2019年11月15日号
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Dialogue Tour 2010

第4回:CAAK Lecture 35 中崎透「遊戯室について」@CAAK[プレゼンテーション]

中崎透/鷲田めるろ2010年10月15日号

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スランプでも発表するスペース

中崎──このころはおもに看板の作品をつくっていて、作家として作品を成立させるための最低限必要なこと/常識的なことができるようになってきたかなという時期だったと思います。ただ、看板作品と言っても、そこはなかば口実だったりして、学校名儀のステカン(捨て看板)を街中にゲリラ設置していったり、キャンペーンガールにビラまきしてもらいつつ街頭宣伝してみたり、隅田川のほとりで企業メセナを考えるビールかけをしたりといったことをしていました。興味の始まりは看板だったのはたしかなのですが、そろそろ看板屋の看板を外しても作品がつくれるかなあ、とちょっと“もじょもじょ”していたころだったかもしれません。よく言われることですが、美術作家は25歳くらいまでは「ここをこうすればよくなる」ということがわりとわかり易くて、迷いなくつくってどんどんよくなっていけます。そのあと、一通りいろいろできるようになってからは、たまにスランプを経験しながらよくなっていくものなのですが、そうしたスランプに陥って下がっているときでも作家は絶対つくらないといけないんです。「試して、失敗して、パーッと開けて、よくなる」が1ターンというか、とにかく上がったり下がったりが交互に繰り返されて、それがずっと続きながら作品ができていくような状況が、じつは作家の健康的な状態なのかなとそのころから感じはじめていました。だからそんなサイクルのなかで、「中崎透遊戯室」は、停滞期のときの作品を積極的に発表できるスペースになったらおもしろいなと思っていました。「これは人に見せられない」と思っても、アトリエの壁よりももう少し人目に付く壁に掛けてみて、誰かと話すような宙ぶらりんな空間というか。それは、ギャラリーでも、美術館でも、自分のアトリエの壁でもないような場所で、それは僕自身にとっても、たぶん身近な同世代の作家にとっても必要としていたスペースで、いろいろな人に声をかけながら展覧会の企画をしました。でもそういうふうに思っていても、実際は悩んでいることをそのまま出すわけがなくて、みんな本気でつくってしまうので、学校の中なのに、外のギャラリーよりも気合いの入った展覧会をしてくれる人もいました。結局、この場所は2004年のはじめから準備を始めて、2005年の年明けにオープンして、僕が博士課程に在籍していた2007年の1月までに、20本の企画展をやりました。平日は毎日オープンしていて、僕が店番をして、論文を書くつもりが少しだけあったので本を読んだりしていました。お金はないので、「1万円だけ出すからDMは自分でつくってください」と依頼して、2年間で20万円で運営していましたが、20万円で1週間ギャラリーを借りるよりも有益だったのではないかと思っています。
 振り返ってみると、大学に戻ったこの2004年の春くらいは、ちょうど看板作品を一通りやりきった感があったころで、興味の中心をとらえるのには看板っていうモチーフが少し窮屈になってきていて、ちょうど時間に余裕もできたし学生なわけだからいろいろ試すぞと手をつけ始めたのが、中崎透遊戯室とこれから話す居酒屋の中人のプロジェクトです。場所や人がそこへ接続することの興味、ゆるさや仮設性と継続性だったりとか、いまの活動に繋がるソースがほぼ同時に出始めています。ちなみに、同級生の写真家の下道基行と始めた、戦争遺跡の再利用を考えるプロジェクト「Re-Fort PROJECT」の1回目をやったのもこの年の夏でした。

“おもてなし”の場所

中崎──博士課程在籍中に、居酒屋「中人(なかんちゅ)」というプロジェクトを始めました。きっかけは大学の学園祭です。大学院生や助手といった、大学の「大人たち」が、本気で居酒屋をやって遊ぼうということで始めました。昨日飲みに行ってたまたまわかったのですが、中人のDMに使っていた写真は金沢の新天地商店街の入口、そこのお店の看板を勝手にCGで「中人」に描き換えたものでした。2004年の8月くらいの写真です[図8,9]
 中人では、10人ぐらいのチームで居酒屋をやりました。中に「小人(こいんちゅ)」というしょぼいステージがあって、そこでやっている手品や芸にもならないような出し物みたいなことをしているコーナーで、それを肴に酒を飲んだりしていました。もうひとつ2畳ぐらいの「大人(おとんちゅ)」という大人向けのバーがあって、当時助手をしていた彫刻家の深井聡一郎さんがいかついマスターをして、学祭なんですけど、チャージ込みで一杯2,000円くらいするいい日本酒なんかをおいて、骨董の器で高級珍味を出していました。教授だけが飲みに来るような大人バーとゆるい小人ステージと普通の居酒屋の中人がひとつのテントの中にあって、大人の節度を持って子どものようにはしゃぐといったコンセプトで、大人小人がぐちゃぐちゃになって飲んだくれる場所をイメージしてつくっていました。
 これは、パーティやレセプション的なもの、もしくは茶会などの“おもてなし”の場所です。僕らにとって、“おもてなし”のリアルな形態は居酒屋なんじゃないかと。このときはシリーズ化すると思ってやっていなかったのですが、その後の“場をつくるプロジェクト”のきっかけになりました。


8──中人のDM(2004)
9──中人(店舗外装、武蔵野美術大学、2004)

水戸での遊戯室

中崎──博士課程が満期退学になって2007年の10月に実家がある水戸に拠点を移しました。ちょうど、有馬かおるさんという作家が、2007年の初めに、「夏への扉──マイクロポップの時代」という展覧会への参加をきっかけに水戸に移住してきました。もともと愛知県の犬山というところで10年くらい前から安アパートを大家さんの許可を得て又貸ししながら、キワマリ荘というというオルタナティブスペースを運営されていた方です。水戸でもやっぱり大家さんと仲良くなって、非常に安い物件を見つけて、そこを「水戸のキワマリ荘」として、2007年5月くらいから始めていました。その後、いろいろ事情があって、自宅兼キワマリ荘だったのが、歩いて1分くらいのところにギャラリーだけ引っ越すことになって、キワマリ荘を継続的に借りてくれる人を探しているタイミングのときに僕が水戸に戻ってきたわけです。水戸ではスペースをやるつもりはなかったのですが、キワマリ荘は、水戸芸術館と水戸駅の中間ぐらいのすごくいい立地なので、すぐに「じゃあ、僕がやります」みたいな感じで借りることにしました。
 いま遊戯室を一緒にやっている遠藤水城くんとは、僕が水戸に帰る半年前くらいに初めて会って、そのうち一緒になんかやれたらいいねという話をしていました。遠藤くんは当時、福岡が拠点で、助成金でニューヨークに半年ぐらい行っていて、ちょうど僕が水戸に戻るときに茨城で仕事をすることになったっていうメールが来て、いいタイミングだったので「一緒にスペースやらない?」と誘いました。遠藤くんが2007年からディレクターを務めることになっていたARCUSのある守谷市は、水戸からはちょっと離れているんですけど、「1万円で別荘が持てるよ」みたいなことを言ったら「いいよ、やるやる」ということになって、二人でスペースを始めることになりました。

 これがキワマリ荘の全体です[図11,12]。この一部を「遊戯室(中崎透+遠藤水城)」が間借りしています。もとは民家でしたが、天井をぶち抜いたので、屋根までが3.6mで、ちょうど空間の奥行き・幅・高さが同じくらいの変形の立方体のような空間です。窓がありますが、ホワイトキューブに近い状態の8畳間です。隣に4畳半の部屋があって、そこにベッドを無理矢理ねじ込んで、テーブルも入れて事務作業ができるようにして、ちょっとした仕事場のような場所として使っています。
 キワマリ荘は現在、ほかに地元の茨城大学の4年生の寺門陽平くんが、3畳ぐらいの白壁のところでAFAというスペースをやっているのと、水戸に住んでいる五嶋英門さんというアーティストの方がSPAMというスペースやっています。残りの1部屋はデザイナーさんが事務所として使っていて4組のシェアハウスになっています。


10──遊戯室、オープン時の集合写真(水戸、2007)


11──キワマリ荘、入口のこたつ(水戸、2007)
12──同、共有リビング

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  • Dialogue Tour 2010とは

中崎透

1976年茨城県生まれ。美術家。武蔵野美術大学大学院造形研究科博士後期課程満期単位取得退学。現在、茨城県水戸市を拠点に活動。言葉やイメージと...

鷲田めるろ

1973年生まれ。キュレーター。元金沢21世紀美術館キュレーター(1999年〜2018年)。第57回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展日本館...

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