碌山)がヨーロッパから帰国し、新宿中村屋の近くにアトリエを構えたことに始まる。荻原を慕う若い画家・彫刻家たちに加え、パトロンである相馬夫妻の関係する文学者や演劇関係者たちがジャンルや国籍を越えて交わり、そのなかで傑作が生まれ、夭逝や恋愛などロマンチックでスキャンダラスな出来事が幾つも起きた。特に、荻原の遺作であり第4回文展三等賞に浴したヌードの彫刻《女》(1910)は、荻原の黒光への秘めた思慕が表われたとされる。また、洋画家の中村彝は、新宿中村屋で出会ったロシアからの盲目の亡命詩人をモデルに《エロシェンコ氏の像》(1920)を制作した。これはレンブラントとルノアールの表現を咀嚼し、半透明の層を重ねた独自の暖かみのある表現に至り、大正期の洋画を代表する作品となっている。中村彝はまた、黒光の娘・俊子をヌードモデルにした作品を制作し、やがて恋愛関係になって求婚するも黒光に拒まれた。その後、俊子は、インドから亡命した革命家のラス・ビハリ・ボースと結婚した。新宿中村屋に関わった美術家としてはほかに、同店の現在も使われるロゴマークを揮毫した画家の中村不折、彝とともにエロシェンコを描いた画家の鶴田吾郎、夭逝した彫刻家の中原悌二郎と戸張孤雁などがいる。ほかにも、相馬夫妻の子どもを教えたことがある美術史家の會津八一、女優の松井須磨子、評論家・社会主義者の木下尚江と秋田雨雀といった多彩な人々が、ここに関わり、さまざまな人生の交差する場となっていた。

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補足情報

参考文献

『中村彝の全貌』展カタログ,茨木県立近代美術館、愛知県美術館ほか編,中日新聞社,2004
『中村屋のボース インド独立運動と近代日本のアジア主義』,中島岳志,白水社,2005