見る権利
- right to know
- 更新日
- 2024年03月11日
富山県立近代美術館事件における裁判において、原告が打ち立てた基本的な主張。鑑賞者にとっての「鑑賞する権利」、あるいは美術家にとっての「鑑賞してもらう権利」とも言う。原告は、日本国憲法第21条で保障された表現の自由および知る権利を背景にしながら、原告には公開を原則とする公共の美術館が収蔵した作品を鑑賞する権利があり、当該事件においてその権利が侵害されたと主張した。ところが、表現の自由および知る権利を、具体的に保証する法律や規則は、ほとんど見当たらないため、「鑑賞する権利」を裁判上で証明することはきわめて難しい。ただし、「特別観覧制度」という条例に、辛うじて作品へのアクセスの権利が明記されていたため、原告はこの「特別観覧制度」を憲法上の知る権利にもとづくものとして位置づけたうえで、その権利侵害を訴えた。司法判断の多くは、具体的な権利は具体的な法規定がなければ認めない傾向がある。法律、条例、規則などに国民の権利義務が明記されていることを重視するのだ。逆に言えば、そのような明記があってはじめて、該当する権利を制約する行政処分も成立する。本件の第一審の場合、当該作品の非公開については、その権利が「特別観覧制度」に明記されているがゆえに、その権利侵害を認めたものの、当該作品の売却、焼却については、そもそも利用者の権利を明記した規則が存在しないため、その権利は保障されないとした。作品の売却と焼却が、その非公開よりも比べ物にならないほど損害が大きいことは明らかだとしても、権利が明文化されていない以上、「見る権利」は保障されないとしたのである。こうした司法判断には、むろん問題点が多い。第一に、作品の売却や焼却に一定の合法性を与えかかねないこと。この判例が前提とされた場合、社会的政治的な議論を呼びかねない作品は、非公開にして保持するよりも、売却ないしは焼却により処分してしまったほうが、論理上、違法性が少ないことになる。原告の一人、小倉利丸は「これでは、臭いものには蓋どころか、問題を引き起こしそうなものは焚書にしても一向に違法ではないという、到底認めがたい理屈を正当化してしまうことになる」と警鐘を鳴らしている。第二に、権利の認定に明文化を条件づけるならば、見る権利をはじめ、表現の自由や知る権利、そして美術館の自立性という美術や芸術の現場にとって必要不可欠な理念は、少なくとも司法の現場においては権利として認められなくなってしまうこと。本件の上告を棄却した最高裁が、本件をあくまでも地方自治法上の物品処分をめぐる争いとして矮小化した上、憲法判断は不要と判断したように、美術や芸術のような明文化されにくい権利は、司法制度においては著しく弱い立場にあると言わざるを得ない。必要なのは、表現の自由をはじめ知る権利、見る権利を具体的に保障する制度である。美術家の創作活動は、鑑賞者によって見られ、批評されてはじめて作品として成立するのであり、それゆえ表現の自由には作品を創作する権利だけでなく、作品を鑑賞する、ないしは鑑賞してもらう権利も含まれるということ。これを社会に認定させる不断の努力が必要である。だが、たとえば日本図書館協会が策定している「図書館の自由宣言」のような権利保障のための自主的なルールを、日本の美術館行政はいまだに確立しえていない。
補足情報
参考文献
『カルチャー・クラッシュ』,小倉利丸,社会評論社,1994
『富山県立近代美術館問題・全記録──裁かれた天皇コラージュ』,富山県立近代美術館問題を考える会編,桂書房,2001