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美術家の節操論争(戦争画論争)

Bijutsuka no Sessou Ronsou(Sensouga Ronsou)
更新日
2024年03月11日

太平洋戦争の敗戦直後に起きた、画家たちの戦争責任をめぐって交わされた論争。その後の影響も含めて「戦争画論争」と呼ばれることもある。この論争は、1945年10月14日の『朝日新聞』に、画家の宮田重雄が「美術家の節操」と題した一文を寄せ、戦時中ファシズムに便乗した画家たちが今度は進駐軍に取り入ってその将兵と家族を慰安するための展覧会を開こうとしていると批判し、戦争画を描いた美術家は謹慎すべきだと訴えたことに始まる。これに対して、鶴田吾郎と藤田嗣治が『朝日新聞』(同年10月25日)に宮田の事実誤認を指摘し画家に戦争責任はないと抗議し、伊原宇三郎が雑誌『美術』(同年11月号)でこの議論を「ゲームセット」して前向きに進むことを訴え、さらに宮田が『美術』(同年12月号)で釈明と再反論を行ない、論争は終結した。直接的な論争としてはただ責任をなすりつけ合っただけで立ち消えになったが、当時「一億総懺悔」として戦争犯罪者の糾弾が国家全体で行なわれているなか、井上長三郎の《東京裁判》(1948)など戦争を糾弾する絵画が多く描かれ、左翼的な日本美術会が美術家の戦争犯罪者リストを作成していた。同会の代表として内田巌が藤田に戦犯として自粛を勧告したこともあり、藤田が49年に日本を捨ててアメリカ経由で渡仏する一因ともなった。

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参考文献

『続日本近代美術論争史』,中村義一,求龍堂,1982
『藤田嗣治 作品を開く』,林洋子,名古屋大学出版会,2008
『戦争と美術 1937-1945』,針生一郎監修,国書刊行会,2007