没骨/朦朧体
- Mogu/Morotai
- 更新日
- 2024年03月11日
没骨(もっこつ)は東洋絵画の技法のひとつで、筆線でくくった輪郭を用いずに、モチーフの形態を直接に彩色または水墨で描くもの。 朦朧体は明治期の日本で試行された日本画の画風で、空気や光線などを表現するために、輪郭線を用いずにぼかしを伴う色面描写を用いるもの。
没骨は中国北宋の花鳥画家・徐崇嗣の作品を特徴づける技法として評されたのが語の初出とされる。この技法は、当時の宮廷画院の主流であった鈎勒(モチーフの形態の輪郭を筆線でくくる技法)による花鳥画とは対照的な、新しい造形表現として成功を収めた。没骨はその後、常州花鳥画と呼ばれる地方流派、藻魚図や蓮池水禽図などで用いられるようになる。明末には、六朝の張僧繇や唐の楊昇が没骨の着色山水を描いていたとする認識に基づき、倣古作として没骨の着色山水が描かれた。清初には惲寿平が、没骨を駆使して自然主義的な花鳥画の制作を行なった。 一方で朦朧体は、岡倉天心の指導のもと、横山大観や菱田春草ら日本美術院の画家たちが、西洋画風の大気描写を日本画の新しい表現として実現させるために始めた実験。こうした試みは、混濁した色彩による曖昧模糊とした画風や、当時は日本画を東洋絵画たらしめる前提と認識されていた墨線を否定したことが批判され、日本では非難と揶揄も込めて「朦朧体」「縹緲体(ひょうびょうたい)」などと評された。しかし大観らは、琳派などの古美術研究や、欧米滞在中の西洋絵画学習などを契機に、水彩的表現をとることで朦朧体の色彩混濁を解決し、その後は筆線よりも色彩を重視する方向性を洗練させ、明治末頃には琳派的な新画風を創出していった。朦朧体の典型的な作品には、横山大観《菜の葉》(1900)、菱田春草《王昭君》(1902)などがある。
補足情報
参考文献
『中国絵画のみかた』,王耀庭(桑童益訳),二玄社,1995
『世界美術大全集 東洋編第9巻』,中野徹、西上実編,小学館,1998
「天心と五浦の作家たち 茨城県天心記念五浦美術館開館記念展」カタログ,茨城県天心記念五浦美術館,1997
「没後50年 横山大観 新たなる伝説へ」展カタログ,国立新美術館、横山大観記念館、朝日新聞社、古田亮編,朝日新聞社,2008