日本美術院/再興日本美術院
- Nihon Bijutsu-in/Saiko Nihon Bijutsu-in
- 更新日
- 2024年03月11日
明治から続く日本画団体。公募展の略称から院展とも呼ばれる。日本美術院は、1898年、東京美術学校を辞職した岡倉天心(覚三)を中心に、同じく美校を辞職した橋本雅邦、横山大観、菱田春草、下村観山ら26名によって、在野の美術団体として結成された。日本画、彫刻、工芸の分野を擁し、また仏像修復を行なう機関でもあった。大観らは朦朧体に象徴される日本画の革新を行なっていたが、後に経営難となって、1906年に茨城県の五浦に日本画の研究所を移し、対外的な活動をほぼ休止した。天心はアメリカと行き来しながら、この地で海を臨む場所に六角堂を建て、大観、春草らは貧しさに耐えながら研鑽したといわれる。13年の天心の死去を機に、翌14年に大観、観山が中心となって再興日本美術院を結成した。再興院展では、洋画部(20年まで)、彫刻部(61年まで)も設けられた。日本画部では、小川芋銭、安田靫彦、今村紫紅、速水御舟などが、大正期に新南画と呼ばれる動向を起こした。洋画部では、小杉未醒、村山槐多、柳瀬正夢などの表現主義的絵画も含んでいた。彫刻部では、平櫛田中が知られる。戦後は小倉遊亀、平山郁夫らによって大衆的な人気を集めた。
補足情報
参考文献
『日本美術院百年史』全15巻,日本美術院,1989-1999
「日本美術院創立100周年記念特別展 近代日本美術の軌跡」展カタログ,東京国立博物館,1998